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FOR A BARREN PASSION’S SAKE



死よりも恐るべきもの、それが遂に足音を立てやって来た。立ち止まろうとも、逃れる為に走ろうとも、それは変わらず耳元でその存在を示す。向き合い佇立している二人、ファーレンハイトとメルカッツの他には星々──それらは依然として変わりなく、燦として鎮まり忍ぶ星々があった。ある一人の若者による新しい時代の幕開けを、その四つの目は見る事となった。しかしそれと同時に、その二つの内一つの心臓は、未だ小さな影程しか生まれていない時代というものに呑み込まれつつあった。その情景を外から見ている一方の心臓はその影を払う事も、また、その影を止める事も出来ない。メルカッツの身体にはあの深い影が追い付き、影が持つ長い腕は彼の魂をすっかり握っている。ある星が放った煌めきがファーレンハイトの双眸に走り、その瞳の中で光芒を描いて見せた。あの日々を貴方はお忘れになられただろうか?我々の間に存在した愛を我々は会う度に葬り、また、我々は離れる度に愛を見出した。あの日々を貴方はお忘れになられただろうか、冷たい屍が眠る土の上に、花と草を積み上げたのを。嘗て満ち溢れていた喜びの花を、今も尚残る希望の草を。貴方は私に仰るだろう、過ぎた過去は忘れよと。しかし、過ぎた昔に仇を返す亡霊が、私の心を埋める思い出が、胸の暗い影を密かに過ぎる悔恨が、身の毛も弥立つ声で囁くのだ。失われた喜びは最早苦痛に過ぎないというのに。
「卿に恋人は」
「いません、不幸にしてしまいますから。それに、」
「それに?」
「私の命も然程、長くはないでしょうから」
ファーレンハイトは目蓋を少しの間、閉じたままにしていた。再びそれを開いた時には、先程彼の虹彩に映った光は消えており、代わりに本来の宇宙が持つ黒色の闇が其処で溶け合っていた。彼は自身の口から放つ言葉を選ぶ人間であるが、メルカッツを眼前にすると、言葉の裏に持たせるべき意味を失ってしまうのだった。貴方の御命をブラウンシュバイク公に捧げると仰るのならば、それも良いでしょう。どの道、私も貴方と同様の最期を告げる事となりましょうから……。嘗ては森も小川も大地も、目に映るありと凡ゆる光景が、ファーレンハイトにとって天上の光に包まれ、夢の中の栄光と瑞々しさの如く包まれて見えた。しかし今は嘗てとは異なる。何方を向いても夜であれ昼であれ、もはや今は嘗て見えたものを見る事は出来ない。花や草は美しく、月は喜びと共に、星の煌めく夜の湖は澄み渡り、日の出は生命に満ち満ちていたが、彼が赴くところ何処であれ、大地から栄光が消え去ってしまった。
「我々老いた貴族は時代を変える事が出来なかった」
「メルカッツ提督」
「今も尚我々は、卿のような若人を戦場へ送り出している」
「平和な時代であれば、私は戦場以外に生きる意義を見出せずにいる事でしょう」
冷たい空気と温かい空気の流れが、さっとファーレンハイトの頬を撫でた。小さな赤色の粒が無数に散りばめられた地面、虚空で停止した振り上げた利き手、痛みよりも更に鋭利に全身へと伝わった清らかな愛。この哀れな人間に与えられたもの、それは正にこの方であった。私には生以外に何も与えられなかった。しかしただ一つ、この方だけは私に与えられた。気高い精神を持つ人間を、このような私の眼前に示して下さった。私は彼の為に生き、また彼の為に死ぬべきであったのだ。金銀の光で織り上げ、刺繍を施した天上の布があれば。夜と光と薄明かり、青色と薄墨色と黒色の布があれば、その布を貴方の足元に広げただろうが、貧しい私には虚しい夢想しかない。私は恐怖の念を感じつつ貴方の足元にそれを広げた。そっと、私の夢想の上を歩いていた貴方が、遠くへ離れて行ってしまう。ファーレンハイトは胴体の両隣にぶら下がっている二つの手を密かに強く握り締めた。そうする事により、未だ自分が生きており、魂を崇めて来た人間の眼前に未だ立っているのだという事を認めたかった。しかし指先は壊死したように冷たいのにも関わらず、この方を覆っている影は何故、私の身をも覆う事をしない。直ぐ傍にいるのだ、この方と共に私の魂をも呑み込むが良い──私の魂は無慈悲に取り囲む雲の中で自由であり、私の愛だけはこの方の前に於いて自由であった。私からこの方を奪うなど不可能な筈である。人間に与えられた定めとは、何と無情なものか。
「貴方の意思を尊重します」
死よりも恐るべきものがファーレンハイトにはあった。それはメルカッツとの別離である。ファーレンハイトはその事を自覚してからというもの、終始深淵の傍をなけなしの力でもって歩いていたようなものであった。彼は常に怯え、自身の心が轟音を立てて崩れるところを、深淵の奥へと身を投じる事を恐れ、それは生きながらの死であるように彼には思われた。その事から彼はメルカッツを愛して止まない情動を幾度となく殺そうとしたが、結局、彼の眼差しからは一度も離れる事が出来なかった。貴方には現世を愛して欲しかったのです。現世を憎み、自分を憎み、生まれた事を後悔していた他ならぬこの私が、現世を愛し始めた事は誰にも否定出来まい。貴方と出会い、貴方を愛し、私は現世を愛するようになったのです。「我が不滅の恋人」と、貴方はこの唇に言わせました。どうかお許し下さい、全ては虚しい情熱にとらわれた故、私が持つただ一つの魂だけを、貴方の血とこの血の証とする他はない事を。ファーレンハイトは遂に、自身の心が轟音を立てて崩れるところを見、自身の心臓が破れる音を聞いた。絶えず呼吸をしていた永遠に若々しい力と喜び、異常な幸福は訪れた時と同様にして平凡に、何の騒ぎもなく、華々しい輝きも前兆もなく、突然に消え去ったのである。彼は正に色のない瑪瑙みたくなってしまい、一つの燃え盛る劫火が一体となった地空に放たれるのをその身に感じた。この方が私の眼前からいなくなられたら、私の中に存在しているあの精神世界のみが残る事となる。彼がこの胸に齎して下さった聖なる良心は、その源を失うと、一体どのようなものに成り果てるのか。
「ですが──とても別れが惜しい」
しかし貴方は御自身に相応しい死に場所を求めて来られた。その目に激しい苦悩の色を抱えながら生きて来られ、真の安らぎを求めて来られた。それが貴方の願いであるならば、私は嬉々として、その世界へ貴方を送り出しましょう。私のこの心の嘆き、貴方の為に生き、貴方の為に死ぬべきであったという嘆きを殺し、私は貴方を影へ差し出しましょう。ファーレンハイトは目を細め、僅かに微笑して見せた。彫刻宛らの、人間の手で直接に掘られたような明眸。たった一人の人間を映す事により、更に輝きを増す虹彩。我々は似てはいないが、音符のように互いの為に作られているのではなかったか?絶え間なく吹く微風に戦ぐ木の葉のように凡ゆる魂が震え、この上なく甘美な音を発する、不協和音のない変奏のようなものではなかったか?私も御供致します。次世代を率いる事となろう新しい皇帝に、共に、我々の死を捧げませぬか。ファーレンハイトはメルカッツの顔の中に、品位を揃えた威厳の閃きを見た。その幻影はファーレンハイトが以前にも感じ取り、そして悪い後味を残した、あの一種微妙な霊気を再び彼の血管に送った。
「卿に全きの新しい未来があらん事を。そして、未だ世に存在する古びたものを餞別としたい」
私は貴方に金より貴重な愛を与える、私は貴方に説教や法より前に私自身を与える。貴方は私に貴方自身を与えて下さいますか?貴方は私と共に生きて、また死んで下さいますか?この世で生きている限り、我々はしっかりと互いに結び付いているべきであると、私は思うのです。ファーレンハイトは嘗ての幸福の声が、メルカッツの目の中で消えて行くのを看取した。彼のその言葉の中に、ファーレンハイトの空想の焔を消し、その心から幻をすっかり追っ払うものがあった。如何に生きるべきかという問題が漸く幾らか明瞭になって来たかと思うと、忽ち解決の出来ない新しい問題、死が現われて来たのだった。一体どのようにして救いの手を差し伸べるべきなのか、また自分はこの問題について何を知っているというのか。未だ沢山話さなければならない事があった筈であるのに、言葉は何一つ語る事をしなかった。ただファーレンハイトの眼差しだけが常に、話さなければならない事を未だ話していないと語っていた。しかしどの道を辿ろうとも、着く先は同じである。彼は真っ蒼となり、破れた心臓諸共自制心も失われて行くような気がした。メルカッツと出会って以来初めての事であったが、ファーレンハイトは泣きたいという馬鹿げた気持ちになった。それはこの世には自分の居場所などないという事実を知らされたからであった。さらば、さらば我が不滅の恋人、我が全て、我が人生──。
「アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト、さらばだ」
私には無縁な事だ。そんな事は有り得る筈がない。思い掛けない大きな不幸の知らせを受けた人間のような、あの激しい胸の痛みをメルカッツは未だ鮮明に覚えていた。幸福の可能性なんぞ私にある筈がない。ましてや、この青年と共に掴む事の出来る幸福なんぞこの世の何処にあろうか。メルカッツはファーレンハイトが持つ名を、美しい響きを鳴らす名を最後に口にしたが、彼の前からは動く事が出来なかった。何故躊躇い、何故引き返し、何故怯むのか、私の心は。お前の希望は既に去った。この世の凡ゆるものからそれは過ぎ去った。今こそお前の去る時である。爽やかな大空は微笑し、微風は直ぐ傍で囁くが、光の元に存在するそれらはお前を引き寄せ、生命を枯らす為に反発するであろう。私を呼んでいるのは死だ、影の元へ急がねばならぬ、死が繋ぐものを生が裂かぬようにせねばならぬ。ファーレンハイトの眼差しには依然として愛があった。物言わぬ愛が善良な慎ましい眼差しの中にあり、その目の深い翳りを毅然と払っていた。メルカッツはこの瞬間のファーレンハイトが極めて美しく見えたのを、後々まで覚えていた。メルカッツはファーレンハイトの前から辞し、この賢い質朴な男はその愛、彼の心に呼び掛ける愛の想いに背を向けた。大気は清く、瑞々しく、許されざる限り澄み渡った空。幾多もの人間の魂が流れる一つの大宇宙、果てのない生命の和、そして自我を恐れ愛を知る我々。蒼ざめた水色の面影が頭の中にちらと浮かび掛けた。しかし静かに、苦であり愛である幻影にそっと息を吹き掛けると、消え飛んでしまった。

The Cinematic Orchestra - To Build A Home