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To you



錦えもんにとって徹宵、起きて過ごすというのは苦痛な事であった。それは体力的な事ではなく、この独特な静けさの中でたった一人になると、深い孤独感に身も心も抗う事が出来なくなる為である。しかし近頃は以前と全く異なり、出来る限り一人で過ごす時間が欲しいと思うようになった。そしてこのように世にたった一人になると、決まってサラの事を想起するのであった。己の魂を彼女の存在へと傾け、彼女のあの双眸が映した世界を己の目に映し、己の接吻が彼女の頬に届くのを、姿を見せている丸い月と共に夢想した。サラ・バラデュール、そなたは正に幼い娘そのものであり、爽やかに拙者に笑って見せるが、心の内では殉教者のような考えを持っている。そなたはこの茫茫とした海を流離いながらも、常に様々な事を考え抜いている。しかしその考えに苦しみ悶え、それを必死で頭から拭おうとしている。だが拙者は手を貸す事をしない。人間は苦しみを全て捨てる事は出来ないのだ。それと共に生き、そして自己を治める術を学ばなければならないのだ。だから拙者はそなたをその苦しみから解放する事をしない。だがそなたの傍にいる事が出来るのならば、それを許してくれるのであれば、拙者はそなたの手を離す事はしない、拙者はそなたを見捨てる事はしない。あの時──辿り着いた島にて密かに娘の後を尾け、そして偶々それが功を成した時の事である。一瞬、ほんの一瞬、未だ誰の関心も引いておらず、狭い道に佇んでいた拙者と娘。不覚にも拙者が娘の方へ顔を寄せてしまい、正に……正にあの唇に接吻をしようとした。いつも娘に対してするように身を屈め、細い顎の先から浮き出た輪郭へと視線を流し、しかし娘の魂の色である深緑の瞳へは行かず、紅がさされた豊かな唇へと捕らわれた。一度捕らわれると、視線を他へ転じるという事は中々に難しいものである。そなたが欲しい。だが無上に恐ろしい。未だその唇に触れていないにも関わらず、その感触や滲み出る香りある味が、女の魅力が、己の口の中に広がった。そしてそれは直ぐ様に脳梁を震わせ、己に幻覚を見せようとした。己がこの娘を愛する心と同様のものを、この娘が抱いているという幻覚である。最初、それは幻覚などではないと思った。この娘は、短い間ではあるがこのように傍にいる事を許してくれ、且つ己に対し拒絶を見せない。であるからして、それは幻覚などではない──だが、ならぬ。何故あの時、そう思い直し姿勢を正したか分からなかったが、今考えると、それは拙者が娘の心の内を未だ見てはいないからであろう。あの海色は終始じっと己を見詰めていた。いや、見詰めていただけではなく、己から何かを汲み取ろうとしていた。あの趣ある海色は……あの瞳からは何も感じる事が出来ぬ。あの瞳に何が映っているのかも、何を秘めているのかも分からぬ。ただ取り留めのない物悲しい思想を抱いており、己に対して抱いている事は一切分からぬ。にも関わらず、愚かにも勝手に己の心は燃え上がる一方である。たった数日、たった数日で良い。あの娘が拙者を愛してくれたら!
『お主は何を恐れる』
そなたの眼が飽きを知らずに拙者の目を見詰め、そして軈てはその眼が重い目蓋の下で悲しげに伏せられようとも、そしてそなたの愛が終わりかけていると感じようとも、拙者はこの心が老いるまで──嘆きもせず、倦み疲れもせず、拙者は過ぎ去る時を託つ事なく、そなたを愛し抜こう。我々の前には永遠が横たわっている。我々の魂とは愛だ。そして絶え間ない別離だ。
『人間は死ぬと、後には何一つ残りはしないのに。何一つ』
友よ恙なく、健やかな心の平和がそなたと共にあるように──しばしば人の集まりを求めながら、それよりもただ一人自らの為にある──そなたにとって幸福な日々が多く、人間にとっての祝福であれかし。サラの穏やかな眼の中に煌めく精神が踊り、思考や感覚の短い測鉛で測れぬ程に深いその泉に映える陽光は、魂の電光の下に絶えず躍動する。彼女の存在の爽やかさはこの泉から溢れ、愛によって生み出される。光と動きの明らかな混合による暖かい色合いで、生気のない空虚な冷たい大気を染める。しかし錦えもんによる精神的な忘却は、ある記憶と共存していた。彼は今、光の中を歩いているように見えるが、背後には深い闇の影が常に広がっている事を知っていた。それらは毎日少しずつ、退いているか、または近付いているか、その何方かであった。拙者はこの心が老いるまで嘆きもせず、倦み疲れもせず、拙者は過ぎ去る時を託つ事なく、そなたを愛し抜こう。我々の前には永遠が横たわっている。我々の魂とは愛だ。そして絶え間ない別離だ。我々を待ち構えているのは究極の畏怖すべき永遠であり、拙者を待つのは転生と反復の永遠である──何と愚かな情動よ。何と、愚かな……だが、そなたは何を思う。この海を自由に流離う娘、そなたはこの拙者に何を思う。憐れ、幸ある、幸ある月と星々よ、光芒を散らしも敢えず、世に別れを告げやる事も絶えてなく。また、幸ある自由人よ、倦む事なく、永久に新たな歌を永久に吹き鳴らしつつ。増して幸ある恋、いや増して幸ある、幸ある恋よ、永久に情は熱く、喜びは絶える期なく、永久に憧れ渡り、永久に瑞々しく──悉く現身の情動を遥かに超えて息付きつつ、心をば切なる悲しみ、憂き思いに満たし、燃ゆる額、渇ける舌を形見に移ろう、その情動を。