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Shadow of Apollo



夜明けの灰色の中間色は、色の度合いは同じかも知れないが、夕暮れの灰色の中間色とは異なっている。朝の薄明かりでは光に活気があり、闇が大人しく見えるが、夕暮の薄明かりでは生き生きとして、次第に広がって行くのは闇であり、その反対に眠たげなのは光である。薄い衣服の上を滑り、微かに肌寒さを訴える身体を小さくしながら、サラは朝刊から顔を上げた。未だ起きていない天が、燦然と煌めくあの光に満ちるにはもう少し時間が掛かる。しかし船の中央には既に剣士二人の気配があった。終始沈黙している二人は各々身体を鍛えており、空や地面に顔を向けているが実際に目で捉えているものは何もない。彼は今、何を考えているのだろうか。素性を明かさない彼だが、何かを抱え、またそれを苦悩としているのは容易に看取出来る。彼が時々浮かべる、隠し切る事の出来ない無量の苦衷。一方で、滾々と湧き出でる水のように、心も瞳も絶えず自分を追い慕う愛情。何方も疑いようのないものだが、相反するそれらは彼の心臓を惑わせ縮ませている。彼の抱えているものを知り理解したいと思うも、彼は胸の内を開く事をせず、他人の理解を得ようとはしない。だが恐らくそれを理解したところで、自分には何も出来ないであろう。唯一何か出来るとすれば、彼の心を愛情ではなく、無量の苦衷へと向けさせる事である。いや、既に其方には向いているだろうが、自分を見詰めるあの双眸には真っ直ぐなものがある。愛に溺れるよりも人生の宿命に挑む方が、彼という人間には相応しい。であるから、自分は心を殺し、短いながらも共に海を渡った友として、彼の背中をそっと押すという事をしなければならない。自分には与えられていない道が、彼には狂瀾と開かれているのだ。
「おはよう、モモの助くん。早いのね」
「これからゾロ殿と稽古なのだ」
「え、ゾロと?」
「ふむ!早く強く、そして大きくなって、拙者が皆を守ってやらねば!」
「モモの助、頼もしいぞ!」
黒い海の色をそのまま映した瞳の中に、きらりと煌めくものが走った。サラは自分でも分かったが、どうする事も出来なかった。天が起きてくれさえすれば、日の光によって海を明るい色にしてくれさえすれば、走る煌めきも身を潜める事が出来ただろうに。彼女は桃色の愛そのものである存在に微笑しながらも、錦えもんが自分を見詰めている事を感じ取った。その嘘のない黒い瞳を捉えるべきか、それとも気付かない振りをするべきか。自分にとっての光がいざ眼前に現れると、先程までの冷たく、心に隙間を作るという行為も早速無に帰そうとした。サラは寄って来てくれたモモの助の丸い肩に手を置こうとして、止めた。いや、手が動く事をしなかったのだ。その訳を彼女が自覚すると勝手に、魂の赴くままに、抗う事が全く出来ずに、二つの眼が錦えもんに向けられた。はなから私は、そうする事が出来ないと知っていたのだ。彼の背中を押す事など出来ないと自分で知っていたのだ。今は未だ……。随分と頻繁に──必ずしも偶然とばかりではないが──この船で真っ先に起きる二人は、自分達が世界中で一番早く起きている人間のような気がした。サラは顔を洗うと、朝刊に目を通す為に直ぐに外へ出た。すると大抵、錦えもんが今日のように鍛錬をしている。太陽か仲間の誰かが姿を見せるまで、二人の視線が交わる事はなく、だが互いの存在は意識をし合う。錦えもんは今回は、偶然にもモモの助の力を借りる事が出来た訳であるが、空や海を見ながら幾度となく思い浮かべた彼女の顔を、こうして未だ薄暗い天の下で見る事が出来た。広々とした海に満ち渡っている朦朧と淀んだ水のような光は、二人にまるでアダムとイヴでもあるかのような、世界から隔絶した感覚を抱かせた。一日の始めのこの朧げな時刻には、気質も肉体も二つながら荘重な大きさを、女神にも等しい力をサラが示しているように錦えもんには思われた。恐らくそれは、この異常な時刻に彼女程の容姿の立派な女性が、彼の目の届く限りの外を歩いている事はまずあるまい、こんなにも壮大で未知なる外国の中でも殆どあるまいという事を、彼が知っていたからである。美人というものは大抵、夜明け方には眠っているものだ。しかし彼女は直ぐ手近にいる──やはり、いや、想像以上にそなたは美しい。己の頭が拵えた偽物とは、比べものにならぬ程に。
「ゾロはちょっと加減を知らないところがあるから……」
「拙者はワノ国の将軍になる男!全て受け止めて、」
「おーいモモ!さっさとこっちに来い!」
二人が、慌ててその場を立ち去り、もう一方の剣士の元へと急ぐ男児の後ろ姿を見送ると、先程までとは異なる空気へと変化したのを、二つの心臓の柔らかな唸りと共に感じざるを得なかった。 二人を包んでいる混沌とした異様な、神が齎す仄明るい光が、二人に救世主復活の時刻を思い起こさせた。錦えもんは、異国の神が傍にいるかも知れないなどとは殆ど考えてもみなかった。辺りの風景がすっかり中間色であるのにも関わらず、彼の目の焦点となっている娘の顔は霧の層から浮き上がり、一種の燐光を帯びているように思われた。太陽が現れる寸前の、最後に吹く早朝の冷たい風を受けており、二人は自分自身で気が付かなかったが互いに同様の相貌を呈していた。
「将来が楽しみですね」
「ああ」
「楽しい思い出を此処で沢山作って欲しいです。モモの助くんは時々寂しそうな顔をしますから」
何もサラが錦えもんに深い感銘を与えたのは、この時ばかりではなかった。彼女はもはやただの海賊ではなく、幻の女の精、全女性が結集された一つの典型的な姿をもつ人間であった。読む事で培った異国の神々の難しくも美しい名が、何故か次々と彼の頭に閃いた。それは凡ゆる神を、唯一己の心を惑わす者と繋ぎ合わせていた為に、それらは皆彼女の姿をしていた。彼はそのような纏まりのない考えの中で、彼女の名を己に捧げてはくれないだろうかと思った。サラ・バラデュールという名は己のみが口にする事が出来、そして彼女には新たな名を謳って貰うのだ。アルテミス、デメテル……揶揄い半分にその名を心の内で呼ぶと、彼女の存在が益々異国の神の如く思えて来た。『神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された』──しかし軈て辺りが次第に明るくなって来ると、彼女の顔は唯の女の顔になって来るのだった。祝福を与える神の顔から、祝福を願う人間の顔に変わったのである。
「アルテミス」
「?」
そなたは何を大切にし、誰を愛す。そして何の、誰の為にその命を投げ打つ……。

毎日、あの不思議な荘厳な時刻、朝の薄明かりの中、様々な色が淡い色と化す夜明けに会った。錦えもんは、サラにとって未だほんの取り留めのない現象、彼女の意識の中でやっと永続性を持ち掛けたばかりの、蜜柑色の心暖まる幻影に過ぎないと思っていたのだが、彼女は心行くまで彼の事を思い耽った。それは、このように彼に心を奪われる事は非常に珍しい、新鮮な興味深い異性に対する哲学者の関心に他ならないと考えたからである。一日一時間と時が経つに連れ、サラには錦えもんの性質が少しずつ分かり、また彼には彼女の性格が幾らかずつ理解されるようになった。二人は抑制した生活を送ろうと努めていたが、自分自身の生活力の旺盛さには殆ど気付いてはいなかった。サラと錦えもんは互いに無意識の内に相手を観察し合いながら、絶えず激情の淵の縁で危うく踏み止まっていたが、表面は冷静を保っていた。その間ずっと二人は丁度谷間を流れる二つの川の如く、抵抗し難い法則に従い確実に一つに合する道を辿っていた。彼女は近頃の生活で今程に幸福な事はなかったし、恐らく二度とこれ程の幸福を味わう事もないであろうと思った。サラも錦えもんも今のところは未だ好意とも恋愛ともどっちつかずの不明瞭な所に立っていた。別に深みへ嵌る事もなく、また、この新しい流れは自分を何処へ連れて行こうとするのだろう?これは自分の将来に対してどういった意味を持つのだろう?自分の過去に対してどんな関係にあるのだろう?と、おずおず自問する反省の心もそれ程には起こってはいなかった。しかし……共にいる、苦しみに満ちた無限の歓喜──苦しみの帯を締めた楽しみ──の数ヶ月。その後には、言うに言われぬ暗黒の夜。