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Since I am near slain



人々はこのオスカー・フォン・ロイエンタールという男を見た瞬間、こんな美しい男を見るのは初めてだと考える──だが、本当にそうだろうかと思い返す。ある人間が端正で、しかも死人のような顔をしていると言ったら、酷く矛盾した表し方に聞こえるかも知れないが、これは事実であった。彼の顔は骨の上に皮膚が異常な程に張り詰めたような印象だが、その骨格はとても美しいものであり、痩せた顔の、顎と頬と額の輪郭はブロンズの彫刻を思わせるものだった。そして、この面長で日焼けのしていない顔の中には、人々がこれまで見た事もない程に聡明で情熱的に輝く青い目と、憂悶と憤懣に翳る黒い目があった。ロイエンタールはその二つの目を、頭上に存在し、生きとし生けるものの視界を展開させている眩い光に、すうっと細めさせた。同じ地の数メートル先に立っている一人の男の腰にはブラスターが黒い光を放っていた。青い目の父親と母親、そして異なる色、黒い目の愛人。大きな何かが欠落した遺伝子が作る血、その血が幾多もの細胞の下を流れ、定めに従い、俺をこの通り生き長らえさせている。眼前の男、その容姿その能力、全てに於いて俺の方が優っているが、遂に一人の女の為に死なねばならないか。たった一人の女の為に。ロイエンタールは男を挑発するように、その顔立ちが得意とする微笑を浮かべた。それを見た男の利き手は今にもブラスターを握り、一発といわず何発も、ロイエンタールの身体に撃ち込もうとしていた。一方で、彼はブラスターの方へ意識を向けながらも、二つの目は男を映しながらも、魂は全く別の方へと向いていた。俺は貴様の女を手に入れたようだが、俺はその女を愛した事はない。俺の口は威厳を保つ為に容易に愛を囁くような事はせず、だが俺の腕は凡ゆる女の為に常に広げられているというだけの事だ。だが俺はたった一人の女の為に死なねばならないか──ロイエンタールの心にはただ一つの影が存在した。彼の心を恋というもので縛り付け、その影が持つ淑やかな手によって意のままに、その縄は絞められ緩められた。絞められた時というのは彼女の姿を想起する時であり、また、緩められた時というのは彼女の姿を実際に見た時であった。サラ・バラデュール。その名が持つ独特の響きを心の内で鳴らすと、決まってそれは彼に大きな狂気を与えた。ロイエンタールは、自身の心は既に狂ってしまっていると自覚していたが、彼女の名を唱えた途端、癒え掛けていた傷が左右へと開いて外の空気を吸い、際限なく痛み続けては新たに狂って行くのを感じた。ブラスターの傍に下げてある利き手、すっかり脱力した五本の指が自ずと震えた。あれは確かに、逆らえぬ運命という大波であったのだ──彼はふと思った。いや、運命が俺の手から攫って行ったのではない。そもそも俺は、彼女の手やら腕やらを初めから掴んでなどいなかったのだ。彼は心臓が破れる音を聞いた。しかしそれは一思いに破れるのではなく、何時間も何日もゆっくりと破れ続けるのである。その音を聞いている内に、微塵も動かぬ魂をそのままに、ロイエンタールは軍人への道をただ一人歩んでいた。その道中、左右へ寄り道をする脚をそのままにしている内に、異性に対してのある種の憎悪が胸の内に備わってしまったのである。サラ・バラデュールという名と共に。
「何やら誤解をしているようであるから一つ言っておくが」
「ほう、直に訪れる死に怯んだか、ロイエンタール」
「女と勝利は、先方から俺のところへ擦り寄って来るのだ。呼びもせんのにな」
しかし一方でロイエンタールの激しい恋慕の情は、サラの姿を脳裡に思い浮かべた程度で癒される筈はなく、そうして彼女を想えば想う程、彼の満たされぬ欲望は、弥増しに深く激しくなって行くのであった。俺は永遠に手に入れる事の出来ぬ女を愛し、俺の口はあの女の為ならば愛を囁く事をするであろう。また俺はあの女の為ならば……。一人の男、軍服を見に纏い、生まれながらにして非のない称号と品格を持つ男。そしてその男の隣を歩く一人の女。扉一重の声を聞き、眼前一尺の姿を見たとしても、ロイエンタールとサラとの間には無限の隔たりがあった。例え彼女の身体が其処にあろうとも、掴む事も抱く事も、触れる事さえ全く不可能であった。しかも、彼にとっては永遠に不可能な事柄を、その一人の男は彼の眼前で、さも無造作に、自由自在に振る舞っているのだ。ロイエンタールがこの世の常ならぬ、無惨な呵責に耐え兼ね、遂にある恐ろしい考えを抱くに至ったのは真に無理もない事であった。それは実に、途方もない、狂気染みた手段であったが、それがたった一つ残された手段でもあったのだ。それを他にしては、彼は永遠に、彼の恋を成就させる術はなかったのである。ロイエンタールの二つの目は、決闘相手の歪んだ顔など映る事をしなかった。青色の血が通ったものと、黒色の血が通ったものは、死を彼自身を通して、またサラを通して見ていた。俺を殺すが良いさ。俺は死を歓迎する。この世に未練などない、彼女を伴侶と出来ぬこの世から解放されるのであれば、俺は嬉々として死を受け入れる。最も、俺の死がこの世に何の変化も齎す事はない、彼女の魂に何の作用も及ぼす事はないが。ロイエンタールの頭上には斜めに射し込む光があった。大聖堂の調べの重みの如く、それは人間の心を圧し、天上の痛みを、それは我々人間に与える。傷痕は見付からず、ただ心の内に変化が生じ、其処に意味があるのである。人間の誰も、それを教えられる事はこれっぽっちもない。それは絶望の印形であり、空から送られて来た荘厳な苦悩である。それがやって来る時、風景は耳をそばだて、物影は息を凝らす。しかし、ロイエンタールの身に死が訪れる事はなかった。意識する間もなく、彼の利き手はブラスターへと流れ一発、無機質なそれから色を帯びた光を放つという事をした。片脚を撃たれた相手の男が地面に崩れる様を見て、初めて意識がロイエンタールの元へと舞い戻ったのである。構えを取っていた片腕の一直線上には血の海、本来であれば彼自身から外へと流れる筈であったものが広がっており、また、本来であれば彼自身の頭を貫通させる筈であったブラスターが男の傍に虚しく転がっていた。何と惨めな男であろう。女を取られた挙句、元凶に脚を撃たれる、これ程に惨めな男がこの世にあろうか。そこでロイエンタールは思わざるを得なかった。死を望むのであれば、他でもないあの女の為に死せよ、との啓示が今正に、この俺に齎されたのではないか?俺の心はこのように死に掛けているというのに、未だ天上は受け入れる事をしない。惨めな男というのは彼奴ではない、この俺だ、死を望みながらも運良く生き長らえ、変わらずこの胸に一つの名を抱えている、この俺だ。途端、ロイエンタールは死人のような表情を浮かべると、役目を果たしたブラスターを腰に戻した。決闘による死でサラの名を忘れる事が出来ると思っていた彼であったが、その望みは潰えてしまった。

逆らえぬ運命の大波──サラは悪しきゴールデンバウム王朝を象徴する門閥貴族の生まれであった。ロイエンタールと歳が近く、彼が幼年学校を卒業し、士官学校へ入学するまで二人は幼馴染みとして育った。軍人への道を歩み始めた彼は、どのような場面に於いても特別扱いをされる門閥貴族への苛立ちを胸に刻みながらも、会う事がめっきりと減ってしまったサラへの想いは依然として胸の内にあった。例え門閥貴族であろうとも彼女だけは周囲と異なる存在であり、善良で廉潔な魂は彼女ただ一人の為にあった。しかしロイエンタールは下級貴族の生まれであった為に身分の問題が歴然と存在した。軍人としての権力と名声を手に入れる事が出来たら、必ずや彼女は自分のものとなるであろう、という希望に取り憑かれ、また、彼はゴールデンバウム王朝の崩壊をその手で助け、その目で見届ける事を決意した。しかし逆らえぬ運命の大波がロイエンタールの元にもやって来ると、彼の手からサラを攫って行った。彼女の婚約である。バラデュール家と血を交えるに相応しい、同等の門閥貴族の家柄との婚約が報されたのであった。
「右翼方向、少数による敵襲あり」
サラの隣を歩く一人の男、軍服を見に纏い、生まれながらにして非のない称号と品格を持つ男。ロイエンタールとサラとの間に無限の隔たりを作った男。例え彼女の身体が其処にあろうとも、掴む事も抱く事も、触れる事さえ全く不可能とし、しかも、ロイエンタールにとっては永遠に不可能な事柄を、その男は彼の眼前で、さも無造作に、自由自在に振る舞う事が出来る。それは正に帝国風といった、こざっぱりとした好男子であった。柔らかく渦巻いたブロンドの髪が帽子の如く額に被さり、綺麗に澄んだ空色の目を持ち、兎に角瑞々しい、ぱっと花が咲いたような雰囲気の青年であった。そして、痩けた頬と血の気のない顔は、門閥貴族の青い血脈が成す特徴であった。恐ろしい、物狂おしい憎悪が、突然ロイエンタールの胸に滾り返った。此奴だ、此奴が俺の対敵なのだ、俺を苦しめ、俺の生活を苦しめる男なのだ!しかもサラは俺に告白するのだ、ごく些細な事柄まで詳しく話して聞かせるように。俺の目をじっと見詰める彼女の美しい眼には、他所の男に対する彼女の愛がありありと輝いている事であろう……。敵襲を受けている右翼には彼女の夫が指揮する艦隊があった。ロイエンタールは眼前の大画面に三角形のものとして映るその小さき姿に瞳を転じた──神の与え賜うた寿命に甘んじ、それ以上を求めるな。他に求めるものがなくなれば人間は死を求めるよう出来ているのだ。大切にしている思い出の中にも、死や絶望や親しい者との離別など、嫌な事柄は幾らでもある。賑やかな通りには踊り子達が笑いながら群がり、松明の光と合唱の声に送られて花嫁が寝屋に向かう。だがその彼女にいつ死が訪れるか、誰にも分からない。生まれなかった事が最善だと古の詩人は言う。そもそもこの世に生まれて生きて行く事に何の意味があるだろうか。せめてこの世に別れを告げ死んで行くが良いのだ。真の軍人であるならば、戦死は本望であろう。今まで何一つ与えられなかったのだ。惨めな自分に彼女くらい与えられても罰は当たるまい──ある恐ろしい考えがロイエンタールの頭を過った。それは初めての事ではなく、幾度も同じ道を辿っては彼に知らせるものであった。それをたった今彼は無視する事をせずに、その考えを実行へと移そうとしたのである。一目見た際、その男もサラと同類の人間、善良で廉潔な魂を持つ稀有な人間である事は容易に看取出来た。正に門閥貴族という肩書きに相応しい愚劣な男であるならば、彼は納得したであろう。しかし彼女はその魂に相応しい、その魂に穢れ一つ与えぬ魂を愛したのである。自分のような男よりも、そのように異なる男を選んだ彼女の幸福は、何よりその男と結び付いており、二つの魂が共に存在して初めて幸福という名を付ける事が出来るのだ──途端、飛ぶような疾走が不意にロイエンタールの心を爽やかにした。戦艦内の空気はひんやりとしており、澄み切った闇色の宇宙には大きな星が輝いていた。それは嘗て彼が地に膝を突き、永久にこの女性を愛すると狂ったように誓い続けた、あの同じ夜であり、事によると同じ時刻かも知れなかった。しかし、ロイエンタールの心は乱れ酷く騒いでいた為に、様々な事が彼の心を責め苛なんでいたとはいえ、この瞬間には全存在が、彼の女神の方へ、ただサラの方へのみ、逆らう事は出来ぬ力で引き寄せられていた。今、彼の心は一瞬たりとも対敵への意識に燃えさえしなかった。この嫉妬深い男が、地の底から湧いたように不意に出現した人物、対敵である男に対し、今はもう些かの嫉妬も覚えなかったのである。他の誰であれ、そういった人物が現われたなら、彼は途端に嫉妬し、もしかすると恐ろしい手を再び血で染めたところだろうに、この彼女の最初にして最後の男に対しては、今こうして戦艦を静止し右翼部隊を見詰めながらも、嫉妬の憎しみはおろか、敵意さえ感じなかった。最も、この対敵とは未だ顔を見合わせ話をした事もなかったのである。この場合、議論の余地はない。そうだ、サラと男の当然の権利なのだ。これが彼女の最後の恋だったのだし、彼女は俺を忘れ男と結婚したのだからな。つまり、彼女はその男だけを愛し続けているのだ。それにも関わらず俺は、何だって俺は、そんなところへ割り込んで行こうとしたのか?この場合、俺なんぞ何だというのだ、一体何の関係がある?身を引くのだ、男に道を譲れ。それに今の俺は一体何か?今となっては、その男がいなくなろうとも、全て終わりではないか。例え男が現れる事がなかったとしても、俺という人間は彼女を幸福に出来はしない、どうせ何もかも終わりであるのだ……身を引け、道を譲れ。今のロイエンタールの決意もあの恐ろしい考えと同様、判断抜きに一瞬の内に生まれたものであった。先程の敵襲の知らせのところで彼女の夫の名を想起し、彼女を想起し、直ちに良心の上に生じた凡ゆる事態を承知の上で、あの恐ろしい考えを採択した自身の心を、彼は何より恐れた。しかし、折角の決心にも関わらず、やはり心は乱れ、苦しい程に騒いでいた。その決意は平静を齎してはくれなかった。余りにも多くのものが心に蟠り、苦しめ、それが彼自身でも不思議に思われた。何故ならロイエンタールは自分で、自己を処刑し罰すると認め、翌日の朝の最初の熱い光をどのように迎えるか決心もついていたのだが、それにも関わらず、心に蟠って苦しめる過去の全てを清算する事が、やはり出来なかったのである。彼は苦しい程それを痛感し、その思いが絶望となって心に突き刺さるのだった。途中、不意に、この状況をそのままに、火力が低く真面な指揮も取る事が出来ていない右翼部隊をそのままにしてしまおうかと思った一瞬もあった。しかし、その一瞬は火花の如く流れ過ぎた。敵艦隊が空間を貪り食いながらひた走っており、右翼部隊に近付くに連れ、またしてもサラ一人を巡る想いが益々強く胸を締め付け、他の一切の恐ろしい幻影を心から追い払って行った──ああ、例えちらとでも、例え遠くからでも、彼女を一目眺めたくてならない。今、彼女の魂は男と共にあり、男の帰還を望んでいる。今、彼女の魂は幸福と掛け離れたところにあるに違いない。また、男が再び彼女にその姿を見せると、彼女の魂は幸福と結び付く、それを見届けなければならない。俺に必要な事はそれだけだ。自己の運命にとって宿命的とも言えるこの女性に対し、これ程の愛が、これ程に新しい、未だ嘗て経験した事のない感情が、胸の奥から湧き起った事はこれまでに一度としてなかった。それはロイエンタール自身でさえ思い掛けぬ感情であり、この果てのない宇宙の中たった一人で消えてしまいたい程の、祈りに近い優しい感情であった。そうだ、消えてしまうのだ!突然、何か狂おしい歓喜の発作に駆られ、彼の心臓は打った。
「我が艦隊のみ右翼へ反転。陣形が乱れている艦隊の前へと出、一点集中にて敵を叩く」
「それは何故にでございましょうか。提督が直々に出向かれる事はありますまい」
「更なる損害を被るべきであると、卿は思うのか」
俺がこのようにあの男の命を守ったとしても、彼女に知らせが届く事はない、彼女の胸に俺の名が浮かぶ事はない。では何故そのような偽善染みた真似をするのか──いや、それは、既に分かり切った事ではないか。恐らく俺は最期まで、サラ・バラデュールという名を胸に抱き続けなければならぬ。幾度も捨てようとしたが、やはり俺には出来ない。俺から彼女を取り上げると、俺は一体何に成り果てるであろう。今でさえ、全く救い難い、悲惨な人間であるというのに。ロイエンタールは薄い唇の隙間から震えた息を押し出し、無慈悲に輝く星々の中に愛する女の明眸の面影を見た。残忍な月の女神の如く冷酷に育て上げられたのだとしたら……頬を赤らめて歩く姿が健康な乙女のように見えた為に、俺は彼女の身体が血と肉で出来ていると勘違いをしたのだとしたら。彼女の身体に手を伸ばそうとすると、そこには石の心臓がある。もしかしたら勘違いではと、俺は何度も確かめるのだがその度に思い知る。月の表面をなぞっているだけだと彼女が微笑すると、俺は唯の薄鈍に成り果て、あちこちを彷徨き周りながら、天体の運行より更に拉致もない思いに耽る内、彼女の姿は忽然と消えてしまう、そんな存在であるとしたら。ああ、本当に……サラは俺の事など何とも思ってはいなかったのだ。そう思うとロイエンタールは本当に惨めな気持ちになった。

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