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Prometheus unbound



孔明が恐れたのは、正に他ならぬ小雪という女性であった。他の武将と比べると顔を合わせる頻度が極端に少ない為か、将又、全く別の理由かは彼自身分からなかった。彼女と会ったのは一、二度、多くても三度程であり、一度は偶然に幾つか言葉を交わした事さえあったが、不思議と未だに彼女だけが恐ろしく思われたのであった。小雪の面影は、美しい、気位の高い、高圧的な娘として強烈に記憶に残っていた。しかし彼を苦しめていたのは彼女の美しさではなく、何か他のものであった。つまり彼自身の恐怖を説明出来ない事が、今その恐ろしさを一層強めていた。彼女は異質な存在であった。小雪という人間は、孔明の全く新しい人生に於いて、一つの星雲の、その渦の中心に位置する人物であった。他と何ら変わらぬ、一定の、ひっそりとした目立たぬ光を放つ星なのだが、孔明にとっては正に最も輝いている巨星であった。彼女の信念が極めて立派なものである事は彼にも分かっていた。そしてそれを認め、そうした美しい寛大な心持ちを正しいものと看做さずにはいられなかったにも関わらず、彼女がいる屋敷の傍を通ると、決まって背筋を寒気が走り抜けるのだった。朝、起床が早いと昼時には耐え難い眠気が齎され、頭の中に靄が掛かったように働く事をしない。その為に孔明は昼寝の習慣を持っていたが、軍師として仕えてからは眠気覚ましに外へ出るようになった。軍の状態を見る事もあれば、民衆の中へ溶け込む事もあった。しかし孔明は山へと足を向け、空ではなく地面を見詰めながら歩んだ。一日、一時間と時が経つに連れ、彼には小雪の性質が少しずつ分かり、そして彼は彼女の性格を幾らかずつでも理解しようと努めた。本来、彼にとって休息である時間を、このような行為──限られた時間を持つ、たった一人の為に使うという行為──孔明は、以前にはなかった自分の生活力の旺盛さに、殆ど気が付いていなかった。

「可愛らしい花が咲いていたものですから──これを」
小雪は、孔明にとって未だほんの取り留めのない現象──彼の意識の中でやっと永続性を持ち掛けたばかりの、自然色の心暖まる幻影──に過ぎなかった。その為に、彼は心行くまで彼女の事を思い耽った。このように彼女に心を奪われる事は、非常に珍しい、新鮮な、興味深い女性に対する哲学者の関心に他ならないと考えたからである。昼、米神に汗を滲ませながら集めた薬草と共に、ある意味では何の役にも立たない花を彼は幾つか手に収めていた。ただ薬草を機械的に籠へと入れる作業では、到底得る事はなかった精神面での清々しさを、その花々は彼の胸に容易に齎した。それのみならず、彼の胸や脚を軽快とさせ、また彼の固い自尊心をも緩やかにさせた。小雪に渡す渡さないはまた後で考えれば良かろう。今はただ彼女の為に、彼女を想って摘んだら良いのだ、ただそれだけで良いのだ。しかしいざ彼女を目の当たりにすると、早速孔明は花を摘んだ事を後悔し始めた。美しい、気位の高い、高圧的な娘が、喜ぶ顔を他人に、しかも簡単に見せるであろうか?摘んだ花を身体で隠すように持つと、緩やかになっていた自尊心が固まり始め、誰の目にも触れない内にそれを窓の外へと放り投げようかと思った。しかし孔明は廊下をゆったりと歩く、小さな小雪を一瞥すると、その花束を堂々と胸の前で持った。
「これは何という花なのですか?」
孔明には何か、凡人には予測出来ないものを持っているように小雪には思われた。それが劉備の下でのみ発揮される事を彼女は数学のように明晰に意識し、孔明もまたそれを感じた為に劉備に仕えた。他の人間に自身の思考や信念を読み取る事をさせない性格と、若さも相俟って、彼が主君を裏切るのも時間の問題ではないかと言われていた。しかし彼女は彼が野心家でない事を知っていた。彼が過去に見ていたもの、それは今も変わらずに見ているものであり、空を仰ぎ海を見渡し、平安を求め、主君を思う善良なる精神。それが彼にはある。揺るがぬそれらは強靭な余り、氷の刃宛らの眼差しとなってこのように現れる……小雪は小さな花束を胸に抱え、相変わらず人間の心の底まで見透かすような孔明の双眸にすうっと微笑み掛けた。この方に、私の何が分かるであろう。もし分かるのであれば、その全てを私に話して頂きたい。今まで私は自分という人間を理解した事がない。孔明は小雪の優しくも阻喪に満ちた眼差しを捉えた。微笑みで宇宙を燃え立たせるあの光、凡ゆるものが内に働き動いているあの美、時に明るく時に仄かに燃える、生誕の翳る呪いも消す事の出来ぬあの祝福。そして凡ゆるものを支える愛は、冷たいこの世の最後の空を焼き尽くし、今私の前に輝く。
「それは……菖蒲です」
今、私の眼前に輝く。劉備が孔明の元を訪れるまでは、無限の空を仰ぎ、無量の海を見渡しては空想に浸るという事に生きていた。もしあの時に申し出を断っていたら、この彼女を知らぬまま、自然の中に彼女の姿を投影する事のないまま、私は自分の頭の中で生きるという事に徹していただろう──そもそも此処にある全てのものは、いや、世界中何処にあるものでも、全て小雪の為に存在しているのだ。例え世界中の凡ゆるものを無視し得たとしても、一人彼女だけは出来ぬ筈だ。何しろ彼女は全てのものの中心なのだから。壁の装飾の金が輝いているのも、大燭台の蝋燭が赫赫と燃えているのも彼女の為であるし、馥郁たる花の香りや素晴らしい琴の旋律も、彼女の為にあるのだ。いや、この世にある限りの全ての善きものは、みな彼女の為にあるのだ。当の小雪も、それら全てのものが自分の為だけに存在する事を悟っているように孔明には思われた。腰の所に細かい襞の入った白い服を着た彼女の美しい姿と、一心に喜びに浸っているようなその顔を眺めた時、彼にはそんな気がした。彼はその表情から、自分の心の中で歌われているものと同じ旋律が、彼女の心の中でも歌われるように、もしそうなれば望外の喜びであると、彼女を前にして思ったのであった。