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LOST AND FOUND



他人の嘲笑に耐える事を知らなかった頃、利き手を血の塊と化す事を厭わずに、その人間の顔面を幾度となく殴り付けた事があった。初めは抵抗をして見せる。自由の利く二つの手を自分の顔に伸ばし皮膚を引っ掻いたり、髪を引っ張ったりするのだ。しかしそれに怯む事なく顔の中心、鼻の辺りに衝撃を加えると抵抗はすっかり収まる。暴れていた脚と胴は石宛らに、此方の力でのみ振動し、二つの手は自身の顔を庇うようにして隔てる。しかしそれも意識を失う事によって叶わない。僕は食う為に軍人になったが、貴様はどうだ?僕を嘲笑する為に物を食い、その生命を稼働させているという訳か。地面に小さな赤色の粒が無数に散りばめられた時、振り上げた利き手が遂に虚空で停止した。
『十分であろう』
ファーレンハイトはその時の事をいつでも想起する事が出来た。血に濡れた彼の手を掴んだ人物は、その鷹揚な顔立ちに反して、手首諸共の骨を折る事を厭わないと言わんばかりの雰囲気でもって制した。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ提督。彼の風采をいうと、背は低い方で、今とは異なり漆黒の髪を持っていた。露出させた額と米神が軍人らしい清潔感を表しており、顰めた眉の下にある射るような目、高い鼻、一文字に結んだ薄い唇。それらが氷宛らの冷静さと、剃刀宛らの叡智を示していた。彼は口髭を生やしていた為、歳は四十路近くであったが、実年齢よりも老けているように思われた。メルカッツは被害者に付き添う事をせず、ファーレンハイトの手を治療してくれたのである。指ではなく関節で殴っていた為、指の骨は折れてはいなかったが、関節の骨が皮膚から飛び出しその姿を露にしていた。尖った白色の薄いそれをメルカッツは二本の指で取り除くと、被害者のものと混じった血を水で洗い流した。終始ファーレンハイトは自身の父親と同程度歳が離れた男をまじまじと観察していた。その澄ました顔がいつ破られ、自分に対し罵声や降級を告げられるかを待っていたのである。また、自分の手に触れているその手、自分のものよりも大きさのある手が、いつ自分に対し暴力を振るうか内心恐ろしかったのである。それはファーレンハイトが、所謂優しく穏やかな人間というものを今まで見た事がなかった為である。絶えず飢えた人間を見て育ち、人間のその貧欲さを嫌悪しながらも、それは自分にも備えられたものであるのだと思って来た。しかしこの男はどうだ。彼は自分が見て来たものとは異なる人間だというのか。
『私であれば渾身の一発で留めておく。何度も殴る事は、自身の手を痛める事に繋がる』
『君はいずれ上に立つ人間となろう。故に他人の嘲笑一つで、それを台無しにしては勿体ない。そうは思わんかね』
貴方のその目には何が見えていたのか、また何を見ようとしていたのか。ファーレンハイトは利き手に触れる無上に慈悲深い手、大人の男の手に瞳を転じた。ファーレンハイトが怪我をしても、こうして治療をしてくれる事に恵まれはしなかった。彼が知っている大人達は皆自分の事に全てを奪われており、ファーレンハイトが彼等から受け取ったのは間接的な愛のみであった。その為に、怪我をしようと何かが起きようと彼は自分で対処をして来た。何でも出来た。出来ない事などないと思っていた。しかし今、眼前にいるこの見知らぬ人間、名と風貌しか知らぬ親子程に歳の離れた同性から、全きの新しい精神世界を教えられたのであった。ファーレンハイトが慣れ親しんで来た精神世界というのはたった一つ、常に腹を空かせ、他人を信ずる事を知らず、遠い未来に目も向けない憂悶としたものであった。メルカッツという人間が持つ精神世界というものは、果たしてどういうものなのか。ファーレンハイトは、この世は今まで自分が見ていた通りのものであると思い込んでいた。明るく魅力に満ちたものであるとは到底考える事が出来なかった。しかしこの手、沢山の人間を殺害して来たこの手は、たった今僕に何をしている?愛国心の為ではなく自分の為に軍に入った人間の手を、同級生を殴り倒した無慈悲な手に包帯を巻いているではないか。これは一体どういう事だ?
『君の考える事は手に取るように分かる』
メルカッツが包帯を鋏で切った。シャキンというその鋭い音が、ファーレンハイトの耳と胸にはあの精神世界、他の人間と親しくなろうという気がない暗澹な世界が自分の中から切り離されたかのように思えた。メルカッツには凡ゆる物を撫でるように扱う癖がある。しかしそれが貴族出身の所以でない事は、ファーレンハイトのような人間であっても容易に理解する事が出来た。メルカッツがそういった事を話した時の熱烈さといい、真剣さといい、心の静謐といい、正にその面に歴然と現われており、それが彼の魂の奥底からの叫びである事は明瞭であった。彼の真摯さを疑う余地は、ファーレンハイトには全くなかった。メルカッツのような人間の目に映る世界は、さぞ崇高で、自分なんぞには到底理解し得ないものに違いないのだ。どれ程の時間が経過しようとも、メルカッツという人間には到底追い付けまい、敵うまいという事実を、ファーレンハイトはその時に胸に刻んだのであった。
「今も貴方はお分かりになりますか。私の事を」
「容易に」
メルカッツの脚は微動だにせず、しかし利き手を眼前のファーレンハイトに差し出した。士官学校に在籍していた頃の彼は、周りが手を焼く程の粗暴な性格を持っていた。その爽やかな外見からは想像し難いもの、何処かぎくしゃくした、気忙しい、苛立たしいところがあった。酷く相手を殴りたくて堪らないのにも関わらず、相手に殴られはせぬかと酷く恐れている人間のようであった。抑揚のない話し方、それが時には悪意に満ちたものとなり、同世代の中で孤立していた。しかし今やそんなものは失われ、いや、正確には懐奥深くに潜んでしまい、それが顔を出すとしたら彼の戦術ぐらいなものになった。嘗て一度だけ施した警告は役に立ち、ファーレンハイトの利き手の骨は変形をする事なく成長し、今や自分の手を覆い隠す大きなものとなった。青が僅かに混じった皮膚、あの赤い血が溌剌と流れる浮き出た血管、勤勉さを表す中指第二関節の膨らみ。ファーレンハイトが持つ二つの手は、メルカッツの一つの手を包み込んだ。あの頃とはまるで異なる、おずおずとしたその仕草にメルカッツは小さな失望、心に僅かな陥没が生じるのを感じざるを得なかった──ああ、やはり、卿は──始めがないのと同様、終りがないものに向かって昼の彷徨と夜の休息を繰り返し、多くの忍耐を経ようと、私は自分の向かう死の中に全てを溶かし込もうとした。しかし何処であれ何であれ、卿が見るものには必ず到達しその先に進めるようにと、どれ程に遠く離れた時間であろうと、卿が思い浮かべれば必ず到着しその先に進めるようにと。上に見える、或いは下に見えるどのような道も全て卿の為に延び待っているように、例えどれ程に長い道であろうとも、卿の為に延び待っているようにと。例えどのような存在にせよ、宇宙創造の神の存在にせよ、必ず卿が見れば、其方へ卿が行く事が出来るようにと、哀れな少年を見た時に私は思ったのだ。ファーレンハイトはメルカッツの重みのある手を自身の額に当てた。
「メルカッツ提督、貴方は誰かを愛した事は」
「私は残骸のようなものだ。すっかりバラバラになっている」
やはり、卿は愛を知ったか。メルカッツは蒼ざめた水色の髪の間に親指を通らせた。何十年も前にした告白を私は繰り返す事となろう。メルカッツは自分自身で、自分の言葉が奇怪千万、殺意に満ちた武器である事を知っていた。その訳は、彼は平穏無事や安泰や凡ゆる固定した掟に対抗し、それを崩す事を当然と考えていたからである。長年仕えた王朝の赴くままに自身を殺し、失敗を恐れてただ生にしがみ付いて来た為に、心が残骸と化したのである。彼はゆっくりとだが確実に死んで行く心をどうする事も出来なかった。軈て訪れる肉体の死をただ待ち、愛という幻想に一度も振り向いた事がなかった。また地獄といわれるものの脅威など、彼にとっては取るに足らぬ、いや何物でもなかった。そして天国といわれるものの誘惑なども、彼にとっては取るに足らぬ、いや何物でもなかった。彼は共に前進しようと仲間を促して来たし、今も尚促しているが、告白すれば我々の行き着く先が何であるのか、我々が勝利するのか、それとも完全に打ちのめされて敗北するのか、少しも知る事は出来ないし、またそれが全きの事実であるのかも、少しも知る事は出来ないのだ。
「だから貴方は私を拒絶しないのですね」
「ファーレンハイト、私にそれを求めるのは止めよ。私は夢想を見せる事は出来るが、現を与える事は出来ぬ」
「私は一度たりとも、現の中で生きた事はありませんでした。貴方と出会ってから」
透き通った水色の虹彩を目蓋の内に収めると、忽ちファーレンハイトの脳裏にはあの明るい精神世界が開けた。輝やかしい西の沈んだ星、夜の深い影。陰鬱な、涙流させる夜。姿を消した大きな星、その星を隠す黒い暗闇。自分を捉えて無力にする残酷な手、自分の寄る辺ない魂──私の魂だけは、無慈悲に取り囲む雲の中で自由にならせよ。私の愛だけは、彼の前に於いて自由にならせよ。ファーレンハイトは厚い皮膚が覆うメルカッツの手の上に、自身の手を重ね合わせた。
「夢想で良いのです。現など私は望んではおりません」
私は貴方に金より貴重な愛を与える、私は貴方に説教や法より前に私自身を与える。貴方は私に貴方自身を与えて下さいますか?貴方は私と共に生きて、また死んで下さいますか?この世で生きている限り、我々はしっかりと互いに結び付いているべきであると、私は思うのです。メルカッツは苦衷を隠す事が出来ていないファーレンハイトの声に、すうっと琥珀色の目を細めた。
「ファーレンハイト、我々軍人は何かを愛すべきではない。分かるかね」
大海に注ぎながら、雄大に広がり伸び切って行く河口を、今も尚私は貴方の内に見ている。私に流れる血は食う物によって成されているのではない。あの時私の利き手から滲み出たあの血は、私自身の境界を呪うもので成されていたが、貴方の手を汚し包帯を染めたあの血は、貴方が私に下さった愛であり、無量の慈悲である。それは変わらず私の内に流れ、私を動かし、絶えず私に愛を教えている──他ならぬ貴方が、教えて下さった事なのだ。しかしそれと殆ど同時に、メルカッツの顔は俄かに真面目な、気掛かりげな表情となった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがファーレンハイトを驚かせた。彼は今までメルカッツのそのような顔を見た事がなかったし、想像した事もなかったからである。ファーレンハイトは既に力の入っていない手から自身の手を離した。するとその手は微塵も躊躇う事なくあるべきところへと戻った。

Frank Ocean - Lost