×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Lift your tender eyelids, and brood on hopes and fear no more



馥郁たる蜜柑の香り。その灰色の幹の下で疲れ果てた右脚を伸ばした。私の前を夜が逃げ去り、背後には陽が昇り、海は足下に、大空は遥か頭上にあった。目蓋をうっすらと開けたサラの眼にぼんやりと映った仲間。彼等は遠くの方で水遊びをしていた。その砂浜は浅く、溺れるには難しい場所ではあったが、海を天敵とする数人は腰に浮き輪を装備していた。前髪が微風に揺れ、頬をそっと撫でた時、幾多もの蜜柑の下にいるのは自分だけではない事が分かった──その時、不思議な恍惚が私の空想にゆっくりと広がって来た。それは微睡みではなかった。彼、錦えもんは少し離れた所にいた。椅子に腰掛け、広げた新聞の文字を目で追っている。眉間に深く皺を寄せている為、内容の理解に苦戦している様子であった。ああ、恐らく母語ではないのだ。だが勤勉な事だ、他の皆はのんびり過ごしているというのに……。サラはふと思った。この男は何か予測出来ないものを持っている。出会って日が浅い為に、この男を知らないという事もあるのだろうが、自分の未来に何かしらの関わりがあろう事を感じざるを得ない。仲間以外の人間には、そんなものを少しも見掛けた事はなかったのだが。たった数秒の間に彼女が見た錦えもんの黒い目。それは険しい炎に輝いていた。それは何も今この時に顕になったのではなく、彼が持つ永遠の魅力であった。サラはこの瞬間の彼が極めて美しく見えたのを、後々まで覚えていた。薄い紙を捲り、米神を掻いた右手。じっと新聞を持ちながらも、その直ぐ下に置いてある刀二本を意識している左手。彼女は錦えもんの和服の袖より覗いている腕に瞳を転じた──私、あなたのその腕の中で死にたい。死んだって、その方が生きていた間よりずっと幸福だろうから──ああ、如何に恋愛の春の四月の日の定かならぬ輝きに似たる事よ、今陽の輝きに溢ると見れば、軈て次第に雲は全てを奪い去る。軈ては全てを奪い去る……。サラは再び目蓋を閉じた。

この娘のような女子は一人もいない、一人として。己の血潮がこれ程にも暖かく、そして甘美に流れた事はない。それは流れ、流れて、堤一杯に溢れ、軈て宿望の目的に達し、約束された幸せに迫ると静まるであろう。錦えもんは陽の照り付ける暑さに心地良ささえ感じた。着物と素肌の隙間にはしっとりとした汗が浮き、外国語が隙間なく記された新聞には指からの熱が伝わる。そして、彼の魂を捕らえて離さない存在。それは太陽でも、蜜柑の香りでも、海賊と共に戯れている小さな希望でもなかった。泉は川と交じり、川は海と交じる。空に吹く風は常に優しい思いと交じる。世に一人のものはない。凡ゆるものが聖なる掟により、一つの所に寄り合っている。だが己がそなたに寄り合えないのは何故か。山は天に口付けをし、波は互いに抱き合う。陽光は大地を掻き抱き、月の光は海に口付けをする。そなたが己に口付けをしないのであれば、こうした楽しい営みに何の価値があろうか。古傷の痛みに立ち上がる事すら出来なかった彼女。己が彼女の方へ身を寄せると、彼女も己の胸へと身を委ねたあの夜。己は彼女の背中に回していた両手に力を込め、身体を密着させた。己がそっと顔を伺えば、彼女は眼を瞑って微笑んでいるように見えた。恋人宛らの行為。幸福であった。幸福であったのだ。その幸福から離れたくない。いつまでも、この先もずっと、この手に彼女の手を離す事なく──錦えもんは右手で目元を覆った。己が、僅かな幸福さえも知らぬ人間に思えた。何と甘美な事か、流れ落ちる渓流の音を聞きながら、半ば目を閉じ、半ば夢心地のまま眠りの世界に入って行けるなど。まるで彼方の琥珀に輝く光のように夢を見続けるなど。そしてその光こそ山の高みの没薬の林に揺蕩い、消えようとはしないのだ。来る日も、来る日も、渚に打ち寄せる爽やかな音の小波や、淡い色の飛沫立つ優しく曲がる海岸線を眺めたり、我等の心や魂をすっかり静謐の沈思のなすがままに委ねたりするなど!更にまた、我等が幼少期のあの懐かしい面々と共に瞑想し、熟考し、そして追憶の中に再び生きるなど。彼等は今や草生茂る地に眠り、二握りの白い灰となって、真鍮の小壺に入っているというのに!目尻に浮かんだ微かな涙を、再び奥底へと押し戻すように錦えもんは指に力を込めた。優しい目蓋を上げ、希望を抱き、もはや恐れるな。もはや、恐れるな……。