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Under the passing stars, foam of the sky



地上にこれ程までに美しい光景があろうか。その壮麗さがかくも心を打つ光景を、見過ごして行き去る者を鈍感と呼ぶべきである。この都市は今、まるで華やかな衣装のような夜の美しさを身に纏う。物言わず、顕に、船や塔、家々や劇場が広野と大空とにその姿を見せている。赫赫と、煤一つない大気の中で煌めき、太陽が嘗てかくも美しくその曙光に谷や、岩や、丘を浸した事はない。嘗てかくも深遠な静寂を見聞きした事はない。河は自らの甘美な心の赴くがままに流れる。宇宙創造の神よ、家々は正に眠るが如く、この大いなる都市の鼓動は今正に止んでいる。
「こんばんは」
「このような夜更けに何用か」
「いえ、唯の散歩です」
時計の短針が二を指している時刻に、オーベルシュタインは軍服を身に纏ったまま、向いの道から姿を現した。サラは晴れた夜空を仰ぎながら徘徊していたのだが、初め、所々電灯に照らされている石畳が遠方で点滅しているのを不思議に思った。その点滅は明らかに此方へ向かっており、深い闇の中ではその姿を捉える事は出来なかった。しかし軍服に施された銀の紋章が電灯の光を反射した時、また、軍人の白髪が皓々と見えた時、彼女の足取りは不意に重さを含んだものとなった。道を迂回し、オーベルシュタインと思われる人物を避ける事は出来たが、彼方の目は随分と前から自分の姿を明瞭に捉えているに違いない、そう思うと今更避けるのも滑稽に思えた。それに、自分にどのような態度で接しようとし、どのような言葉を掛けようと考えてのその行動か、サラには興味があった。彼女もまた彼をそれ程に理解していなかったのである。オーベルシュタインの天色の目よりも彼女の視線を奪ったものは、彼の左手に提げられた小さな袋であった。こんな時刻に自ら買い物をされるのか。彼女は視線を上げ、彼の目を見て僅かに微笑した。二人は一旦立ち止まると、彼女が歩いて来た道を戻るようにして進んだ。太陽の下では、凡ゆるものが勝手に人間の視界に入っては街の汚い部分を見せてくるが、月や星々の下では、それらが挙って身を潜め、闇に紛れて歩く人間を見詰めている。その夜の奥ゆかしさをその身に感じながらも、オーベルシュタインは軈ては辿り着く道の奥を、そしてサラは永遠に辿り着く事のない無限の空に瞳を転じていた。星と星との間に見えた一つの光芒、しかしそれはよく見ると赤色に点滅しており、一度それを見付ける事が出来ると、濃藍の中に無数にそれらが浮かんで来た。銀河帝国の戦艦である。彼女の脳裏には未だ見た事のない、未知なる情景がその赤色に輝く星々と共に呼び覚まされた。踏む人間のない海床に緑や紫の海草が蒔かれており、岸に投げ付けられる波は、星の降る中に溶け入る光のようである。一人こうして眺めていると、真昼の海の閃光が周りに煌めき、その律動から一つの調べが湧き起こる。何と美しい事であろう、この思いを分かつ人さえあるならば。
「私、宇宙船に一度も乗った事がないんですよ。この時代に嘘みたいですよね」
「申請すれば乗艦出来よう」
「身体試験で引っ掛かってしまって」
サラの右手が動いたのを、オーベルシュタインの目が捉えない訳がない。自分とは異なる、全きの異質の象徴である手が彼女自身の胸の上に当てられた。電灯により本来の色を失い、鈍い色へと変化をした皮膚が、彼には新たな皮を被っている人間のように奇妙に思われた。彼の想像する彼女は、また彼女の性格には何ら不可思議なところはない。単純な人間に見えたし、やや気難しいところがあるにしても、それは人間誰しもどのような形であるにしても持ち合わせているものである。しかしオーベルシュタインはサラという人間を一言で表す事が出来なかった。会う度に彼女の何か、魅力でも狂気でも名の付け方は様々であるが、それが彼に伝わり、際限がないように思うのである。軍人でない人間の持つ複雑さや思想が、そもそも彼にとっては初めて見るものであり、またそのような人間も軍人同様に何かに化ける事がある。果たして彼女は何方か?それを考える事に、何ら利もない事は分かっているのだが。彼女は指を曲げると、薄い皮膚の下で盛り上がった骨を使い、胸の上に下ろした。すると彼が他人に感じていたあの異質さは、真の異質であった。胸を覆う布一枚の下には何やら金属があるようで、骨が金属を叩いた時に鳴る乾いた音をサラはオーベルシュタインに聞かせたのである。それにより彼女の言う身体試験に落ちる理由が分かり、またあの白いブラウスの隙間から見えた赤痣の原因も彼の頭の中で解かれた。古いと彼女に半ば笑われた義眼を組み込んでいた時には、未だ生きている細胞が時々悲鳴を上げていた。その金属と接触している細胞は未だしも、随分と距離がある細胞も血の気が失せ、痛みや痒みが走り、その度に彼は義眼を取り出しては休ませるという事をしていた。サラの胸に組み込んでいる機械も同様に古いものであり、障害を持っているのは心臓であった。他人のものを古いと笑うのであれば、彼女こそ交換してしまえば良いものを、とオーベルシュタインは思いながらも、宇宙船に乗った事がないと言った彼女から視線を外した。彼は其処に彼女の境遇を見た。また彼女を通して、自分自身の境遇をも改めて見る事となった。彼の精神力は殆ど無意識に、全ての劣悪遺伝子の持ち主と同様、自分の恐ろしい境遇を見まいとする努力にのみ向けられていた。入隊してからは彼等と出会う機会が当然減ったが、彼女みたくこうして生きている人間がいるのだ。彼が味わわされた、あの世間という名の冷たい化合物からの拒絶という侮辱感が、まるでたった今受けた生々しい傷のように彼の心を焼き、この瞬間彼は、一切の人間と一切のものから、自分と彼女の存在を鋏で切り離しでもしたように感じた。
「惑星間の連絡船であれば、通るのではないか」
オーベルシュタインの氷の刃の如く美しい声は、今はとても脆く、独特の寥々さを持っているようにサラには聞こえた。普段の彼、職務に就いている時の彼を見た事はなかったが、このような声質で話す事はないであろう。言葉を一つ一つ吟味し、そしてその言葉の裏には全く別の意味が込められているような、そのような話し方をしているように見えた。その為に彼女も自然とその彼に同調してしまい、注意深い態度でもって彼に応えた。それが優しさかどうかはサラには分からなかったが、無造作な態度をする事は何故か出来なかった。すると彼女の眼に再び先程と同様の光景が、所々電灯に照らされている石畳が遠方で点滅していた。その点滅はまた此方へ向かっており、彼女は生きた目でその影を見た。若い軍人二人が、雑談をしながら此方へ歩いて来ている。影が大きく左右に揺れているのはどうやら酔っているらしく、歩き遅れている片方を案じ、もう一方がその場で立ち止まり待つという事を繰り返していた。気持ちの良い程に夏の夜気が頬に当たろうとも、嫌な事を忘れる程に酒が脳に回っていようとも、このオーベルシュタインの亡霊宛らの顔を一度見ると、直ちにそれらの酔いは覚め、また肝も震え、言う事を聞かない身体に鞭を打ちながら敬礼なんぞをするかも知れない。しかし若人二人は疑問に思うであろう、何故我が軍の参謀長が深夜に女と歩いているのだろうと。幾ら酔っているとは言え、そのような超常現象は忘れる事はないとして、翌日、いや朝になれば良からぬ噂が内部に広がっているに違いない。サラはふと思った。私は地位も何もない唯の技師であり、顔なんぞは然程割れてはいない。しかしこの参謀長は違う、皆何かしらの印象を付けて脳裏に刻み込んでいるに違いないのだ。また逆の立場であれば、私があの若人二人であれば、直様引き返し、友人やら家族やらに自分の見た光景を言うであろう……何と恐ろしい事か。
「こんな夜更けに二人で歩いていたと噂になれば、迷惑ですよね」
「卿は余計な事を考える」
「さあ、此方へ」
余計な事だって?サラはこのような非常事態であってもゆったりと話して見せたオーベルシュタインに苛立ちながら、その腕を掴んだ。歩いていた道から横へ逸れると、其処は電灯が殆どない薄暗い公園になっている。彼の大きな体躯は彼女の赴くままに動いた為、彼女が彼をその世界へ引き摺り込む事は容易であった。軍人でない女にしては握力がやや強いように彼は感じたが、そもそも女に腕を引っ張られる事など一度もなかった。何故そんなに齷齪する必要があるのか、他人がどのような考えを張り巡らすかは一切、我々の感知するところではない──オーベルシュタインは掴まれている腕の右手に僅かだが力が入るのを感じた。いや、我々ではない。自分のみであるのだ、どのような人物像を他人から押し付けられようとも一向に気にしないのは。彼女は異なる、彼女は自分とそのような噂の対象となる事を気に掛けているのだ。何と女心の分からぬ男であろう。樹木の影に隠れた彼はサラの横顔を見下げた。若人二人を見詰める瞳の奥、今はすっかり暗い色になっているであろうが、燦然たる日の光が差すと変化して見せる虹彩。しかしその彫刻のような均等の取れた眼元は、オーベルシュタインの目には、あの二人を必死で避けているようには見えなかった。その眼は悪戯に、この状況を軽快に捉えているようでもあった──本当にそうであろうか。彼の心の中に、まるで一つの流星の如く、先程の心情に対する疑問が浮かんだ。これもまた夢想か、そう沈み掛けた途端、傍に立っていたサラの身体が地面に崩れた。樹木の畝った根で足を引っ掛けたのである。「わっ」という小さな悲鳴に、オーベルシュタインはその細い身体を正そうと二本の脚を踏ん張らせた。しかし彼女がずっと掴んでいた手に全体重を託した為、彼は思い通りに利き手を動かす事が出来ず、彼もまた地面に片膝を突いてしまった。暗闇の中で地面の凹凸が見えないなど、卿も義眼にした方が良いのでは。そのような心情とは異なる言葉、身を案じる言葉を彼が発そうとした時、真面にサラの顔を見る事となった。二つの手の平から感じる芝生の頼りなさよりも、彼の身体の下にある彼女の身体の存在が、彼の臓器に暴力とも言える猛威を揮った。オーベルシュタインの心臓は、彼の耳にも聞えそうな程に激しく鼓動していた。その呼吸は止まったかと思うと、また急に重い吐息となって迸り出た。こうして彼女の身体、体温を間近で感じると、今までは何かしら遠いところにあるもののように思われていた、彼女のあの青白い情熱や、なよなよと消えてしまいそうな、それでいて不思議な弾力を持つ肉体の魅力が、俄かに現実的な色彩を帯びて彼に迫るのであった。女の魅力が眼前にある。オーベルシュタインの願望は油を注がれたように、恐ろしい勢いで燃え上がった。
「気付かれました?」
「いや」
どれ程の男がサラの晴れやかで優雅な姿を愛したか、偽りの愛や真実の愛で彼女の美しさを愛したか。しかしオーベルシュタインは燃え上がった火を、一種の苦衷の眼差しでもって見詰める事が出来た。このように一人の男が巡礼を続ける彼女の魂を愛したのを、表情豊かな彼女の顔に時たま宿る悲しみを愛したのを。彼は彼女の生きた双眸から顔を背け、目を伏せた。その灰色の瞳も、胸にある赤痣も、劣悪と称された欠陥物である遺伝子も。オーベルシュタイン自身の苦衷の響きに耳を傾けながらも、サラの片手が彼の腕に触れており、生暖かい感触が彼自身の骨の髄まで伝わっているのを感じた。彼は何の気であったか、芝生の上に置いていた片方の手を、身体を自分の方へ抱き寄せるように彼女の背中に回した。薄い衣服の向こう側、皮膚に張り付いている背骨が、彼の指の平にその存在を示していた。
「卿は何を思っている」
私に希望も健康も、心の平和また周りの静寂もなく、名声も権力も愛も閑暇もない。人々はこれらに取り囲まれ微笑みながら生き、人生を喜びと呼ぶ。私のような人間に与えられたのは、それとは異なった運命の杯である──サラは眼前の男、オーベルシュタインの、今は闇に紛れて控えめな色を放っている虹彩に、赤色の煌めきが幾つか走ったのを見た。私は貴方を助ける事をしない。貴方が窮地に陥り、死の淵を歩こうとも、私はこの手を差し伸ばす事をしない。私はたった一人、自分の為だけにある。そして自分の為とは同盟国の為、ただそれだけである。しかし彼女は不意に息を呑んだ。空の泡のような、この光薄れゆく星々の下で二人切り。敵国に仕えるこの男と視線を合わし話をし、同一の空の下で過ごす内に、愚かにも私は彼に何を期待し何を求めたのか。サラはオーベルシュタインの腕に触れていた手をそっと退けると、彼の方を見たまま微笑を漏らした。しかしその微笑は先程のように晴れ晴れとして喜びに溢れたものではなく、何か怯えて痛々しい雰囲気の微笑であった。その微笑は恰も、今貴方のしていらっしゃる事は良くない事ですよ、と訴え掛けているようであった。一瞬、彼はたじろいだ。其処には未だ心の内なる戦いの可能性があった。弱々しくはあったが、未だサラに対する真実の愛の声が存在していた。その声は彼女の事を、彼女の気持ちの事を、彼女の生活の事をオーベルシュタインに語り掛けていた。しかしもう一つの声は、自分の願望を、自分の幸福を取り逃してしまうぞ、と彼に嗾けていた。軈てこの第二の声は第一の声に圧倒されてしまった。途端に、抑える事が出来ないかも知れないと思われた末恐ろしい感情が消え去り、その後には独自の哀れさと沈淪した不幸が残ったのみであった。彼は姿勢を改め立ち上がると、右手をサラに差し伸ばした。
「……手を」
やはり声に出した事が愚かであったとオーベルシュタインは思った。サラに対し問うたとしても、当の本人はあの時の事、指に触れたのは全きの気まぐれからと思っているのだから、何を思っているなどとは愚問である。そしてあの時の事を覚えており、あの行為を意味のあるものとして見做したいという願望を、自分は自ずと告白してしまったようなものであるとも彼は後悔した。しかし今はそのような羞恥心よりも、更に深く、更に鋭利に失望を感じていた。他人に対する失望であれば彼のような人間は楽であったのだが、その失望は他でもない自分自身に向けられたものであった為に、彼は今まで以上に、愛だの幸福だのというものは自分には与えられていないと思ってしまった。また、オーベルシュタインはサラの手を取りつつこうも考えた。眼前にいるこの人間を手にしたところで、自分が抱えている苦衷は消えて無くなるのだろうか。いや、消えて無くなるどころかそれは助長し、益々この心臓を締め付け脳梁を震わせる事になろう。この人間を手にしたところで、自分には一切の利はなく、在るのは害のみである。従ってこの人間とは関わらず、直様距離を取るべきである──やはり……やはり、権力以外に何も持たない男など女は特に相手にしないのだ。美貌、品格、廉潔、これらの何一つ持ち合わせていないが為に、オーベルシュタインはサラの心を占める事が出来ないと思うのであった。彼は彼女と別れた後でも、その事で頭が一杯になっていた。鼓動する彼の胸には未だ彼女の体温が感じられ、熱を持った義眼には未だ彼女のあの微笑が映っているように思われた。彼の心には飛び立つばかりの嬉しさと、深い自責の念とが、複雑な織模様の如く交錯していた。彼が歩いている道は見慣れたものであったが、景色などはまるで異なった、別の惑星のものであるように見えた。