×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Phantoms



サラの二つの手が同時に二つの義眼を、オーベルシュタインの眼窩から取り出した。片方ずつ義眼の異常を確認するのが常であった為、左目をも取り出そうとした彼女の手を阻むべく手を動かした彼であったが、後になって特に何でもないように思われた。盲目になったとしてもそれは然程長い時間ではなく、また彼の生活面からしてその事には慣れている。しかし何故彼女は今までと異なる方法を取ったのか。沈んで行こうとした思考の影は一向にその答えを見出さず、彼が思った以上に高い段階に於いて、無意味にそれが揺蕩っているのを感じた。何ものかに邪魔をされ、怜悧な判断が出来なくなっているのである。その因は紛れもなく、眼前にいるサラである事は言うまでもない。彼女の導くまま、オーベルシュタインが整備室の椅子に腰掛けた際に見た一つの窓。曇っていた筈の空が晴れて来ており、日影の豊かな午後となろう事が容易に想像出来た。薄暗く思えた部屋は一挙に明るい、まるで天井を隔てず一つの太陽の下にいるかの如く、白熱の光が二人を包んだ。彼女は挨拶を兼ねて短い雑談をしたが、彼は殆ど返事をしなかった。彼の義眼には終始生きた眼が、水晶のように澄んだ眼が映っていた。日光により銀色と化し、それを夥しく煌めかせている双眸。宝石宛らのそれらはサラの表情を深い聡明らしいものと成しており、オーベルシュタインの凡ゆる思考を停止させた。まるで彼女の齎す光が、彼の陰惨な内部を末梢まで照らすようであった。一切の光景が彼の眼窩を撫でるのみになっても、先程見た彼女の姿はいつまでも頭に残っており、彼は盲目の中にあっても彼女を見ていた。銀の絹のような光の面紗が落ちていた夜空、彼女はあの夜に寄り掛かっているようであった。月は仰向いた顔の上、哀れで憂いの、二人の顔の上に落ち掛かっていた。それも運命ではなかったか。あの七月の夜半の事、濃藍の海を仰ぎながら歩いていたサラの姿に彼の足を止めさせたのは運命ではなかったか。足音が絶えると、ただ二人の外にある忌まわしい世は全て眠ったように静まった。天と夜の二つの言葉を繋ぎ、如何に彼の心は細波を立てた事であろう。ただ二人の外には。彼の一瞥、彼女を眺めると、忽ち凡ゆるものは皆消え失せたのだった。オーベルシュタインは手を組んでいた。無意識の内に俯く頭を固定する為に、サラの片手が彼の顎に添えられている。そしてもう一方の手で光を照らし、空洞を成し、其処を敷き詰めている細胞に異常がないかを見ている。予想に反しそれはとても長い時間に思われたが、彼の太腿に伝わる彼女の体温にすっかり心を奪われていた。静かな生命活動、花と太陽の香り、銀色に煌めくその聡明さ。オーベルシュタインの宿命とは駆け離れ、身を潜めていたそれらが今更に胸を打った為、彼は息を呑んだのが自分でも分かった。それらは無縁のものであった筈である。腕を伸ばし手の平を広げようとも、自分には微塵の可能性すら皆無であった筈のものが、今正に眼前に開かれている……。あの夜の魅惑を忘れるな、真珠のような月影は消え失せ、陽気な花や騒めく木々ももはや消えた。凡ゆるものが大気の中に死に絶えたのが、たった一人、彼女は除いて。ただ彼女の瞳の清らかな光を残し、ただ彼女の仰ぐ瞳に籠る心を残し。それは浮世と知りながらも、彼はただその銀色を見た。何という激しい、如何に暗い悲哀であろう、そして如何に崇高な希望であろう。また如何に密やかに穏やかな、誇りの海であろう。如何に大胆な、しかし深い野望であり、如何に底の知れぬ愛の容積であろう。例え彼女が彼の元を去ろうとも、ただ残るは彼女の瞳であり、凡ゆるものが消えようとも、それは決して消えるものではない。恐らくその銀色は彼に伴い、幾年か彼を導き、瞳の明るい光に救われる事が務めであると彼に啓示する。その火に清められる事、また遥か天上に昇っては、うら悲しく無言に、彼の跪く星となる。太陽にも消されぬ、美しく煌めく金星となる。オーベルシュタインはサラを見上げた。美しく煌めく金星よ。彼は組んでいた手を解き、彼女に右の手の平を見せながら、それを自分の心臓の辺りまで持ち上げた。彼女の全身を象徴するかの如くしなやかで、細く弱々しく、といっても決して痩せているのではなく、色は青白いが決して不健康なのではなく、握り締めたならば消えてしまいそうに弱々しく見えるのに、実際には非常に弾力を持っている指。オーベルシュタインはあの恐ろしいとも言える一夜、自身の心臓のひび割れる音や、芝生一面を覆う闇や、夜明け前にさし昇ったあの歯の欠けたような月が鮮やかに記憶の底に甦った。自分を見詰めているようでもあり、脇の方へ逸れているようでもあった二つの灰色の瞳が、あの何やら黒々とした無気味なものを彼に思い起させたのである。途端、虚空の中にある彼の手が僅かに震えた。これ以上の愚かな告白をして自らを痛み付ける事は止めるべきである。あの夜に分かった筈ではなかったか、手に入れる事が出来る可能性が皆無のものを追い掛ける事は無意味であると分かった筈ではなかったか。あの失望、他でもない自分自身に向けられた失望が再びオーベルシュタインの身に湧き起こると、脳は右手を元の場所へ収めよという命を下した。早速それに従おうとしたところサラの手が、彼が想像し且つ実際に触れた時に感じた感触を持った手が、居場所を失った右手を掴んだ。様々な要素を見せるその不思議な手は、今は綿そのもののようであり、他人を傷付けたり、陥れたりする手ではないように彼には思われた。そのような無害な手に殆ど出会った事がなかった為に、また差し伸ばした手を誰かに取って貰った事がなかった為に、オーベルシュタインはその何もしようとしない、ただ其処にあり自分の手を握っている手を、異質と考える事はどうしても出来なかった。彼は知らなかった。サラと共にいたい為に、彼女のいる所へしばしばそっと赴き、彼女と並んで彼が歩く時、また傍に腰を下ろす時、また彼女と同じ部屋に留まる時、彼は殆ど知らなかった。彼女の為に彼の内部にゆらゆら燃えている精妙な電気の火の存在を。無機質な情動、インクの匂い、犬の毛並み、生温い義眼。この手はそれらのみに触れ、女の身体や髪などには触れた事が無い。オーベルシュタインはあの夜と同様にして、直ぐ傍にいるサラの身体の方へと意識を傾けた。空いている左手を彼女の背中へ回し、彼女の吐息と鼓動を聞き取る事の出来る位置にまで自身の身体を移動させた。視界が開けている時には感じ得なかったものが、今正に明瞭に、彼の目に映ったように思われた。彼女を構成している幾多もの細胞の呼吸、そして聡明な魂が齎す生命の何と熱い事か──彼の脚の間にある彼女の右脚。身長からして長さが異なり、彼が前方へ移動した為にその隙間が埋められた。丁度彼の中心に当てがわれ、彼女のあの細い膝が表面を撫でているのが看取出来た。情欲は虫けらに与えられたものである。オーベルシュタインは女を知らず、情欲とも無縁であった。であるからして情欲のある者を虫けら扱いしていたのだが、自分はこの虫けらに他ならない、これは特に自分の事を暗に謳っていたのだと愕然とした。自分の内にこの虫けらが住み着き、血の中に嵐を巻き起こしている。これは正に嵐、情欲は嵐だ、いや、嵐以上かも知れない。美というものは怖い、末恐ろしいものだ──だが今は、今だけは未だその情欲は必要ではない。それによって何かしらの可能性が潰される事は避けるべきである。しかしオーベルシュタインの右手を掴んでいるサラの左手には汗が僅かに滲んでおり、右手は彼の行為を拒む事をせず、寧ろ促すように太腿に添えられていた。二人の吐息は重いものとなり、鼓動は異常に昂った。彼は彼女を抱き締めている腕に、まるで彼女と一つになろうとするかのように苦し気に眉に皺を寄せ、力を入れた。右頬に当たっている彼女の右頬、耳、髪。それらに唇を寄せようか、いや、未だならぬ、今だけは、と考えるとまた彼の心臓が悲鳴を上げ、悩ましい程の痛みを全身に与えるのであった。一方でオーベルシュタインはこうも考えた。軈てサラとの別れが来た時、この頃の事はまるで夢であったと考える羽目になろう。明るい光が差したあの夜あの日の事は夢に過ぎまいか。我々が見たり、また見えたりするものは皆夢の夢、全て幻と泡沫に消え、やはり夢に過ぎなかったと言わなければならない。しかしそんな事は最初から分かっている。それを承知で自分は此処にいるのだ。指の間から落ちるそれらをしっかり掴む事は出来まいか。落ちて行くその一粒を、無情の波から汲み取る事は出来まいか。サラ・バラデュール、幻杳なる者よ、我々が見たり、また見えたりするものは皆、夢の夢に過ぎまいか……。

Mazzy Star - Fade into You