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Ephemera



サラは時間も場所も意識をしなかった。星を見詰める事によって思いのままに出来ると彼女が思う魂の高揚は、今は極めて自然に行われた。彼女はブルックが奏でるヴァイオリンのか細い調べに乗って波動し、その諧音は微風の如く彼女の身体を吹き抜けた。辺りに漂っている花粉は彼の弾く調べが形に現れたもののようであり、また、海の潮風は海が感動して啜り泣いているもののように思われた。もう日は暮れ掛かっていたが、不快な臭いを放っている雑草の花は、楽の音に聴き惚れて花弁を閉じようとしないかのように輝き、色の波は音の波と混ざり合った。今尚輝いている光は、主に西の方に棚引いている雲の大きな裂け目から流れていた。他の所はすっかり宵闇に包まれていた為、その光は偶然取り残された昼の一片のようであった。
「すまぬ、お主一人の時間を遮ってしまった」
「いえ……今、中へ入ろうと思って」
ブルックが物悲しい曲を弾き終え、波が寄せる音のみとなった時、船の中央へと続く階段を誰かが降りて来る気配がした。サラは次の曲が始まるだろうと思い待っていたが、代わりに下駄の音が聞こえた。錦えもんは一直線に、彼女の方へと歩いて来た。二つの心臓が、同時に大きな動悸を打った。彼女は顔を僅かに熱らせ、こっそりと立ち去ろうとした。しかし錦えもんは彼女の薄色の夏衣に目を留め、声を掛けた。少し離れてはいたが、彼の低い調子の声は彼女の耳に入った。
「空、綺麗ですね」
「ああ、誠に」
「一人になると、気が滅入る時ってありませんか」
「ふむ。拙者も時々、そのような心持ちになる」
「え、ワノ国の侍が『気が滅入る』?」
「ハッ!ち、違う!前言撤回でござる!拙者、今の今まで気が滅入った事など一度もない!」
慎重な面持ちでその姿を見せた錦えもんであったが、サラの言葉一つで対極にある質、彼の快活さが顕となった。その単純さに彼女の気難しい魂はそっと包まれ、その高潔さが彼女の崇める対象となるのを、彼女は深緑色の瞳を細めながら沸々と感じた。「冗談ですよ」と笑って、再び暮れ掛かった日が齎す情景へ瞳を転じた。サラはその美しさに高ぶる鼓動を抑え、神秘に触れる事によって自らの生命を虚無と同化させようとした。それが、彼女の持つ癖であった。
「この静けさが、永遠の事のように思えて来るんです」
ああ、何という静けさか──静寂は鎖で固く繋がれ、忙しい波の音さえ、不壊の静けさを更に強めた。その平穏な大気を、周りに深まる静けさを乱す事なく──差す日の光によって様々な海の色に変化をするサラの虹彩。先程まで錦えもんの身には彼女に話し掛けるという勇気が灯っていたが、今は専らその身を彼女の魂が傾けているものに同調をした。錦えもんには、その事が容易に出来た。
「お主は何を恐れる」
サラは躊躇い、暫く黙っていた。彼女は、自分とは何者であるのか、何の為に生きているのかという事をふと考えると、その答えを見出す事が出来ずに絶望に陥った。しかしそれを自問しない時には、自分とは何者であり、何の為に生きているかという事も、自覚をしていないだけで本当は分かっているような気がした。というのは、彼女ははっきりとした態度で行動し、生活をしていたからである。事実、最近の彼女は、以前に比べ遥かに毅然とした態度で生きていた。自我と共に生まれ、それによって苦しみながら生活をしていた彼女であったが、今ではその親しみ深い苦しみさえも自我の一部として享受し始めたのである。
「この世の何を恐れるのだ。拙者に打ち明けてみよ」
肉体の残骸や、ゆっくりと腐って行く血液や、癇癪を引っ張り出す錯乱や、鈍重な老廃や、或いは、更に不吉なものがやって来るまで──例えば仲間達の死とか、はっと息を呑む程に輝いていた目のどれもが死に果てるとか──一切が地平線の薄れ行く時刻の空の雲でしかないように見えるまで、或いは深まり行く夕闇の中で鳴く眠たげな鳥の声のようになるまで、我々人間には定めというものがある。
「時々こうして生きて行く事が煩わしく、重苦しく思うんです。人間は死ぬと、後には何一つ残りはしないのに。何一つ」
何の為にこんな事をしているんだろう?サラは考えた。何故私は此処に突っ立って、今日最後の日に照らされている街の人々を眺めているんだろう?この街の人間、いや、この世の人間は何故、皆齷齪し、周りにいる人々の前で働き振りを見せようと骨を折っているんだろう?彼女は石畳を歩く、日に焼け虚な目をした人々を一人一人眺めながら考えた。この街の人々は今日明日でなくとも、もう十年も経てば、老衰か殺害か災害かで死に、土の中に埋められてしまう。そしてその後には何一つ残りはしない。あれ程に優しい手付きで母親の手を取っている、あの幼い子供であってもいずれは埋められてしまい、何一つ残りはしないのだ。
「お主のような若い女子が、今からそのような事を考えておるとは──それは一体何故にござるか」
またサラは、腹を波打たせ鼻孔を大きく膨らまし、はあはあと息を吐きながら、足元の車輪をやっと引っ張っている馬を眺めながら考えた。この世に生あるものは何であろうと直ぐに土に埋められてしまうのだ。あの縮れた顎髭を籾殻だらけにし、シャツの破れ目から肩の黒い皮膚を見せている運び屋の老人も、結局は土に埋められてしまう。にも関わらず、彼は穀束を解いたり、何か指図をしたり、怒鳴り付けたり、動力輪のベルトを素早く直したりしている。そして何より重大な事は、何もあの人々ばかりでなく、この私も土に埋められてしまい、後には何一つ残らないという事だ。これは一体何の為だろう……。サラは脳裏に張り付き取る事が出来ない考えを霧で覆いたいが為に、そして他でもない自分自身を嘲笑するように微笑した。
「生を呼び起こし、こんな恐ろしい空想を追い払う事に意味があるのでしょうね」
錦えもんは、この若い娘──海賊に過ぎないが、その容姿には何処か稀な風情があり、世の娘達の羨望の的になっているであろう──が、こんな悲しい空想を抱いているのを知って驚いた。彼女がこんな若い身空で、このような感情を抱くようになった事が不思議で仕方がなかったのだ。
「錦えもんさん、あなたが恐れるものは?」
いや、不思議以上に感銘深い、興味のある、痛ましい事であった。この原因を推測する事が出来ない為に、錦えもんには、経験とは度の強さによるものであり、期間の長さによるものでない事を思い出す術がなかった。サラの一時的な肉体上の暗影は、彼女にとっては精神上の収穫であったのだ。彼にはそう思われた。
「拙者が恐れるものはただ一つ」
錦えもんが持つ、すうっと頬を撫でるような低いが慈悲深い声。そして彼がサラに対して決まって浮かべる慇懃な表情。それらが彼女の直ぐ傍にあった。彼の中にも彼女と同様の苦しみがあり、それを年の数だけ彼女より強く感じながらも此処まで生きて来ており、また、それを彼は彼女と同様に魂の一部として享受し、今其処に立っていた。人間の定めをも、自ら背負う運命をも、その厚い胸に秘め、情熱と愛をも掻き抱きながら、彼は彼女と同様に生きているのである。サラは自分の神経がネジに巻かれた楽器の弦の如く、次第に強く張って行くのを感じた。その瞳はいよいよ大きく見開かれ、手足の指は神経質に動き、胸の中では何ものかが息を押さえ付け、この揺れ動く薄闇の中にあって、全ての形象や響きが異常な鮮やかさで自分を驚かせた事を感じた。しかしその時、背後から何やら騒がしい声が飛んで来た。恒例の、仲間内での取っ組み合いが始まったようであった。