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When Lilacs last in the dooryard bloom’d



オーベルシュタインは椅子に腰掛けると、腿の裏から胃や腸、そして拳程あろう心臓が下へと沈んで行く脱力感に捉われた。無意識の内に深呼吸を何度もしており、肺にこれ程の空気を溜め込む事が出来たのが、彼には異様に思われた程であった。鉛宛らの重さを感じ悲鳴を上げている頭が背後へと倒れるのを脊髄の力で拒むと、前方、執務机の方へと意識を寄せた。しかし先程見た光景にオーベルシュタインの魂はすっかり奪われており、手にしたペンもインクを出す事なく、また眺めている報告書も意味のある文章となって頭に入る事なく、ただ彼の心臓が情けなく血を全身へ流す事をしていた。しかし遂にその心臓にも鋭利な痛みが走った。それは何かに刺されたり殴られたりした際に感じるものではなく、それは身体の更に奥深くから脳へと湧き上がって来る鈍いものである。オーベルシュタインには何故心臓がこのように痛むのか見当も付かなかった。握っていたペンを机に置き、代わりにその右手を心臓に当てた。幾ら触ろうとも痛みというものは減る事はない。しかし彼は軍服の上から心臓があるであろう位置に手を添え、再びあの光景が脳裏に浮かぶと、痛みに悶える心臓を鎮めるように、軍服を皺になる程に握り潰すのであった。あの光景とは、サラ・バラデュールの事である。此処元帥府にて彼女がその姿を現す事は非常に珍しいにも関わらず、偶然にもオーベルシュタインはその姿を二つの目で捉える事が出来た。しかし廊下を歩く後ろ姿があると思えば、その隣には一人の兵士が肩を並べていた。二十過ぎの若い男であった。そして彼女、彼女も同様に若く、いや、何も若さだけではなく美しい人であるという事を、彼は一瞥で見て取ってしまった。幾度となく彼女の顔を見ている筈であるが、あの美人の顔は帝国では全く見られない質のものであり、事更に印象が強かった。青白い顔色の女、黒髪が美しい巻毛となって肩の上に垂れている。物憂そうな灰色の眼、薔薇色の唇、雪白の手。穏やかな語調で、その男と話をしていた。階段にて二人は別れたが、オーベルシュタインが二人を見ていた時間はほんの数秒の間である。取るに足らぬ、何ら珍しくもない、良く見掛ける光景である。しかしそれを『取るに足らぬ』と考えた彼は、自分と彼女の間に流れる独特な時間も取るに足らぬものと考えるべきなのだろうかと思った。いや、あれはそれとは異なるものである。しかし他ならぬサラにとっては取るに足らぬものであろう。オーベルシュタインは、一向に改善されない心臓が自分に対し今までの罪──自分に心臓が存在する事さえ疑わしいと思っていた罪──を訴えている事に気が付いた。彼の左手はずっと堅く握り締めていた為に冷たくなり、色が悪くなっていた。彼が彼女の肉体に触れたのはあの時が初めてであった。そんな際ではあったが、彼はあの青白く弱々しい癖に、芯の方で火でも燃えているのではないかと思われる、熱っぽく弾力のある彼女の手先の不思議な感触を明瞭に意識し、いつまでもそれを覚えていた。何を思ったか、二本の細い指が彼の一本の太い指を掴んだ。たったそれだけでオーベルシュタインの魂は其方へ持って行かれ、頑健な体躯は忽ち硬直し、義眼も正面を向いたまま動く事をしなかった。彼は思わず愕然とした。戦場に出向き、多くの惨憺な情景を見ようとも心を動かされる事はなかった心臓が、死が眼前に現れようとも微動しなかった魂が、たったこれだけの不確かな出来事でそれらの存在を明らかにされようとは予想もしていなかった事であり、また、サラの存在を慄然と見ながらも、その彼女に何かを求める情動も自ら感じ取った。オーベルシュタインにとってそれは全くの初めての事であった。彼は今までその生命を憂悶と悵然の真っ只中に置いてあった為、その他の精神世界を知らずして歳を取ったのである。全く新しい精神世界へ彼を拉する存在は皆無ではなかったが、それらを拒絶していたのは決まって彼自身であった。しかし先程彼が見た光景、サラの持つ日の当たる世界に彼を必要とせず、誰か他の人間を拉しようとしている事を拒絶であると、オーベルシュタインは身を持って知らされる事となったのである。彼は今や彼女に対して、嘗て経験した事のない感情を抱くようになっていた。その感情は、初めの詩的な思慕でもなければ、その後に彼が経験する肉感的な愛の疼きとも、また彼が彼女の持つある事実を知った後に決心した時のような、自己陶酔と結び付いた義務遂行の意識とさえも全く共通点がなかった。それは最も単純な感動であったが、ただ異なるところは、サラに対する今までの思考は一時的なものであったが、今ではそれが恒久的なものになったという点であった。今はオーベルシュタインが何を考えようと、また何をしようと、彼の基調を成すものは感動──全きの静謐な心に差す細波であり、しかもそれは彼女だけに対する感情であり、全ての人々に対するものでこそなかったが、この感情は彼の心の中に、これまで出口を見出せなかった愛の流れに水門を開けた事になり、今やその愛情は彼の二つの目が捉え出会う人々の内にも見る事が出来たのである。彼はその細波を末恐ろしく感じながらも、サラの持つ精神世界との唯一の繋がりであるようにも思えた。また、その細波はオーベルシュタインにこのような過去をも鮮明に見せた。様々な姿形をした補装具が並べてある整備室に二人、椅子に座っている彼と、彼の右側の義眼を取り出した彼女がいる。彼女は義眼を台に置き、あるべきものがなくなった空洞を光で照らして状態を見ている。左目は未だ取り出されていない為、周囲を見る事が出来るが、彼は決まって下を向く事にしている。相手の吐息が頬に感じられる程に距離が近く、様々な情報が彼の意識に構わずして入って来る為である。しかし地面までの途中に存在するサラの身体。明瞭な輪郭から伸びる首、表面に浮かび上がっている左右対称の鎖骨、そして肌を覆う本繻子の白いブラウス。第三ボタンが外れており、銀のペンダントが流れる方角、上半身の中心へとオーベルシュタインの視線が巡った。彼女は少しも態とらしくなく、それを隠していたつもりであったのだが、彼女の谷間には恐らく臍の方まで深く、赤痣のような痕が出来ていた。唯の赤い線のものもあれば腫れているものもあり、しかし決まってそれらは外に向かって、中心から外へと刻まれていた。それは生まれ付きの痣のようにも見えたが、何かしらの作用を受け、最近出来た傷痕のようにも思われた。青白い滑らかな皮膚の上に、格好の良い形の胸板の上に、赤黒い毛糸を這わせたように見えるその痕が、その残酷味が、不思議にも性的な情動をオーベルシュタインに与えた。それを見て、今まで夢宛らに思われたサラの美しさが、俄かに生々しい現実味を伴なって彼に迫るのであった。乱れつつある視線を下へ、下へと向けると、今度は彼の股の間にある彼女の脚が視界に入った。男と女で太さや質量の異なる事が見て分かり、また、自分の太腿に置いている左手を見て、この手であれば彼女のものをすっかり覆い掴める事を容易に看取した。オーベルシュタインは其処で目を堅く瞑った。余り見てはならないものと思ったからであり、また無意識の内に呼吸も浅いものとなっていた。彼女は香水を付けていたのだが、それが今まで嗅いだ事のない程に馥郁たる香りであり、又もやそれを余り嗅いではならないものと思ったからであった。しかしそんな哀れな男のその左手の親指にふとした瞬間、体勢的に当然の事ながら、サラの太腿が触れたのであった。オーベルシュタインは何かしらの合図があるまで目蓋を開ける事が出来なかった。ミッターマイヤーやワーレンなどといった人間は、自分とは異なった感じ方をし、異なった感情の動かし方をし、また相手に対し異なった感情の持ち方をしているように彼には思われた。彼の頭の中には、至るところで我ともなく好奇心に駆られずにはいられない、また自分を疑う事を知らない人間の姿が無数に浮んで来た。オーベルシュタインはこうした考えを頭から追い払うと、自分は束の間のこの世の為ではなく永遠の世界の為に生きているのであり、自分の魂の中には安らぎすらなく、他人に捧げる愛、或いは他人から捧げられる愛などは皆無であると信じて疑う事をしなかった。また、彼が束の間のこの世で犯した過ちは当然、永遠の救いなどまるでないと言わんばかりに彼の胸に迫った。しかし一度愛すべき対象が現れると、皆無と思っていた事が可能性を帯びて来て、束の間のこの世で幸福というものに身を投じる事を夢想として彼に見せるのであった。初めは持ち前の沈着さと峻厳さが蘇っては来ていたが、それは時が経つに連れ、病魔宛らに、オーベルシュタインの心臓を痛め付けた。義眼を通して見ていた世界が一変した事も、忘れずにその幸福は彼に新たな世界を見せたのである。この後に何度私の心臓が乱れたら、報われるのであろう。答えは明瞭であったが、それに触れる事を無上に恐れた。そして再びサラのあの姿、心臓の真上にある謎の赤痣、そして生きた灰色の虹彩を想起すると、心臓から何かが引き千切れ、心が震え慄き、泣き声とも取れる吐息が歯と歯の間から外へと流れ出た。オーベルシュタインは、彼女と同様の部分にあの傷痕が刻まれたのではないかと自嘲する他なかった。

サラは他人から向けられる好意に敏感であり、また敵意や嘘なども同様であった。また、人間の集まるところへ飛び込む事をしない一種の人間嫌いの質を持っていた為に、二十を過ぎてはいたが恋人はおらず、誰かを真摯に愛した事もなかった。そんな自分の事を哀れと笑ってはいたが、彼女の意識は専ら別の方へと向いていた。恐らくそれは彼女の全てを支配し、また彼女の終焉もそれによって操作されるという事を彼女は理解していた。サラは銀河帝国生まれであるが、彼女の持つ思想は自由惑星同盟が掲げるものであり、彼女は母星を見た事がない生まれながらの諜報員であった。同盟国からの亡命者は氏名と顔が記録され一定の監視下に置かれるが、出生者は元から同胞扱いである。彼女は技師として働き、同じ同盟国の諜報員と合図を取り合いながら、情報を同盟国へ流していた。そしてその任務は自分の全てを支配し、また自分の終焉もそれによって操作されるであろう。自分の全てというのは家族や恋人、また自分の終焉とは同盟国か帝国による殺害、彼による粛清の対象となる事である。サラは初め、帝国軍の総参謀長と関わる事を避けようと考えた。彼に対する良い評判を聞いた事は一度たりともなく、彼程の人間であれば関わる人間の経歴を全て調べ上げる事など容易であろう。また何も紙に頼らずとも、あの義眼で相手の思考を読み取り、それを操る事に長けている。その能力でもって今の地位まで上り詰めたのだ。彼女は嘘は吐いていたが演技はせずに、オーベルシュタインと接するよう努めた。しかしその内に、彼という人間が持つ一見単純明快であるが本当は複雑なものを、看取せざるを得なくなった。彼が此処にいる理由、今の地位を手に入れた確固たる理由が、サラと同様のものであったからである。彼もまたゴールデンバウム王朝を恨み、劣悪遺伝子の持ち主である。それが彼の基盤であり、そして彼の人格を形成している。彼女が彼の義眼を手にした時にふと思った。この男は殆ど感情のない、大方無機物のようなものとして他人の目から眺められているであろう。しかしその内側には、その年齢に似合わず、人間の世の儚さ、情欲の惨酷さ、また愛情の脆さを、余りにも熟知している脈搏つ生命の記録がある。それはこの世に満足している人間には到底持ち得る事はない激しい情動である。それがオーベルシュタインという人間の真の姿であるとサラは見た。またそれだけではなく、彼が持つ躍動や穏やかさが、徐々に彼女の眼に映るようになった。その理由が何か彼女には明白であったが、彼自身は未だ理解に苦しんでいるように見えた。しかし彼女も良心というものを少なからず持っていた為、敵国の諜報員としては幾らか都合が良いものの、彼の意識を翻弄する事は自身の生命の安全を考えても気が進まなかった。ただ一つサラはオーベルシュタインの死角にいる事を利用し、二つの義眼にある細工を加えた。内から見た銀河帝国の仕組みを同盟国に流すのである。しかしその事が帝国に知られると、もう二度とこの技法で情報を手に入れる事は出来なくなる。その為に何事も慎重に、彼女は情報を渡す同盟国の仲間も選ばなくてはならなかった。人生を完成させるか、仕事を完成させるか、人間の知性は否応なく選ばなくてはならない。 もし後者の道を選ぶのであれば、天の宮居を拒み、暗黒の中で荒れ狂わねばならない。詰まるところ、私はどうなる?上手く行こうと行くまいと痕跡は残り、幸福の可能性を捨てただ母国の為に、そして昼間の自惚れと夜の悔恨が繰り返し、死に行く我が身に齎されるであろう。