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Iridescent



サラの右脚に二つ存在する、銃弾が貫通した跡。そして己を安堵させるように浮かべた、あの苦衷の表情。彼女の二つの眼から大粒の涙が滴り落ちると、水晶のように澄んだ眼にはまた新たな露の玉がきらりと光った──今不意に、一切の覆いが取り除かれ、彼女の魂の核心そのものが、脳裏に浮かべたあの深緑色の眼の中に輝いた。その時、錦えもんは己の目の前に顕にされたものに思わず心を打たれずにはいられなかった。そしてこの単純な赤裸の姿の中に、己の愛して止まぬ姿が一層はっきりと見える思いであった。錦えもんの中に存在するサラは大抵は微笑みながら彼を見詰めている。しかし不意に、その眉をぴくっと震わせ、彼女は苦しみに身を藻掻き、その苦しみを彼に訴えるような表情を浮かべる時があった。彼の黒い目から視線をさっと逸らし、向けられている彼の視線にいつまでも気付かない振りをする……それは実際に彼女が見せる仕草の一つであった。その彼女の眼差しの中には、私はこの苦痛の為にあなたを責めているどころか、却ってあなたを愛しているのです、と語る優しい表情が込められていた。だがサラの気紛れとも取れる態度にすっかり心を惑わされている錦えもんがそれに気付く事はない。彼は彼女の身に何が起こっているのか、その苦痛の責任者を探しその罪人を罰しようと思ったが、そんな罪人は何処にもいなかった。サラは苦しみに身を藻掻きそれを訴えながら、この苦しみに凱歌をあげ、それを喜びそれを愛しているのであった。彼女の魂の中で何か美しいものが成就されつつあるのは、錦えもんも見て取っていたが、それが何であるかは彼にも理解出来なかった。それは彼の理解力を越えたものであった──錦えもんの目蓋の裏にはあの深緑色の虹彩、光の加減で色彩が様々に変化するあの双眸がある。サラ、サラ・バラデュール。異国生まれの名の音は秀麗で情趣がある。正にそなたの名だ。そなたという人間が持つ響きそのものだ──錦えもんの想いは一人浮かんでは消えた。想いを秘めた言葉は夜明けの空の月影のように消え、だが想いは美しく変わらずにあった。星空を真珠のように織りなして。

「下がっておれ」
低い、サラの心臓を震わせる唯一の声が彼女の前に立ちはだかった。全世界から追われる身となった彼女は自身に向けられる剣や銃には応える。彼女は自ら戦闘を仕掛ける質ではないが、売られた喧嘩は例えそれがどんなものであっても買う質の持ち主であった。敵は片手で数える事の出来る人数であり、例え敵の技倆が自分より上手であっても、途中で逃げたりする事はしないとサラは決めていた。生きるか死ぬかの二択であるという極端な考えに縛られている為、彼女は自分でも、いつかきっとこの考えにより身を滅ぼすであろうと懸念していた。だがそれを一向に改める事をせず、今回も向けられた敵意に律儀に応え、腰に差している拳銃へ手を添えた。しかし、そこで聞こえた下駄の音。それらは彼女の背後から歩み寄ったと思えば、彼女を追い越し、彼女の前に立った。サラの視界の殆どを覆う大きな身体。派手な着物に施された色は彼そのもの、彼の刀に宿る生命の色であった。
「この人数、お主の脚では無理があろう──拙者が方を付けて、」
また錦えもんに後を尾けられていたという訳である。姿こそ現す事をしないが、確かに自分の後を追う気配にサラは気付いており、その気配が彼のものであるという確信をしてはいた。だが何故そんな事をするのか。それは彼が自分の隣に並ぶ事を恐れている為であると彼女には思われた。その為に、毎回気付かれないように配慮をする侍……そして、こうした不意打ちに遭遇すると、颯爽と、偶々居合わせただけでござると言わんばかりの風貌でその姿を現す侍。彼女は自分に背を向けている彼に向かって表情を存分に綻ばせた後、全くの異質の容貌を持つ彼に呆気に取られている敵の頭に、サラは銃弾を一発ずつ揮った。
「あなたの国の女子は弱者かも知れませんが、私は違いますよ」
刀に手を添えたままの錦えもんに、サラの厳かな声が迫った。音もなく静謐の中で地面に転がった輩共は死体となっており、虚しく天を仰いでいた。何の迷いもなく背後から攻撃を仕掛けた娘を、彼は振り返ってその黒い目で捉えた。彼は十分に承知していた筈であった。彼女は守り人が必要な弱き者ではなく、恐れを知らぬ海賊であるという事を。だが何故に彼は彼女を守ろうとするのか──錦えもんの心にはある感情が育ち、もっぱらそれは大きく、そして手の施しようのないものとなっていた。
「お主は……お主だけは他の者とは異なる」
「え?」
「船には他に女子が二人いる。だがそなただけだ、拙者が気に掛けるのは」
サラの美しい顔立ち。浮かべる一つ一つの表情が彫刻宛らのものであり、錦えもんの心を強く揺さ振る。そしてその深緑の虹彩。巨大な波により船から海へと放り出された時に捉えた、此方に助けを求める大きく見開かれた双眸。己はこの手に取る事が出来なかった彼女の手を、未だ間に合うと掴むつもりで手を差し伸ばしたのだ。だが我々の手は触れる事はなく、重力に従って海へと落ちた。日が差した明るい水中から彼女を探すと、彼女は己の直ぐ下におり、口からは空気が止めどなく漏れ、四肢も動いてはいなかった。固く閉じられた瞳。あれ程、己が恐れているものはないのだ。あれ程に──錦えもんの思考が僅かに漏れ、見聞色によりサラが無意識の内にそれらを汲み取った。大海、深緑色、一つの小さな生命、そして果てのない底、死。
「それは、脚の傷を見たからでは」
「いや、その前からでござる。初めてそなたの顔を見た時から」
彼は私の顔を見るなり咄嗟に駆け出した。彼は私に駆け寄ると、勢い良く芝生に膝を突き、彼の肩にあった分厚いタオルを私の肩へと掛けてくれた。そして、何を思ったのか私の顎を掴み、顔を上下左右に動かしたのだ。彼は必死に覗き込んでいた、私の瞳か、私の瞳の中にある何かを。あの時は未だ、彼という人間を知らない筈であった。幼い息子を連れた侍であるという事以外、何も知らない筈であった。だが非常に可笑しかった。何をするにしても真剣そのもので、自分のやっている事に少しも疑問を感じない真っ直ぐな性格。変な人だ、この人は──たんこぶを二つも作って呑気に笑っている人。その漆黒の瞳を存分に開き、落ちて行く私を映した人。口を大きく開き、私の名を呼んだ人。咄嗟に私の手を掴もうとした人。そして海の中まで助けに来てくれた人。そしてそれで死に掛けた人──変わった人だ。サラは再び心の内で呟いた。
「……一緒に、海に沈みましたね」
錦えもんはワノ国を生まれて初めて出た訳であったが、外国には当然若い娘が五万といた。ワノ国では見る事のない、己とは異なる血が流れている女子。娘達の豊かな頭髪は陽を浴び、金色、黒色、鳶色と、凡ゆる色合いに照り映えていた。眼の美しい者、鼻の美しい者、口元や姿の美しい者がいた。そしてそれぞれみな外は太陽で暖められていたが、それと同様に銘銘内には秘められた小さな太陽を持っており、魂を暖めているように錦えもんには思われた。夢か、愛情か、趣味か、少なくとも何か遠い遥かな希望──希望というものの例に漏れず、それは兎角消えてなくなりそうになり掛けながらも、なお生命を保っていたが──を持っていた。こうして娘達はみな快活で、その多くは陽気であった。『サラー!』この呼び掛けに、海賊団の中の一人の若い娘が顔を振り向けた。嘸かし上品で端麗な顔立ちの娘であった──その感じ易い牡丹宛らの口と、あどけない大きな瞳は、その顔の色や形に表情の豊かさを添えていた。首と手の指に宝石を身に纏っていたが、この群の中でこのように目立った飾りを誇る事の出来る者は彼女だけであった。
「拙者、あの時程ゾッとした事はないでござる」
サラは素性の知れない侍二人を船に乗せる事に賛成はしていたものの、警戒心を顕にしていた。だがそれも時間が経つに連れ薄くなり、遂には錦えもんと視線を合わせて話すようになった。彼女の眼には侍というものが非常に稀有であったのだ。彼女は深緑色の双眸をすうっと細め、彼に歩み寄り言った。『とても美しい、刀の扱い方をなさりますね』臆病な美が彼にそう語り掛けた時、彼は思わず息を呑んだ。言葉の意味を即座に理解する事が出来ず、暫くしてその意味を汲み取る事が出来た程である。異国生まれの娘が己に対し敬意をその眼に宿していたのを錦えもんは看取し、湧き上がる羞恥から彼は沈黙したまま刀の鞘にそっと手を添えたのであった。そなたの爽やかな眼差しは己の胸に忍び入り、そなたの優しい言葉は己の胸に毒を掻き立てる。そなたは諦めの胸にあるただ一つの休息を見出した。世の厳しい掟に従い、定めない運命に己は耐える事が出来た。この破れた心を結ぶ鎖はその時朽ちていたが──心は砕けなかったのだ。
『誠に君を愛す』
一つ錦えもんを驚かせた事、というのは、今彼が過ごしている海賊船での日々がとても幸福な時間であるという事である。彼が不愉快な思いをしたり、嫌な事を考えたりしたのは、たった一人になった時だけであった。あの賑やかな船にいる時には少しの孤独や寂寥も感じる事なしに、読んだり書いたり、考えたりする事が出来た。ふと未来の夢想をしていても、周囲の人間の心の動きを観察しなければならないという警戒も彼等にはする必要などなく、それにまた今まで外国人にしていた仕草や言葉で彼等を騙す必要もない。幸福が、こんなにも己の間近にあるものだろうかと錦えもんは思った。幸福とは既に過ぎ去ったものであり、もう二度とこの身には訪れる事はないものと思っていたのである。
「海の中でそなたの傍にいながらも、この手に掴む事が出来なかったのだ──何と情けない事か」
瞬く間に全身の力は抜け、ただの水に対し何の抵抗もする事が出来ない。だが辛うじて視界だけは、不明瞭にだが開けた。刀の重りで沈むのが早く、彼女の傍まで来る事が出来た。だが助ける事は出来ない。指先に渾身の力を込めたが動かず、ただ共に沈む事しか出来ない。あの時に一瞬、己に助けを求めた小さい身体は大いなる海、死の腕に今にも抱かれそうになっていた。誠に君を愛す。しかし告げてはならぬ。己の胸の内を、何一つ告げてはならぬのだ……。一瞬、ほんの一瞬、未だ誰の関心も引いておらず、狭い道に佇んでいる二人、錦えもんがサラの方へ顔を寄せて、正に──だが、ならぬ。彼は思い直し、姿勢を正した。
「二度とそのような事にならぬよう尽力致す所存」
「一体どうやって?」
サラがクスクスと、その宝石宛らの瞳を日光に燦めかせながら子供みたく笑った。瞳と微笑に現れた抑え切れぬ震えるような輝きは、錦えもんの心を燃え立たせた──どうやって、だと?そんなもの決まっておろう。拙者がそなたの傍におると言っているのだ。大波により船の外へと投げ出される事もなければ、古傷に苦しむそなたを慰める事も出来る。そなたが、そなたがそれを許してくれさえすれば……。錦えもんは前々からサラとの対面の心構えをし、言うべき事などもしっかり考えていたのだが、何一つそれを口に出す事が出来なかった。ある一種の情熱がすっかり彼を虜にしてしまったからである。彼は気持ちを更に押し鎮めようとした。しかしそれはもう手遅れであった。その情熱はもう彼の魂までをも支配してしまったからである。燃え立った心は激しく震え、彼はもう長い間、何一つものを言う事が出来なかった。