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The mental traveller



陽は麗かに空は澄み、波はきらきらと踊っている。青い山並みが、真昼の透明な力を帯び、未だ開かぬ蕾の周りを湿った大地の伊吹が軽く漂い、一つの喜びから発する多くの声のように、風も小鳥も大洋の汐も、この街の声さえ孤独の声のように優しい──孤独とは良いものだ。都会の中でポツンと一人、誰の記憶にも残らずに、ただ自分を囲む情景にのみ心を震わせながら生きて行きたいものだ……。この日最後である休み時間へ突入した事を告げる鐘の音が響き渡ると、小雪は机の上に広げてあった教科書をさっさと鞄の中へ入れた。唐突に騒がしくなった教室を、もうすっかり癖になってしまった虚ろな眼で一瞥した。あと数年、あと数年で一人切りになる事が出来るのだ。雑音や人混みから完全に逃れる事は出来ないかも知れないが、此処に比べれば何処だってマシであるに違いない──すると、隣の席の主人であるアンドロイドが、露になっているその片目でじっと小雪を見詰めていた。
「……どうしたの」
「今朝、廊下で何をしていたんです?」
背筋の通った正しい姿勢、揃えられた膝、此方をちゃんと向き、下駄を履いている足。一見何も知らない子供のようだが、此方の思考を全て読み取っているような大きな目。それは単なる錯覚なのであろうが、未知なるアンドロイドの不自然な所作には無垢さと毅然さを感じざるを得ない。窓から入った温かな微風が、Rの垂れた長い前髪を揺らした。何でも彼は世界征服の為にこの世に生まれたらしいのだが、そうやって静かに物憂げな顔をしていると一端の男子高校生である。人間の手によって作られたのだから当然の事ではあるが、設計図みたく整った姿形が周囲の好奇心を掻き集めるのは必定である。だが本人は野望も欲望もないらしい。小雪は彼に心というものがあるのだろうかとふと思った。まあ、人間が言う心とは異なるものが彼の中にあるから、複雑さが現れ、いつまで経っても良い点数を取れないのだろう。自我があるからそうやって椅子に座っているし、こうやって自分に話し掛けている。え、今朝?今朝は……ああ、呼び出しね。
「『告白』って分かる?」
「コクハク……罪の告白?」
「違うわ!愛よ、愛!」
「ああ!」
手と手をポンと合わせ、納得したと言わんばかりの顔したRは、再び今朝に見た光景を想起した。時刻が早かった為、登校している生徒は殆どいなかった。Rは光画部の部室に寝泊まりしている為、校舎は彼の庭のようなものであり、当てもなく徘徊していたのだ。いつも朝礼五分前に姿を現す小雪が何故か廊下におり、その傍には一人の男子生徒がいた。何故こんな早くに学校へ来たのだろう。そしてあの男子生徒の顔は今まで一度も見た事がない。小雪が友達といる時に浮かべる、楽しそうな、白い歯を見せて笑う表情をしていない事にもRは疑問に思った。廊下の壁から少しだけ顔を出し、じっと二人を見詰めていたRであったが、分かる事は何一つなかった。
「それと、手紙の返事が来ないという苦情も言われたの」
「手紙、ですか」
「私の靴箱に入れたって言われたんだけど、サッパリ記憶にないの」
愛の告白をされたと言った小雪に、Rは首を傾げて見せた。此処ではそういった習わしがあるようで、Rもその光景を見た事が何度かあったが、その習わしと愛とを結び付ける事が出来なかった。筆記試験のようなものであろうか。Rはふと思った。しかしそのような授業はなかったし、教科書にも記されていなかった。では一体何の為に?引っ掛かっているRを一人置いて、小雪は何食わぬ顔で話を進めており、「そんなもの、あったっけ」と虚空を見詰めている。手紙。Rは再びポンと手と手を合わせた。
「真逆、あなたが、」
「その通り!」
「『その通り』って……」
「靴を盗む泥棒かと思い、監視していました」
「監視だけにして手紙は取らないでよ」
周りに人がいないかを気にする怪しい素振りをしている男子生徒が、小雪の靴箱へ何かを入れるのを見た為である。それからというもの、それが一体何なのか興味をそそられたRは、男子生徒が置いて行ったものをこっそりと抜き取るという行為を繰り返していた。しかしそれが何であるのか一向に分からなかった為、封を開け、中身を見るという事まではしていない。怪しい素振りをしていたのだ、それが小雪にとって悪いものであるとRはすっかり思い込んでおり、一々回収していたという訳である。
「その手紙、未だ持ってる?」
「勿論、此処に」
Rは自身の机の中に手を突っ込んだ。其処から出て来たのは数通の手紙であり、その一種の恐ろしい光景に小雪は勢い良く席を立った。そしてそれらをRの手から奪い取ると、誰々から来たという事よりも封が開いていない事を確認した。自分宛のラブレターを他人に読まれる事ほど恥ずかしいものはない。しかし眼前の末恐ろしいアンドロイド、Rは自分が何故そんなに焦っているのか分かっていないようであった。このアンドロイド、知識がない為にどんな事を仕出かすか分かったものではない。
「ずっとそんな所に……でも今更ね、捨てるわ」
「ええ!勿体ない勿体ない」
小雪は手紙に記された名にざっと目を通したが、失礼な事にピンと来る男子生徒はいなかった。何せ生徒の人数が多いのだ、珍しい名字や成績や容姿やら何かしらの特徴がなければ記憶に残る事は殆どない。どんどん手紙を捲っていく小雪を見てRは不思議に思った。何を苛立っているのだろう。やはり、これらは小雪にとって悪いものであったのだ──そう言って鞄の中へそれらを乱雑に入れようとした小雪をRは止めた。手紙にはもう既に幾つもの皺が出来てしまっていた。
「物資欠乏の折、こんな事をしていたのでは帝国の勝利はありませんぞ」
「出たその常套句」
自分の手に戻った手紙を、Rは大切にきちんと角を揃えた。ものを捨てる事を極端に避けるRは様々なものを部室に置いていた。それらの多くはゴミ同然のものである為、年末に部員に勝手に捨てられる。だがこれらだけは捨てないようにと言っておかなければならない。Rにとってそれらは未知なるもの、小雪の手に渡る筈でものであったのだが、彼女がぞんざいに扱った唯一の悪のもの。Rはそれらを頭上に掲げると、宛名を見ては満足気にヘラッと笑った。鳴神さんへ、小雪ちゃんへ。
「間違っても他人の手に渡るような真似はしないでね」
「あい!約束です!」

陽が斜め上から照り付ける時、この校庭で生きとし生けるものの夢想を守るものは、見事に成長したプラタナスの樹ばかりである──鳴神さんへ、小雪ちゃんへ──それらの言葉は繰り返しRの思考を奪った。名というものは特別なものであるというもの認識はあったが、持つ名は一つでも、鳴る響きは一つではない。小雪が自身の名を言った時のもの、他の誰かが言った時のもの、そして自分が口に出したり、胸の内で言った時のもの。それぞれに響きがあり、どの調子もRの中で唸りを立てた。Rが嬉々として、手紙を入れた鞄を抱えて部室へとトボトボ歩いていたところ、下校する一組の男女が目に留まった。二人は手を繋いでおり、時々互いに視線を合わせながら話をしていた。彼等のその善良そうな慎ましい眼差しは、日没の明かりの中でひっそりと、だが燦然と輝いており、Rの無機質な二つの目の中にきらりと光を走らせた。鳴神小雪。彼等の後ろ姿を、Rは自分と小雪のものと重ね合わせた。鳴神小雪。すると、恋を除いて他のもの一切、彼の心から消え去ってしまった。