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The second coming



関羽と出会ったその日から、小雪は彼と会う度に出会った日を想起し、そしてその日に感じたものと全く同様の気持ちを味わうのであった。彼の聡明な眉の影に潜む眼光、長い顎髭を引き立たせる筋の通った鼻と薄い唇、頑健な体躯から漂う昂然さと煌る技倆。先日と同様、彼のその姿を見ただけで、彼女は胸の高揚を覚えずにはいられなかった。その足音や話し声、笑い声を耳にしただけで喜びに胸が震えた。その濡れたスグリの実のような黒い瞳が微笑んでいるのを見ると、思わず感動せずにはいられなかった。いや、何よりも彼が自分を見掛けて目を伏せたり、さっと視線を外すところを見ると、自分でもどぎまぎしてしまうのだった。小雪は自分が恋をしてしまった事を感じた。その恋は以前考えていたような、とても神秘的な、自分にさえ打ち明ける事の出来ない、一生に一度だけの恋かどうかは分からなかった。しかし今や彼女は自分が恋に落ちた事を知り、それを喜び、それを自分に隠していたものの、その恋がどんなものであり、どのような結末に終わるかを朧げに知りながら、益々その恋にのめり込んで行ったのである──暖かな明るい夜であった。右手には利鎌宛らの新月が高く掛かっていた。月と反対の方向には、小雪が胸の内で自分の幸福と結び付けている、かの彗星が輝いていた。生きとし生けるものに行き渡っている喜びへの欲望。潮が寄る辺ない海草を押し流すように、人間をその目的へ向かって押し流すあの恐ろしい力は、世の掟書を灯下に紐解いてみたところで、到底抑えられるようなものではない……。
「何故そなたは日の高い時分に読む事をしないのか」
「昼寝をして、眠れないのです」
外にいる自分の姿を捉えた関羽が此方へ寄って来るという事は、小雪の頭の中では予め予期されていた。彼女は月光で書物を照らし字を追いながらも、彼の呼吸、足音、そしてあの独特な佇まいを思い浮かべた。それらはとても明瞭であった為に、それらが眼前に現れ、自分に彼の幻覚を見せるのではないかと思われた程であった。関羽は少し屈み、小雪にのみ聞こえる声、彼女の頬をそっと撫でるような声で非難をした。正にこの声が彼女にとって無上の喜びであり、それと同時に無上の恐怖でもあった。彼女が唯一恐れるのは彼であり、彼の魂の前に立つと、懐の奥深くに大層大事にしまっているものが悉く溢れ出し、彼の目に一つ一つ映ってしまうような気がするのである。いつも関羽の顔を仰ぐ時と同様、若々しい血が小雪の愛らしい顔を赤く染め、黒い瞳は嬉しげに微笑を称え、恥じらいがちに下から見上げながら彼の顔を捉えた。
「関羽様、一つ叶えて欲しい事がございます」
「聞こう」
「私は馬を自由に走らせる事が許されておりません。ですから関羽様、この私を屋敷の外へ連れ出して頂きたいのです」
「劉備様はそなたを気に掛けておられるのだ」
「一人で出掛けたいので馬を貸して欲しいと申しましたら、劉備様は顔を歪められました」
そう言うと小雪は顔を歪める真似をした。一人の立派な教養ある女性が、読み書きを覚えた頃の幼児に見えた為に、関羽はクツクツと笑い声を上げた。しかし彼はその目を細めながらも、専ら月光に照らされた彼女の姿に心を奪われていた。闇色の豊かな髪、人間の手によって彫られたような完璧さを持つ桃花眼、落ち着きを放つ淑やかな唇。そなたは変わられた、誠に美しくなられた。そなたの一瞥の強い魅力の前には、この世の何も敵うものはない。正にその時、火薬の如く燃え上がった愛情。幾度となくその姿を顕にしたそれであったが、関羽の中でさっと冷水を浴びたように死の如く静まり返った。一見、小雪は以前と同様であった。しかし実際は異なり、彼女は何処かぼんやりとしており、眼前の事ではなく、何か自分自身の特別な事に気を取られているように彼には見えた。時に彼女は辛そうに顔に皺を寄せ、自分から遠く離れているものを見て取ろうとしながらも、それが出来ないような様子をする事があった。彼女は善良な人間だが、紛れもなく不幸であった。
「今宵は良夜だ。同行致す」
その途端、小雪の顔がさっと明るく輝いたのを関羽は見逃さなかった。しかしこの微笑を見ると、彼は痙攣で喉を締め付けられるような思いに駆られた。そなたの死は近い──私は、そなただけが助かれば良いと思っている。日々少しずつ死んで行くのは我々のみであり、そなただけは生き永らえる事が出来たら良いと……。彼女の顔には肉体という重荷を負った魂の、秘められた、崇高な苦悩の厳しい表情が滲み出ていた。

二人は一頭の馬に跨った。屋敷の門を潜ると直ぐ様、関羽は巧みに馬を操り颯爽と走らせた。小雪は敏捷に過ぎ去って行く見慣れた情景に脳梁を震わせた。背後には彼の逞しい存在があり、それは彼女が現世に於いて望む全てであった。このような幸福があろうか?この私に、この惨めな私にこのような幸福が?どうかこのまま遠くへ、このまま二人で。その途中、小雪が初めて関羽に会った野原を通り過ぎた。彼は身長が高く、膝を折り屈んで貰わないと顔を見る事が出来なかった。あの時、彼は「怪我をさせてしまう」と言って共に遊んでくれなかったのだが、彼女は未だにその時の落胆した気持ちを心に残していた。劉備軍の陣地の方角に灯りが見えたと思うと、その傍にある一つの小さな屋敷が朧げに姿を現した。灯りは寝室の窓から差し、窓の前の木の枝が揺らぐと、彼女に向かってちらちらと瞬いた。その屋敷の輪郭が分かるようになると直ぐ、それは全く昔と同様に小雪の想像力を掻き立てた。それはいつでも彼女の肉体と生命の一部分であるように思われた。その屋根窓の傾斜、破風の上塗り、天辺に乗っている途切れ途切れの煉瓦の列。それらの何もかもが、彼女の個性と何か共通したものを持っていた。彼女の二つの眼には、こういった特徴の全てが一種の麻酔に掛かっているかのように思われた。
「昔はよく馬を走らせたものでしたが──覚えていらっしゃいますか」
「ああ」
馬から降りると、物思いに沈みながら二人は朽ちた落葉の道を辿った。関羽は小雪の手を取ろうとしたが止め、静謐な中に情熱を孕ませながらゆっくりと先へ進んだ。人間の惑う心を幾度となく倦ませた森が、二人の周囲にはあった。薄闇の中で黄色の葉が光の褪せた流星のように落ち、一匹の老いた兎が足を引き摺って小道を去った。兎の上にも秋が来ていた。そして今、二人は再び侘しい湖の岸辺に立った。関羽が振り向くと、小雪は黙ったまま、その眼のように濡れそぼった枯葉を一つ拾っていた。
「そなたは酷く……お痩せになられた」
「恐らく私は、兄と同様の病なのでしょうね」
「小雪殿、気を強く持たれよ」
血は空気に触れると鮮やかな赤色に変化する。しかし小雪の兄が横たわった寝台は赤黒く染まっていた。その色は空気に触れる前の、人間の体内を巡っている血の色であった。止血する為に鼻に巻いた包帯も意味を成しておらず、最期は皮膚と爪の間からも血が止めどなく滴り落ちた。小雪は日に日に弱っている。少しずつではあるが、確実に。間もなく彼女はあの兄と同様の運命となるに違いない。関羽は自分の事を考えず、彼女の事を考えた。彼女の状態が苦しくなるに連れ、これから先の事が恐ろしくなるに連れ、それらとは益々無関係に、嬉しく心を和ませるような思考や、思い出や、情景をその胸に浮かばせた。
「この先に最良がある事を信ぜよ」
最良──私の最良とは今である。私は此処にいるのがとても好きだ。非常に厳かで寂しく、傍には私の大きな幸福が、そして頭上には大空ばかりが存在する。まるでこの世に我々しか存在しないようである。そして、本当にそうだったら良いのにと思う。小雪は僅かに首を振った。複雑な感情が湧き起こって来て、喉が詰まった。彼女には関羽を見上げる事が出来なかった。
「関羽様の最良とは何でしょうか」
事実、小雪の傍にいると、関羽は自分が如何にも幸福に思われた。また、彼女の考えと異なった考えは何一つ抱くまいと思った程、それ程完全に幸福であった。そして彼女の微笑以外、そしてこうした季節により姿を変化させる小道の上を二人で歩くという事以外、何一つ望む気持ちにはなる事が出来なかった──このように人間の内には愛情と和合がある。しかし外には、彼等の外には冷酷無情な世間があるのみである。関羽は忽ち他の凡ゆる希望を諦め、現在の全き幸福の中に身を任せながら重々しい調子で言った。
「今この時だ」
関羽の声を聞くと明るい光が小雪の顔に燃え上がり、その悲しみと喜びを同時に照らし出した。軈て涙が、何も見えなくなってしまう程の涙が、彼女の頬を伝って流れ落ちた。

Barcelona - Come Back When You Can