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In our faults by lies



世間に最も広く流布されている迷信の一つは、人間というものはそれぞれ固有の性質を持っているものだという事である。即ち善人や悪人、賢人や愚者、精力的な者や無気力な者というものに分かれて存在しているという考え方である。しかし人間とはそのような生き物ではない。ただ我々はある個人について、あの男は悪人でいる時よりも善人でいる時の方が多いとか、馬鹿でいる時よりも賢い時の方が多いとか、無気力でいる時より精力的である時の方が多いとか、或いはその逆の事が言えるだけである。仮に我々がある個人について、あの人間は善人だとか利口だとか言い、別の個人の事を悪人だとか馬鹿だとか言うならば、それは誤りである。我々は常にこのようにして人間を区別しているが、これは公平を欠く事である。人間というものは河のようなものであり、どのような河でも水には変わりがなく、何処へ行こうとも同じだがそれぞれの河は狭かったり、流れが早かったり、広かったり、静かだったり、冷たかったり、濁っていたり、温かだったりするのだ。人間もそれと全く同じ事であり、各人は人間性の凡ゆる萌芽を自分の中に持っているのであるが、ある時はその一部が、またある時は他の性質が外面に現われる事になる。その為に人々はしばしば丸切り別人のように見えるけれども、実際には相変わらず同一人なのである。中にはこうした変化が特に激しい人間もある。
「ああ、こんにちは」
胸を張って堂々と歩く軍人らしい姿勢とは対極にあり、いつ何時銃弾が飛んで来ようとも視界の広さと俊敏さでもって難を逃れようとする生命の強靭さを、まるで持ち合わせていない人間がする姿勢。終始背後へと流れる地面を見詰め、相手の足元から上へと向かって視線を巡らせて行くという失礼極まりない態度で、サラ・バラデュールは乗り込もうとしたエレベーターの入口でひたと脚を止めた。中には既に一人の人間がおり、その人間は手入れされた革靴を履いていた。足の大きさからして高身長の男であり、漆黒のズボンの輪郭からして細身であると思いながら彼女は顔をすっと上げた。エレベーターの壁の一部の如く佇立していた男、パウル・フォン・オーベルシュタインは入って来た彼女の挨拶に一瞥と僅かな頷きで応えた。不自然に透き通っているその天色の虹彩は、例え暗闇の中にあろうと、将又燦然と輝く太陽の下にあろうと瞳孔が動く事はない。二つ共に一定の円を描いたまま、そして身体の調子の具合を現す結膜も白いままである。目線が合うとその二つの義眼をどうしても観察してしまう為、彼の隣に並ぶとサラは再び視線を下に向けるのだった。地上まで然程時間が掛からない位置であったが、ある階で軍の人間がどっさり便乗して来た。彼女は彼等の「失礼」という挨拶を聞き流しながら、身体を何処に寄せようかと辺りを見渡した。オーベルシュタインの持つ異様な風采を、乗り込んで来た人間が見事に感知した為に、その彼を避けるようにして壁に身を寄せようとしている。彼女は故意に間隔を取られている彼に二歩程近寄り、元いた空間を彼等に譲った。結局エレベーターに何人乗ったかは分からないまま、サラは幾つもの大きな人間の影で息を潜めた。左右にいる人間の体温が腕から犇犇と伝わって来る程に、それは長い時間に思われた。人間には、二人の人間に挟まれると、無意識の内に見知っている人間の方へ逃げようとする習性がある。彼女は自分の左側にいる見知らぬ人間よりも、右側にいるオーベルシュタインの方へと僅かに重心を傾けた。エレベーターの中で滾っている熱気から逃れるように右足に力を入れ、耳を聾する程の息苦しさから顔を益々下へと向けた。彼の左腕とサラの右腕がすっかり合わさる事は必定であり、またそれは事前に予想されていた事であり、彼女は地上までの短い間であるから互いに我慢出来るであろうと踏んでの行為であった。しかし右手の二本の指先に何かが当たった。それは一つの天使が男と女の手を合わせたのではなく、放たれた天使の矢を避けるようにして女がふと手を移動させた時に、オーベルシュタインの手を覆う薄い皮膚に触れたのである。全きの偶然であった為、それが彼のものであると分かるまで時間が掛かり、気付いた時には今更さっと離れる事も可笑しいのではないかと考えた。そもそも離れようとすると手首を反対方向へ向ける必要があり、義手でない限りそれは出来る事ではない。サラは首を動かして自分の右手の状態を見ようとしたが、彼の長い腕と軍服で見る事は叶わなかった。だが彼の手は依然として元の場所にあり続け、彼女の手を避ける仕草をしなかった。恐らく彼は気が付いていない。常に様々な考えを張り巡らせている人間であるし、それに眼前にある状況でも全く別の事を考えていたりする人間である。サラはこのままオーベルシュタインの手を取ってみようかと思った。どのような反応を顕にされようともその行為を彼女は上手く誤魔化せる自信があったし、アンドロイド宛らの彼に対して少しばかりの好奇心もあった。彼の弱味を握っていると言えば大袈裟だが、彼女はそれに近い位置にいる人間であり、弱味どころか命さえも難なく奪う事が出来る死角にいる人間であった。増してや彼の手を取るという行為は真意のあるものではない為、サラは軽い、子供がする悪戯のように、彼の一本の指を二本の指で取った。氷の如く冷たいであろうと思っていたのは何の根拠であろうか、オーベルシュタインの厚みのある指は燃え盛る火そのものであるように彼女には思われた。しかし子供の悪戯というものは、一見簡単で何の害もないようだが、後々、何らかの形を描きつつ微かにも響き渡る事はよくある話である……。

サラ・バラデュールは、両目とも義眼という軍人でも中々に珍しい類の生体を持っているオーベルシュタインの義眼の設計・整備をしている。彼女が今の職場へと異動するまでは、彼は何代も前の、言わば時代遅れの機械を目に組み込んでいた。『随分と古いですね』と感嘆を交えながら言うと、『技師に整備を頼んだ事がない』と彼は抑揚なく言った。物が見えたらそれで良いと言わんばかりの性格の持ち主である彼に、最先端の義眼を与えて感想を促す事をしたのだが、残念な事に述べられた言葉は何もなかった。以来、オーベルシュタインの義眼はサラの担当となり、施設内で顔を見る事が多くなった。一度戦場に出ると負傷者よりも死者が圧倒的に増える為、帰還者の内で補装具を必要とする者は僅かである。精密機械はやはり頻繁に手入れをせねばならず、且つ各々仕組みが微妙に異なっている為、技師はその情報を頭に入れて置き、いつでもそれを取り出す事が出来なければならない。それはある日の事──兵士の補装具が思い通りに動かなくなった為に修理をして欲しいとの連絡が入り、技術局から元帥府へ移動しその義足を診ていた時の事である。兵士をベンチに座らせ、義足の中にある二本の鉄筋の間に挟まっていた物と葛藤している最中、ふと視界の端に影が映った。兵士を囲むようにして数人いたが、それは彼等ではなく、長い廊下の向こうにその影はあった。小さくではあるが義足の表面にその姿が映っており、サラはそれを一眼見た。オーベルシュタインの目が額と眉の影から、何か特別じっと自分の方へ注がれていた。恐らく、技師というものは信用に値しない人間と思っているから終始監視していたのだろう。しかし彼女には何だかその天色が、汚れを知らぬ善良なものに思えた。彼は幾多もの犠牲の上に立っている人間であり、また、彼は世を変える力を持ち、その為に強大な権力を行使する事を躊躇わない人間である。だがその時は、何故か汚れを知らぬ善良さ……何でもって汚れや善良とするのかは彼女自身分からなかったが、そう看取してしまったのである。自分が設計した義眼であるから勘違いしたのだろう。サラは一旦そう考える事にしたが、もうその時から彼女は彼が特別な人間であり、特別な目付きで自分を見詰めている事に気が付き、それと同時に、その顔の中に二つの相反するものが奇妙に結合されている事に思わず驚かされたのであった。それは長髪と顰めた眉の与える厳しい印象と、その眼差しの子供宛らの無邪気な善良さの印象であった。義眼の点検整備の時、サラは真面にオーベルシュタインを見た。廊下の向こうから覗かれた時のように彼から見詰められる事はあったが、自分から彼を見る事は殆ど初めてであった。彼女は彼の義眼を見るのではなく、その奥に存在するかも知れない無邪気さや善良さを見ようとしたのである。二人は一言も私的な言葉を交わす事をしなかったが、互いに見交わした視線の中には、二人が互いに相手を記憶しており、どのような形であれ互いにとって相手が特別な人間である事を告白していた。二人はその後も特にこれといった話をしなかったが、オーベルシュタインが自分の前で話す時には、その話は自分に向けられており、彼が出来るだけ穏やかな調子を使おうと努めている事をサラは感じ、また彼女も彼に対してそのようにしようと努めたのであった。二人は親しい間柄ではなかったが敵でもなく、特別な人間、自分とは対極に存在する人間として認識をしていた。『卿の魂を幾多もの宇宙の前で、冷静に且つ沈着なままにして置くが良い』と言い放つオーベルシュタインの不壊の精神。吐息宛らの、力みのない声だが相手の懐奥深くを轟かせるその魂。死のような沈黙が彼全体を支配しており、様々な思考が憎しみに満ちて心の中で沸騰している。私は全てが憎い。この手で全てを破壊したい。出来る事なら、私にそれが出来るのであれば。これらの感情が長髪と顰めた眉の与える厳しい印象を成しているとすれば、それと相反するもの、オーベルシュタインの眼差しに存在する無邪気な善良さは一体どんなもので成しているのだろう。サラはあの天色に決まってこう言うのであった。この世を変えて見せて欲しい。あなたに出来るのであれば、この私に見せて欲しい。しかしその思いに価値は微塵もないように思われた。