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THE PALE WATERS IN THEIR WINTRY RACE



メルカッツはファーレンハイトの傍へ行き、丁寧に畳んであった傘を差し出しながら、ちらと彼の方を見た。樹木の下にいるのにも関わらず、未だに髪の間から縫うようにして雨の雫が垂れて来る。しかし彼がメルカッツの姿を二つの目で捉えてからは、米神から顎へと流れて地面に落ちる雫に構う事を失念してしまった。ファーレンハイトの水晶の如く透き通った水色の虹彩は、「今から貴方と私と、二人切りになれるのですか」と明瞭に言い表していた。しかし初めからメルカッツの顔には了解の色が現れていた。現さずにはいられなかったのだ。その訳が一体どの意味を含んでいるのかは、言葉にしてこそ相手に伝わるものであるが、この二つの人間にはそのような意思疎通が欠けていた。ファーレンハイトが傘を受け取ると、メルカッツは先に歩き出した。彼は一度も背後を振り返る事をしなかったが、歩む速度は一定を保ち続け、今し方の暗黙の了解を再び示した──豪雨に見舞われたのである。身体を鍛え走る為に宿舎を辞した時には既に空の雲行きは怪しかったが、例え降ってもまた走って帰れば良いと、ファーレンハイトは気にも留めなかった。しかし今日の雨は最初の数秒こそ優しかったものの、唐突に滝宛らのものとなって彼の身体を直撃した。遠方からは雷が破裂する音が響いており、この雨の中を走って帰るという気持ちはすっかり萎え、取り敢えず待つという事を試みた。樹木の下に設置されたベンチは水の膜を張っていたが、彼の身体で濡れていない部分など既になかった為、其処に腰を下ろした。真逆メルカッツが自分の姿を見付けるとは、そしてこのまま彼の屋敷へ招かれる事となるとは──メルカッツの吐息や琥珀色の目に接近する事を思うと、興奮が高まって来るのを覚えて当惑した。彼の皮膚に触れ、また心臓に触れ、あの清らかな魂を導く事が出来たら、その時私は一体どうなる?未だ泣き喚き続けている天と同様、ファーレンハイトの目にも深い翳りが差した。この方の魂を崇め始めてから、私は彼に何を求めたというのだ。何も求めまい、何も言うまいとして来た筈である。それはこの先に待ち構えている、目も当てられぬ惨憺な未来の事を思っていたからであろう。しかし今、私は何を考えた?その未来とは別に存在するかも知れない、幸福の可能性を私自身が信じたからではないのか?メルカッツは屋敷に到着すると、浴室にファーレンハイトを通した。彼は門閥貴族の屋敷に入った事は数回あったが、これ程に質素な作りの屋敷は稀有であり、メルカッツという人間はやはり他の貴族とは全く異なる存在であるという事を表していた。幸いシャワーの仕組みは宿舎のものと同様であったが、ファーレンハイトのような高身長の人間でも脚を伸ばす事の出来る程に大きい浴槽があった。彼には浴槽に浸かる習慣を持っていないが、湯が張られたそれを一度見ると、何となく彼は入らざるを得ない気がした。ファーレンハイトが身体を沈めると水面は上昇し、少しばかりの水が外へ溢れた。やや高い温度に早速目眩がし始め、また脚を伸ばす事が躊躇われた為、彼は膝を曲げて身体を丸くした。貴族はこのような時間を至福としているのだろうが、やはり自分には不要だな。浴室は広さこそあったものの、煌びやかな装飾は施されておらず、令夫人と御息女の所有物と見える物が肩を並べてある程度であった。その中にはメルカッツの物もあったが圧倒的に数が少なく、滅多に帰宅しない為に奥の方へと追いやられている。提督と拝され周りからの信頼も厚い御方が、この屋敷の中では立場が一番下とは……。ファーレンハイトは白い湯気の中でそっと微笑した。幸福という可能性を信じる事自体は罪ではない。しかしただ一つの事からは意識を遠ざけねばならない。それは、メルカッツという人間と共に幸福になるという可能性である。それだけは信じてはならない、そもそもそのような事は現には存在し得ない。現など自分は望んではいないと嘗て言った。今もその通りであると思っているが、このように眼前に、彼の魂を感じる位置に立つと、自分の心臓は鼓動の打つ毎に彼の方へと引き摺られて行ってしまう。ファーレンハイトは浴槽から出ると、脱衣所へと辞した。自分が求める彼との幸福とはこのような形、このような家族となる事ではない。その為に自分は今、深淵の傍をなけなしの力でもって歩いているようなものではないか。私は自分の心が轟音を立てて崩れるところを、そんな恐ろしいところを、今宵見る羽目になるかも知れない。ファーレンハイトは鏡台に映った自分の醜い顔から視線を外した。
「入っても良いかね」
「はい」
「すまんが、これを。何せ家族が女ばかりな為に着る物がない」
出会った初めの頃、ファーレンハイトはメルカッツを一人の人間と見るよりは、寧ろ一つの知性として見ており、ファーレンハイトはメルカッツをそういうものとして自分と比較をしていた。そして、彼の知識の豊かな事、自分の貧弱な精神的立場と、彼の測り知れぬ山のような高さとの隔たりを発見する毎に、ファーレンハイトは全く失望落胆し、自分のこの上如何なる努力をも払う勇気を挫かれてしまった。自分には、この方の御心に気に入られる所以が?生い立ちは胸を張って言えるものでもなければ、先程鏡で見た自分の外見、何かにすっかり魂を抜かれたような、美しさを微塵も持ち合わせていない男である。自分はこの方の御心に適うものを、一体何を持っているというのか。しかし脱衣所の扉が開かれメルカッツが入って来た際、彼の低い視線はファーレンハイトの身体を真面に射た。バスタオルを腰に巻いていたが、若々しく頑健な体躯からは白熱の煙を揺蕩わせ、男神の如く其処に佇立していた。美しく敷き詰められた筋肉は畝りを立てつつ独特のしなやかさを持っており、色素の薄い髪の先端から姿を顕にした水滴が首筋を通り、堂々と突き出た胸を流れ、下半身を覆い隠す布へと吸い込まれて行く。まるである種の瘴気を起こさせたように、嚠喨と響く若人の生命活動はメルカッツに打撃を与えた。彼は逃れるようにさっと視線を外すと、自身が持っていた服に転じた。その一連の流れをファーレンハイトが見逃す筈はなかった。一向に視線が合わない様子に、彼は俄かに胸の内までも温度が上昇する感覚を覚えた。それはあの浴槽に浸かったからではない。容姿に対する自信を持ち合わせていない彼が、メルカッツの不自然な所作を目の当たりにして気分が良くなった為である。
「恐縮です。しかしそれは……」
「やはり難ありか」
口は開いているのにも関わらず、伏せられている二つの目蓋。出会った頃とは異なるもの、日の光を吸い込む事なく辺りに反射させ輝かせた漆黒の髪や眉は柔和な銀色に変化をしたが、小さな皺が刻まれた怜悧な目と慎ましい口は当時のままである。例え貴方がどのような人間に成り果てようとも、恐らく私は貴方の内に神聖なものを見出すであろう。私は真の美しさを知っている。それはイデアと同様に想起されるものであり、不生不滅にして永遠にあるものであり、真の原因である美そのものを分有しているものである。人間は定めにより老いる。生まれ、老いていき、死ぬ。しかし魂が消滅する事はない。この世の美を見た時、我々はその美が何故美しいのかを知っている。想起しているのだ、我々が生を受ける以前にその美を見ている為に、それが可能となる。メルカッツの所有物である白いシャツに腕を通すという事を試してみたファーレンハイトであったが袖が足りず、子供の七分袖みたくなってしまった。恐らく箪笥から引っ張り出して来たのであろうが、そもそも必要最低限の物しか持っていない彼の事だ、丈が合わない事を承知でいたのであろう。今考えるとその琥珀色の瞳は密かに悪戯に、自虐さを含んでいた。正面の牡丹を留める事を潔く諦めたファーレンハイトと、親切心が却って相手を困惑させる結果へと導いてしまったメルカッツ、何方ともなく乾いた微笑をその場で漏らした。

「これを飲むと良い」
「有難う御座います。頂きます」
「寒くはないか」
この方を一目見た時に感じたもの、恐らく自分はこの方を愛する事となるであろう、という恐怖にも似た直感。全くその通りになるとは、人間の感覚というものは測り知る事の出来るものではない。ファーレンハイトは、魂を押し包むような幸福の波に逆らう事をしなかった。彼は続けて考えた。じっと見詰めている時、口が語っている事と僅かな食い違いも見せないような目が、別の世界──メルカッツの表面の世界の背後に存在し、その世界と一致せず、全きの正反対であるような別の世界を眺めているといったような事が、果たして有り得るだろうか?居間の長椅子に座っているファーレンハイトの隣にメルカッツが腰掛けた。互いを照らしている仄かな灯りは寝台の傍にある物と、巨大な窓から差している月明かりのみであった。夜が入って来ては無関心に、無頓着に、その場を占領した。既にファーレンハイトの幸福を一呑みにしてしまい、今やそれを冷然と消化している夜があった。それは何日何時でも他の数知れぬ人々の幸福をも鵜呑みにし、しかも全く同様に平然と態度を崩さないでいようという夜であった。ファーレンハイトはメルカッツが持つ瞳の色と同様の液体を一口、喉に通らせた。普段口にする事のない上質の物であるそれは彼の脳梁を緩やかに震わせ、馥郁たる香りの猛威を存分に揮った。細波立った水面には彼の顔が映っており、琥珀色に彼自身が持つ瞳の色が混ざって見えた。すると瞳の色は琥珀色よりも更に濃い色となった。この無上の幸福に、自分は耐える事が出来ようか。いや、耐える事が出来なくともそれ以前に、この幸福に抗う事は出来ない。ファーレンハイトはグラスから顔を上げ、メルカッツの視線と自身の視線とを合わせた。一度も離れる事が出来ないその眼差し──何か異常な、神秘的なものを見せるそれは、ある特別な力や偶然の暗合が働いているようである。この哀れな人間に与えられたもの、それはこの方ではなかったか。私には生以外に何も与えられなかった。しかしただ一つ、この方だけは私に与えられた。幾多もの穢れの中を歩きながらも、歩みを決して止める事のない強靭な心を持つ人間。深い闇の中を歩く一つの生命、苦衷の中にありながらもその善良な精神を微塵も揺らす事をせず、ひっそりとした死と共に歩み続けている人間。光の中を歩いていても闇に身を投じる魂の軽い輩もいるのにも関わらず。その気高い精神を持つ人間を、このような私の眼前に示した。私は彼の為に生き、また彼の為に死ぬべきではないだろうか。ファーレンハイトは熱を孕んだ自身の指を、メルカッツの米神に当てた。そして聡明な眉の一直線上から頬骨、頬骨から薄い唇の端の方まで指を流し、彼の魂が生き長らえさせているものを感じ取った。しかし先程の雨の下で、彼の吐息や琥珀色の目に接近する事を思って当惑した興奮。その興奮とはまた異なったものがファーレンハイトの胸には存在した。この方の皮膚に触れ、また心臓に触れ、この清らかな魂を導く事が出来たら、私は一体どうなる?依然としてファーレンハイトの目に差している深い翳りは、眼前にいるメルカッツの目も同様、光を帯びてはいなかった。
「──服を、脱がせても宜しいでしょうか」
「卿の良きように」
息を呑んだ。初め唇が震えたかと思うと、それはメルカッツに触れている指にまで振動が走った。末恐ろしい程であった。たった一人の人間の相貌に映る事、魂に触れる事が、戦場にて幾多もの死を見たり、或いはその身に死を感じたりするよりも更に鋭く、ファーレンハイトの脊髄を突き刺した。まるでその手で直接死に、いや、死よりも戦慄さを放つものに触れるようであった。しかし未だファーレンハイトは自身の心臓が破れる音を聞いてはおらず、せめてその時までは欲望の緩やかな波に身を浸す事を考えた。何という愚かな情動か……人間とは此処まで堕ちぶれるものであろうか、思いを寄せる相手を前にすると。ファーレンハイトはそのこざっぱりとした容姿と飾らぬ悟性から色事に困る事はなかったが、誰かを愛した事はなかった。美しい人と思っても、彼はメルカッツを通して真の美しさを見ていたし、正しく立派な人と思っても、彼はメルカッツが全てに於いて正しいと見ていた。ファーレンハイトが目を向ける世界では、メルカッツは目も眩むばかりの高みに立っており、何処か遥か下の方に彼以外の人間、その他諸々の世界が存在しているように思われた。この方の傍にいると愛を感じる。しかしそれと同時に、死をもこの身に感じる。私の何かが死んで行っているのか、或いは、死が直ぐ近くまで来ているのか──ファーレンハイトはその思考から逃れるように手にしていたグラスを置くと、メルカッツのシャツに手を伸ばした。未だ僅かに震える指先は、彼の素肌が露出する毎に収まり、牡丹が全て外される頃には完全に止まった。普段は軍服という鎧の下に潜んでいる肌、家族にのみ見せる事を許している肌が、たった今、自分の目に触れている。ファーレンハイトは再び息を呑みつつ顔を上げた。メルカッツは終始沈黙したまま、ファーレンハイトの激情を絶えず示している二つの目を見詰めていた。
「寝台に横たわって頂けますか」
「分かった」
二人は長椅子から腰を上げると寝台へ移動した。ファーレンハイトはメルカッツと向き合い、身に纏っているシャツを脱いだ。それを寝台の上に置くその小さな音すら鮮明に聞こえる程に辺りは静かだった。途端、メルカッツの焦点は再び逸らされた。そんな彼に追い討ちを掛けるように、下半身を覆っているタオルをも身からさっと離した。しかし年上を揶揄う事に慣れていないファーレンハイトは、間を空けずにメルカッツのシャツも同様にその身から離した。薄い皮膚の下には散々酷使された、謹厳な筋肉と骨が形を成していた。彼の生命活動には抑揚がなく、まるで機械の如く心臓を動かして末端にまで血液を送り出し、脳からの指令を各々に確実に伝え、死が訪れるまで生き長らえさせているようにファーレンハイトには思われた。二人は寝台に横たわった。二つの身体は熱を持っていたが、脳と心臓は氷を直に当てられたように冷めており、死宛らの沈黙が全体を支配していた。死は直ぐ傍にあるのではなく、人間の内に存在している。そしてそれは何時でも姿を現し、心臓をそっと停止させるのだ。ファーレンハイトは自身の左側にいるメルカッツの方へと身体を傾けた。死よりも恐るべきものが私にはある。死は救いに他ならない。死は……救いに他ならない。メルカッツの横顔を目に映しながら目蓋を閉じ、相変わらずの孤独の中に一つの燦然たる光を感じつつ眠りへと落ちて行った。行き先が天国であろうと地獄であろうと、この方となら何方でも。生を駆使している今でさえ地獄にいるようなものなのだ、私にはたった一つを除いて恐るものがあるのみ。メルカッツは閉じていた目蓋を開くと、右側にいるファーレンハイトに瞳を転じた。神の御許に横たわる大天使宛ら、安心し切り、如何にも無邪気に眠り続けているように見えた。天空を航行する西の球体。卿が意味したに違いないものを、私は今こそ見ている。私が黙々と歩く、透明な翳りのある夜。卿が訪れる夜に私に身体を屈め、話さなければならぬ事が分かった時、卿が私の傍へ来たように悵然とした空から沈んだ時、我々が共に荘厳な夜を彷徨った時、夜が更けて行き、西空の果てで卿がどれ程の悲しみで満たされているかを、私は見る事となった。冷ややかな透明な夜の微風の中、私が高台の土地の上に立った時、卿が私を通り過ぎて行くところを見守る。軈ては卿よりも私が先に下へ下へ夜の暗黒の中へ消え去るであろう。悩みの中に悶々として私の魂は単なる悲しい球体となろう、また卿も全てを終えると夜に落ち、私が消え去った同様の場所へ沈み込んで行くであろう──メルカッツの精神の声は、ファーレンハイトの静謐なる鼓動と調子を合わせた。

咲き溢れる菖蒲の花弁が草の上に落ちるその音よりも、更に優しく聞こえる調べが此処にある。また雲母の煌めく山路、仄暗い花崗岩の重なる中にある渓流に、夜露の降りる音よりも優しく聞こえる調べが。また、疲れた目蓋が目に落ち掛かるその幽けきよりも、更に幽けく魂に降り掛かる調べが。そして祝福満ちる大空から甘き眠りを運ぶ調べが、此処にある。苔は冷たく深く、苔の上には蔦が広がる。流れの中には葉の長い水草が揺らぎ、ごつごつした岩棚には芥子の花が眠るが如く咲き静まる。意識が戻った事によりメルカッツの身体が僅かに震えると、触れていたファーレンハイトの皮膚にそれを知らせた。彼は目蓋を閉じたり開いたりしながら、また凡ゆる事を考えながらもそれらに長く留まる事をせずに、メルカッツの今のところは動いている心臓に思いを寄せていた。死人の如く静かに眠っていた彼は三時間程で再びその目蓋を開けた。
「お目覚めになられましたか」
「徹宵、起きていたのかね」
「はい」
「卿は……やはり若いな」
メルカッツは、ファーレンハイトの存在と結び付けている一つの精神世界が、これ程自分に身近なものであるとは全く思っていなかった。しかしこの知らせはメルカッツを呆然とさせた。彼は思い掛けない大きな不幸の知らせを受けた人間のような感覚を味わい、激しい胸の痛みを覚えた。いや、私には無縁な事だ。そんな事は有り得る筈がない。メルカッツは、彼自身の言葉に驚いたような、微たる不満を示しているファーレンハイトの二つの目を見た。地を涙で濡らしていた天は未だ眠っているが、メルカッツが眠りに落ちる前に見た彼の虹彩の色よりは明るいものとなっていた。濁りのない、水晶宛らの目。荒々しい悲痛を内に育てながらも勝手に備わった生命力を横溢させている、このような精神を持つ若人を沢山見て来た。また彼等が死んで行く姿、肉体の死に限らず精神の死が、溌溂と働く身体に訪れるところも見て来た。彼等と同様の最期を迎える事となるのは、然程遠い未来ではない。精神の死は既に迎えているから、後は肉体の死、軍人らしく宇宙にて戦いの中に死に絶える事をただ待つのみである。例え私が激しい苦悶の中にあろうとも、卿と共にありたいと祈り訴える事があろうか。波の如く木の葉の如く雲の如く鼓舞している生命。私のような時代遅れの産物は宇宙の茨の上に倒れ、黒い血に塗れるべきである。嘗ての私にも持ち得たもの、卿に似た自在な奔放な誇り高きものは、時の重荷により縛り付けられ押し潰されてしまった。
「私は、その言葉が余り好きではありません」
「そういうところが若いのだ」
メルカッツの微笑に、ファーレンハイトは言葉の意味を取り違えた事が分かった。彼は無意識の内に若いとは未熟という意味であると捉えてしまい、貴方と比べたら誰だって未熟ですよ、と眉間に皺を寄せた。こうして自分と同様に横たわっているのにも関わらず、この若人の表情からは感情というものが容易に伝わって来る。未だ卿に死は訪れてはいない。肉体の死も、精神の死も。メルカッツは二つの目の端に刻まれた皺を濃くし、薄い唇の影から歯を覗かせた。その美しい琥珀色の目の中で溶け合っている崇厳と謙抑の表情は、限りなく魅惑的であった。自分の心が轟音を立てて崩れるところを、そんな恐ろしいところを、今宵見る羽目になるかも知れない──しかし未だファーレンハイトの心は健在であった。いや、それどころか何かしら永遠に若々しい力と喜びを呼吸しているように彼には思われた。異常な幸福が実現されたのである。しかも平凡に、何の騒ぎもなく、華々しい輝きも前兆もなく、突然に実現されたのである。貴方のお傍にいない時の私は、まるで色のない瑪瑙のようなものです。また、その時の私が思うのは、夜も昼も私が何処にいようとも地空は一体となり、一つの燃え盛る劫火であるという事です。
「少しだけ体重を彼方へ傾けてくれまいか」
「も、申し訳ございません」
何故に我々は重荷で苦しみ、身を切るような悲痛ですっかり消耗してしまうのか。他の万物が疲労から休息を得ているにも関わらず、何故我々のみが骨を折らねばならないのか。我々のみが骨を折るのだ、万物の霊長であるというのに。そしていつまでも呻き苦しんでいる。 絶えず一つの悲哀からもう一つの悲哀へと投げ込まれ、決して羽根を畳む事もなく、流離いの旅を止める事もないのだ。また我々の額を眠りの聖なる芳香の中に浸す事もなく、内なる魂の奏でる歌声に耳を傾ける事もないのだ。静穏の境涯なくして歓喜なし……何故齷齪するのか、万物の霊長たる我々のみが?メルカッツは右手でファーレンハイトの垂れた前髪に触れた。何故に我々は重荷で苦しみ、身を切るような悲痛ですっかり消耗してしまうのか。自我を捨てぬ事には、一切の重荷から解かれる事はないのか。
「如何なされましたか」
「卿の髪は、差す光の度合いによって色を変えるのだな──当然か」
「気にした事がありませんでした。私からは直接に見えない故……今、どのような色をしておりますか」
「蒼ざめた水色」
瞑想に沈むかのようにメルカッツは呟いた。声は僅かに乱れており、表情は体力の完全なる虚脱を示していた。その沈んだ、殆ど悲しそうに見える様子は、嘗て見たあの悲しみの影と同様のものであり、ファーレンハイトの中に存在していたメルカッツという人間の印象を変えるものであった。既に死を迎えていると思っている彼の精神は未だ生きていた。精神的な忘却が、凡ゆる幸福な記憶に及ぶように仕向けているだけの事である。彼は光の中を歩いているが、背後にはそうした闇の影が常に広がっている事を知っており、それらが毎日少しずつ退いているか、または近付いているか、その何方かである事も知っていた。ファーレンハイトはメルカッツの目の奥にあるものに顔を向けた。彼はその目に激しい苦悩の色がある事を見、とても同じ人間の目であるとは思う事が出来なかった。どうか、今少しこのままで。肉体の残骸や、ゆっくりと腐って行く血液や、癇癪を引っ張り出す錯乱や、鈍重な老廃や、或いは更に不吉なものがやって来るまで──例えばこの方の死とか、はっと息を呑む程に輝いていた目のどれもが死に果てるとか──一切が地平線の薄れ行く時刻の空の雲でしかないように見えるまで、或いは深まり行く夕闇の中で鳴く眠たげな鳥の声のようになるまで、我々人間に与えられた定めを忘却させよ……。

Amber Run - I Found