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The look of death



咲き溢れる菖蒲の花弁が草の上に落ちるその音よりも、更に優しく聞こえる調べが此処にある。また雲母の煌めく山路、仄暗い花崗岩の重なる中にある渓流に、夜露の降りる音よりも優しく聞こえる調べが。また疲れた目蓋が目に落ち掛かるその幽けきよりも、更に幽けく魂に降り掛かる調べが。そして祝福満ちる大空から甘き眠りを運ぶ調べが、此処にある。苔は冷たく深く、苔の上には蔦が広がる。流れの中には葉の長い水草が揺らぎ、ごつごつした岩棚には芥子の花が眠るが如く咲き静まる──孔明は口を噤んだ。それは「何の病でしょうか」と恐る恐る口にした兵に、「全く見当も付かない」と事実を返す事が躊躇われた為である。典医の手により鼻と頭に包帯を巻かれた小雪を、孔明は相変わらず怪訝そうな面持ちで長い間眺めていた。彼は沈黙の中に姿を現した幾多もの知識を一つ一つ丁寧に見詰めて行ったが、やはり何も分からなかった。海馬に漂っているのは戦術や天候、そして薬草の事ばかりであり、彼は生まれて初めて自身の持つ知識に唸りを立てた。彼が俯瞰していた世界の上、彼の頭上には蒙昧なる世界が茫茫と広がっていたのである。彼女の顔から目を離さず黙り込んでいる間に、その唇には病的な痙攣が起こった程であった。
「孔明殿、これで血を拭って下さい」
何故に我々は重荷で苦しみ、身を切るような悲痛ですっかり消耗してしまうのか。他の万物が疲労から休息を得ているにも関わらず、何故我々のみが骨を折らねばならないのか。我々のみが骨を折るのだ、万物の霊長であるというのに。そしていつまでも呻き苦しんでいる。 絶えず一つの悲哀からもう一つの悲哀へと投げ込まれ、決して羽根を畳む事もなく、流離いの旅を止める事もないのだ。また我々の額を眠りの聖なる芳香の中に浸す事もなく、内なる魂の奏でる歌声に耳を傾ける事もないのだ。静穏の境涯なくして歓喜なし……何故齷齪するのか、万物の霊長たる我々のみが?
「ああ、」
孔明の手に付着した小雪の血は中々取る事が出来なかった。厚い皮膚に刻まれた小さな溝にすら彼女の血は滲み、それぞれの溝を一様に埋めていた。それに加え、彼の手には全く力が入らなかった。水を浸した布が鉛の如く重く感じられ、擦る指先は惨めに震えるだけであった──否、彼女が直ぐに死ぬとは誰にも分からないではないか。分からなければ、調べる他ありはしない──孔明は心に呟いた。しかしそのような励みも虚しく、彼の中にあった全ての喜びや自身に対する満足が一瞬の内に消え去った。私室に足を踏み入れた時、不意に何か氷のようなものが心に触れた。それは正しくこの部屋に現に存在し、また以前にも存在した、何かやり切れない程に疎ましい思い出であり、更に正確には警告であった。襲って来た目眩に、彼は床に腰を下ろした。気は病み、虚脱していくのが感じられた。いつもの癖で卓の上の書物で心を落ち着けようとしたが、全きの不安に駆られて立ち上がると、すっかりそれに飲み込まれた為に部屋の中を歩き出した。孔明は自分が魘されているような気がした。目頭を押さえ、再び腰を下ろすと、彼は何かを見つけ出そうとするかのように辺りを見渡した。今までも幾度かそんな事があったが、遂に視線が食い入るように一点に注がれた。彼は思わず嘲笑したが、血が顔を染めた。一体何によって自身の血が沸騰したのかは分からなかったが、彼は両手で頭をしっかり支え、卓の奥にある壁にある一点を睨みながら長い間座っていた。明らかにそこにある何かが、何らかの対象が彼を苛立たせ、不安にさせ、苦しめているのだった。

死の表情。四方八方それに囲まれ、またそれに幾度も塗れた関羽であったが、眼前の光景に思わず慄然とした。寝台に横たわっている一人の娘、そして地面へと垂れ下がった一本の腕の真下には雨漏りの如く溜まった黒色の水。今まで幾多もの人間の血を流させ、また自国の民の為に自身の血をも流して来たが、他ならぬ彼女が血を流さなければならぬ所以は一体何であろう。その姿は彼女と血を分けた人間が迎えた最期と同様のものであり、そこには関羽の脳裏に刻まれた死の表情があった。青色が差した肌の色、固く閉じた目蓋、大きく膨らむ事をしない肺。彼の顔の中で何かが歪み、震えたかのように歯の間から息を吐いた。ただ一つ、彼は今も尚その愛情と戦っていたにも関わらず、何としても自分の胸の中から取り除く事の出来なかったのは──永遠に小雪を失ってしまうかも知れないという、殆ど絶望的ともいえる哀惜の情であった。決してこの愛情を彼女に曝け出す事をしてはならぬと固く心に誓った。しかし彼は彼女の愛情を失うという哀惜の気持ちを、自分の胸から取り除く事も出来なければ、彼女と共に過ごした幸福の折々を、記憶の中から拭い去る事も出来なかった。常に自分の手の届くところにあったその幸福は、今ではその魅力の限りを尽くし、絶えず彼の心に迫って来るのだった。この世には生きるに値せぬ人間など五万といる。だがそなたは清く神聖な魂の持ち主であるのに死なねばならなぬ。関羽の露出した米神から痩けた頬、蓄えられた髭へと一つの赤色の筋が作られた。戦場から帰還した彼に届けられた知らせは、彼に敵の返り血を拭う事を失念させ、再び彼に死に対する恐怖、或いは渇望を想起させた。戦場を駆けていた時には恐れていた死が、途端、愛する者の胸に死が降り立とうとすると、その死が何故己に齎されないのかと羨み、強く握り締めて離す事をしなかった生が取るに足らないものに思われた。衣服や青龍偃月刀から滴り落ちた血は一定の小さな円を描き、彼が歩いた背後に痕を残していった。既にこの世に存在しない主の生命を稼働させていたもの、それらが彼の身体に纏われ、小雪の元へと辿り着く。しかしそれが彼女の内を流れる事、生命の一部となる事はなく、彼女を前にし、ただ主に訪れたものと同様のものを見ているのみであった。我に宿いし武神よ、我ただ一人に死と苦を浴びせよ。腐敗した血を我の中に流し、永劫を汝に与えよ。永劫を、汝に……。