×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

If we live forever, let us live forever tonight



レコードから遂に音が流れて来なくなった。虚空を緩やかに振動させる雑音を耳にした途端、再びあの男が姿を現した。サラは何度も瞬きをしたが、彼は視界の端に立っており、壁に上半身を預け恐らく此方をじっと見ていた……。パチパチと鳴る火と木、自身を押し潰す、すっかり濃くなった重苦しい空気、そして友人に触れている手に滲んだ汗。彼女の心臓が凍った血を全身へと押し出した。先程まで友人の漆黒の双眸を見詰めていたが、今は灰色の瞳は足元へと伏せられており、友人の表情を改めて見る事が恐ろしく思えた。人生に於いて人間は、心を失い、正気を失い、代わりに狂気を住まわせる事が何度かあるものである。サラはそのような人間を沢山見て来たし、この友人もまたそのような過去を持っている。しかしその狂気を垣間見る度に彼女は、自分とは無縁のものであると思って生きて来た。狂気などというものは自分だけには降り掛かるものではないし、例え心の内に住まわせる事があったとしても、直ぐにそれを追い払う事が出来ると信じて止まなかった。だが狂気は、いつの間にか其処にある。切っ掛けがある時もあれば、何の切っ掛けもなくすっと内に入り込む時もある。そして自分の持つ狂気を自覚しても、中々それを殺す事は出来ない。手の施しようのない大きなものになるまで育て、外へ出るのを待つか、それとも自らが狂う代わりに外へ出ないように飼い慣らすか──サラの熱に冒された頭では、自身の持つ狂気を再び自覚する事しか出来なかった。彼女は友人の手の中から抜け出し、レコードへと意識を向け、音楽を途切れさせまいとした。だが叶わなかった。スネイプが自身から離れていった腕を捕らえたのである。
「何が見えている」
サラは別の人間の事を考え、その姿を見ていた。それはスネイプの目には明らかであった。音楽が止み、ある姿をその眼で捉え、狂気を自覚し、そしてその狂気をひた隠しにしようとした一連の情動を看取する事は、彼には容易であった。彼女の心の中には未だあの男がいる。彼女の崇高な世界にはあの男がいる。哀れで、卑劣な男が──彼女は私にそれを告白している。私はそれをごく些細な事柄まで詳しく聞いているようなものだ。私の目をじっと見詰める彼女の美しい眼には、他所の男に対する彼女の愛がありありと輝いている──スネイプはその細い腕から手を離した。彼の短な問いに、大して表情を変えずにいたサラであったが、解放された腕をちらっと見るや、押さえ付けたような、毒のある、嘲るような薄笑いを浮かべた……。貴様の死によって彼女が苦しむのは必定であり、彼女はなお死を渇望するだろう。貴様はその姿を見ない。彼女のそんな姿を見る事なしに死んだのだ。彼女のこのような姿を見る事なしに。サラ、君の胸が痛むのを、私は好まない。スネイプは様々な事を考えていたが、何一つじっくり考える事は出来なかった。蝋燭の芯が黒く燃え残り、暖炉を焚き過ぎた部屋の中は堪えられぬ程に息苦しくなって来た。
「何も」
≪お前は嘘が下手だ≫
クラウチが答えた。その声はサラを非難するようなものでも、揶揄うようなものでもなかった。それは決まって彼が彼女の名を呼ぶ時に付随する音色、憐憫さを含んだものであった──未だ私はあの声を覚えている。未だ私の中に存在し、それは一種の神聖な響きを持ち、私の中で何かを振動させているのだ。サラは前々からスネイプとの対面の心構えをし、話す事なども考えていたのだが、何一つそれを口に出す事が出来なかった。虚しい情熱がすっかり彼女を虜にしてしまったからである。彼女は自分の気持ちを更に押し鎮めようとした。しかしそれはもう手遅れであり、彼女は暫く何一つものを言う事が出来なかった。
「これを」
スネイプは決してするまいと心に誓っていた事を、今正に実行した。あの男が懐に隠し持っていた杖を本来の持ち主であるサラに渡したのである。その事により彼女の心理がどう働くかなど、何通りも頭に思い浮かべる事が出来た。決して良い方には向かない事、そしてその脆い心をすっかり破壊してしまうという事を彼は予知していた。それにも関わらず、彼は震える手で杖を差し出したのだ。彼は何故己がそのような非情な行動に出たのか皆目分からなかった。ただスネイプの脳裏には終始あの男の残像が存在した。汗の滲んだ前髪の影から己を凝視していた男。ただの飾りではなく何かを含んでいるように思われた、鋭いあの狂人の目。灰色の杖を見た時、サラの顔がぴくっと震えた。彼女は佇立したまま、何か捉えどころのない眼で彼を見たが、またその眼を急いで逸らし、再びそれに視線を落とした。彼は彼女を注意深く観察した。
「……何処で?」
「クラウチ・ジュニアが持っていた」
スネイプが男の名を口にするや、サラの顔付きは全く一変してしまった。つい先程までの表情の代わりに、疲労と死んだような表情がその顔に浮かんだ。彼がこれ程まで後悔した事は恐らくなかったであろう。殆ど重りのないたった一本の枝が、指と指の隙間から地面へと落ちそうになるのを感じた。それと同時に、眼前にいる彼女の理性が打ち拉がれ、凡ゆるものが彼女の周りから姿を消して行ったのも見て取った。
『何処へ逃げるって言うんだ』
泉は川と交じり、川は海と交じる。空吹く風はいつも優しい思いと交じる。世に一人のものはない。凡ゆるものが聖なる掟により一つの心に寄り合っている。だが私があなたに寄り合えないのは何故?山は天に口付けをし、波は互いに抱き合う。陽光は大地を掻き抱き、月の光は海に口付けをする。あなたが私に口付けしないなら、あなたが私に寄り合えないなら、こうした生に何の価値があろうか?
『優秀な闇祓いが皆殺しにされては、次世代に示しがつかん』
私達は──似てはいないが音符のように互いの為に作られたようなものではなかっただろうか?絶え間なく吹く微風に戦ぐ木の葉のように、凡ゆる魂が震える、この上なく甘美な音を発する、不協和音のない変奏のようなものではなかっただろうか?何故私達は幸福になれなかったのか?何故私達は一緒になれなかったのか?サラはわっとばかりに泣き崩れた。彼女の心は思い出に触れる事によって張り裂けてしまっていたのだった。
「あの人は、碌に薬も作れなかった」
クラウチは苦しみに身をもがき、それを訴えながらもその苦しみに凱歌を上げ、それを喜びそれを愛しているようであった。彼の魂の中で何か美しいものが成就されつつあるのはサラも見て取っていたが、それが何であるかは彼女にも理解出来なかった。それは彼女の理解力を越えたものであったのだ──それは他でもない、この私自身であったという訳である。私は見て見ぬ振りをしていたのではないか。彼が私を愛しているその一切を、私は知っていたのだ。だのに何故、私は彼と逃げる事をしなかったのか。何故私は彼と生きる事をしなかったのか。サラの涙の一滴が、スネイプの手の上に落ちて来た。
「何故……私は未だこうやって生きているの」
「そんな話はするな、いや、そんな事は考えるものではない」
全てに絶望した時から今まで、私は一人切りではなかった。善なる君と再会し、君という人間を愛し、私は死ぬまで孤独というものを知らずに生きるであろうと思っていた。スネイプは己の手の中にあるサラの手を、彼女の注意を己の方へ引き付けながら言った。しかし彼女は尚も彼の方を見なかった。「ああ、何だって私は死ななかったのか。その方が良かったのに」と彼女は言った。泣き声のない涙がその両の頬を伝って流れたが、彼女は彼を失望させまいとして無理に笑おうと努めた。
「サラ、あの男は罪を犯した。しかし君には、償わなければならない罪など何一つないのだ」
あの男は、正に一つの生命を生き、それを終えて死んだに過ぎない。他の人間もまた同じ事である。彼等が善人だったか悪人だったかは知る由もない。しかしそれは何方にせよ大した問題ではない。彼等は生きていた、その事が大事な事なのだ。今彼等は死んでいる。しかしそれは大した問題ではない。人間は死んだ者の為に祈るべきではない。死んだ者はそれでいいのだ。彼等はなすべき事を持っている。しかもそれは彼等の前にしっかりと置かれてあるのだ。従って彼等は、それをするのに迷う事がない。しかし我々には、生きている我々には、なすべき事があるのだ。そしてそれをするには幾多もの道があり、我々はどの道を選べば良いのか分からないでいる。もし我々が祈るとするならば、それはどの道を進めば良いのか分からないでいる人々の為に祈るのだ。我々は、そうでなければならないのだ。
「開戦は目前だ。君は遠くへ逃げろ」
『バラデュール、ポリジュース薬だ』
『負け戦はするものではない』
償わなければならない罪など何一つない。果たしてそうだろうか?サラは、人間は誰の審判者にもなり得ぬ事を心に留めている人間であった。何故なら当の審判者自身が、眼前に立っている者と同じく罪人であり、眼前に立っている者の罪に対して誰よりも責任があるという事を自覚せぬ限り、この地上には罪人を裁く者は有り得ないからである。またもし自分が正しかったのであれば、眼前に立っている罪人も存在せずに済んだかも知れないからである。サラはこうも考えていた。もし他人の悪行がもはや制し切れぬ程の悲しみと憤りとで自分の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うに至ったなら、何よりもその感情を恐れるべきであると。その時は他人のその悪行を自らの罪であるとして、直ちにおもむき、我が身に苦悩を求める事だ。苦悩を背負い、それに堪え抜けば、心は鎮まり、自分にも罪のある事が分かるだろう。何故なら、自分はただ一人の罪なき人間として悪人達に光を与える事も出来た筈なのに、それをしなかったからなのだ──私は彼に光を与える事をしなかった。出来た筈であるのに、それをしなかったのだ。
「逃げろ?何処へ逃げろって言うの?」
「何処でも良い。私は、私は君の為ならば──」
スネイプは、戦闘を前にした者が体験するような感情を味わった。心臓は激しく高鳴り、ある一つ考えしか集中させる事が出来なかった。これが最後となろう。この夜が。我々二人で行ってしまおう、ずっと遠い遥かな果てへ。此処から何百、何千マイルも離れた、そして、このような事の二度と起こらない、過去の亡霊が決して届く事のない所へ。生きているこの手は、今は温かく確と物を掴み取る事が出来るが、もしも冷たくなり、氷の閉ざす静寂に入れば、君の日々に顕ち現れ、君の血脈に赤き生が流れるよう、そして君の心が鎮められ安らぐよう──スネイプは身を屈めた──私はその手を差し伸べているのだ。
「愛していると、言ってくれ……」
しかしサラはスネイプの手に触れる事をしなかった。彼女の手には灰色の杖、そして彼女の心はあの男が残した面影と共にあった。ああ、やはり、己の使命は此処に長くは止めてはくれない、彼女の傍に長くいさせてはくれないのだ。彼は全身を揺すぶられたような気がした。心の中を何か鋭いものが通り過ぎたようで、彼にはその気配さえ聞こえた。サラの身に投げ掛けられた一つの言葉は、僅かな快感と大いなる苦痛を伴いながら、またもや彼女を病的な感覚へと導き入れた。スネイプは不意に身を翻すと、振り返りもせずに歩み去って行った。今までとは丸切り異なる性質のものとはいえ、それはクラウチが彼女の傍から去って行った様子と似ていた。この奇妙な発見が、この瞬間、熱と悲しみに閉ざされた彼女の頭の中を矢のように閃き過ぎた。彼女は彼の後ろ姿を見詰めたまま、暫くその場に立っていた。屋敷を辞したスネイプは身体が冷たくなって心臓が止まりそうなのを感じながら、この生きた屍の生気の通っていない夜風を頬に受け、言いようない気持ちに打たれてしまった。坂を下る間、他の事を考える事が出来なかった。彼の心は悲しかった。大通りへ出てしまうまで、あの古い屋敷が見える限りは、幾度も後を振り返って見た。

Sarah Mclachlan - Angel