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Stanzas for music



何という静けさか。静寂は鎖で固く繋がれており、忙しい啄木鳥の音さえも不壊の静けさを更に強めている。その平穏な大気を、周りに深まる静けさを乱す事なしに──これが最後となろう。この道、閑散とした住宅街を抜け、山に添うようにして建っている屋敷はこの道から眺める事が出来る。古い屋敷だが、周囲に主張するその荘厳さは近代の建物とはまるで異なり、幾多もの秘密を抱えた高貴な人間が住むのには適しているものであった。スネイプは今日初めて、坂の下方からバラデュール家を目で捉えた。これが最後となろう。あの屋敷に出入りするところを誰かに見られる心配が依然としてあったが、彼は敷地内に姿現しをする事なく、その道、マグルが住んでいる住宅街の中を徒歩で移動した。静けさは夜が齎したものであるが、日が昇る頃になれば此処は、太陽が木の葉越しに目も眩むばかりの輝きを放つ事であろう。その情景を一度でもこの目で見ておけば良かった。サラと共に、一つの太陽の下、その情景を見ておけば良かった。時間はあったにも関わらず──奇妙な事に、不意にスネイプは堪え難い憂鬱に襲われた。特に彼女の屋敷に近付くに連れて一足毎に、益々それが募るばかりであった。奇妙なのは憂鬱そのものではなく、憂鬱の原因が彼にはどうしても明確に出来ない事だった。これまでにも憂鬱な気持ちになる事はしばしばあった為、この瞬間にそれが訪れたからといって何ら不思議ではなかった。光の存在の滅亡、闇の帝王にとっての敵の消滅がいよいよ現実のものと成り果てる。世に闇がある限り、それを阻止しようと努める光がある。幾多もの魔法族が死んでいったが、闇は再びこの世を覆い始め、光の抵抗は虚しくも散ってしまっている。前回よりも早く、そして惨憺に。またスネイプも自身の任務を全うする為に大きく方向を転じ、全く勝手知らぬ新しい道に、それも以前のように全く一人切りで足を踏み入れていた。未知の新しい事に対する憂鬱が確かに心の中にありはしたものの、やはりこの瞬間彼を苦しめていたものは全くそれではなかった。死ではない。では何か。彼を苦しめ、恐れを抱かせていたもの、それは愛であった。友人であるサラ・バラデュールに対する愛であった。彼女を如何に愛しているかを示すのは極めて今更な事であるが、その憂鬱は彼女とのみ繋がっているものであった。スネイプが一応理解しているような執着、友情、愛情を彼女が何一つ持っていないと、以前彼は思っていた。彼女は人生が自分と巡り合わせたもの、事に人間──誰か特定の人間ではなく、自分の目の前にいる人間──を愛し生きていると。彼女は屋敷しもべ妖精を愛し、同僚、マグルを愛しているように彼には思われていた。しかし事実、サラはそれらを全て持ち合わせている人間であった。執着を持ち、友情を捧げ、愛情を知る人間であり、そして恐れを知る人間であった。恐れ、それは死以外のものである。彼女は死を恐れず、周りにいる彼等と、スネイプと別れる事を一瞬も悲しむ事をしない。彼が幾ら言葉を並べようとも彼女が首を縦に振らぬ事、死から遠ざけようとする言葉に耳を貸さぬ事、そして彼の愛に心を開く事をしない事。本人を前にするでもなく、それらの事が明瞭に彼の目に浮かんだ為に、彼自身に齎されるであろう死よりもそれらが尖鋭な憂鬱となり果て、彼に迫ったのである。サラが求めて止まないもの、それは愛ではなく死であり、彼女はただそれを素直に求めている。

夜の眠りをすっかり失っているサラの顔には、すっかり見覚えのあるもの──かなり美しいその顔には不幸、というよりも、殆ど狂気に近いもの──があった。顔面蒼白で、両眼の下にある薄い皮膚、それに映る血管は色を濃くしていた。そして灰色の虹彩の周りにある結膜は、少しの充血もしておらず不気味な程に真っ白であり、いつにも増して目付きが鋭い。冬でないのにも関わらず、火が点けられている暖炉についてスネイプは尋ねる事をしなかった。サラは彼の前では至って普通のように振る舞おうと努めたが、一体何が普通であるか遂に分からなかった。決戦を間近に如何にも深刻そうな表情をしようとしたが、彼女の関心はそれとはまた別にあった。
「初めてだね、こうして踊るの」
死ぬ前に彼女の姿を見よ、という魂や心臓の告げる事にスネイプは従った。辛うじて正気を保っているサラであったが、彼女は依然として美しく、泡のように瑞々しかった。その温かい額や胸元、深々とした髪、艶やかな喉や肩。薔薇色の細く温かな指は彼の手の中にあり、そして彼の肩に触れていた。だがその姿は彼の顔の中で何かを歪ませ、震えさせた。
「いや、一度踊った事がある」
「本当に?」
あのマルフォイとか、あのルーピンとか……いや、何も奴等ばかりではない。魔法の存在を知らぬマグルの連中でさえ、己とは異なった感じ方をしたり、異なった恋をしたり、異なった結婚をしたりしているのだろうか?スネイプの頭の中には、今まで殆ど考える事をしなかった連中──いつも至るところで、好奇心に駆られずにはいられないあの快活な、自分というものを疑う事を知らない連中の姿が無数に浮かんで来た。何故奴等は幸せになる事が出来たのだろう。更に不思議な事に、何故奴等はその幸せを捨てるような事をするのだろう。正にマルフォイがそうだ、愛を知る人間が何故戦い、遠くへ逃げる事をしないのだ。スネイプはこうした考えを頭から追い払い、己は束の間のこの世の為ではなく、永遠の世界の為に生きているのであり、己の魂の中には安らぎと愛とがあるのだと己に信じ込ませようと努めた。だが当然の如く、彼がこの束の間の世で犯した過ちがそれを劈き、信じ込ませようとしていた永遠の救いなどはまるでないと彼の心を悩ませた。
「学生の時、君に無理矢理」
最も、その思考は長くは続かなかった。間もなくスネイプの心にはいつもの落ち着きと気高さが蘇って来た。その為に、彼は忘れていたい己の宿命を頭から追い払う事が出来た。それは眼前にいる、サラの未だ生きている姿を見た事によるものであった。念入りに仕上げたあの幸福な情景を思い出せ。彼はふと思った。あの幸福な情景、彼女と共にある未来の事を思い出せ。しかしこの心を誰が知っている?サラ・バラデュールというたった一つの生命、それは凡ゆる言葉で表し得ないものを与えてくれた。人間の運命というものに深く思いを潜めていると、息吹が生命を持つもの全てに言い寄り、そして目覚めさせ、便りを齎す。あの冥々たる時に突然、彼女の影が己の上に落ちて来た。俯き、歩んで来た道ばかりを見ていた己は、その時に初めて顔を上げたのだ。思わず恍惚として、両手を握り締めたのだ。しかしこの心を誰が知っている?
「嫌がるあなたを?」
「そうだ」
「酷いね」
「全くだ」
サラはスネイプの痩せ細った白い手を取った──それは毎年開かれるダンスパーティーの予行演習であった。当時スリザリンの寮監であったスラグホーンが余り上手とは言えぬ踊りの指導をする中、貴族生まれの生徒は教授のその身のこなしを揶揄いながら、随分と余裕を持った態度で構えていた。だがその一方で、貴族生まれではない、ただ組分け帽子によってスリザリンに入れられた生徒は教授の説明に必死に耳を傾け、ぎこちなく身体を動かしていた。スネイプは後者であった。生まれながらにして社交界とは無縁であったし、そして何より、毎年開かれ参加しているのにも関わらず誰とも踊っていない為に一向に上達しないのである。彼が身に纏うドレスローブだけが立派で、顔付きやら仕草には異性が目を引くような魅力は一つもない。その為に誘いなどはなく、決まって大広間の隅にいるか、又は廊下を彷徨くという奇行を繰り返していた。その為に予行演習も地獄であった。完璧に動く事の出来る年下の新入生を見ては、スネイプの自信は益々萎縮し、女の子を極力避けるという新たな奇行に出る。だが『幾ら私が一人で説明したところで意味がない。さ、適当に男女一組になって』という恐ろしい一声が放たれるとその奇行ももはや出来なくなり、楽しげに笑い合う男女の中で残り物になる事はもう避け様がない。スネイプはすっかり俯いてしまい、黒髪で視界の殆どを覆われた地面を見ていた。すると彼の手、痩せ細った白い手を遠慮がちに掴んだ女の子がいた。それがサラであった。彼は驚きから顔を上げ、捉えたその彼女の顔には先程までの揶揄い、上手く踊れていない教授を馬鹿にした表情は微塵もなかった。スネイプは言葉が何も浮かばず、彼女は言葉が浮かんでいたが口には出さずで、二人共沈黙したまま、スラグホーンの手によって流された音楽に慌てて身体を触れ合わせた。サラは友人であったが、いつもスネイプの傍にはいなかった。彼女は貴族生まれの友人に囲まれ、彼等と行動を共にしていたからである。だが彼女は彼を気に掛けており、また彼もその静かな気配りを受容していた。今回もそれであった。柔らかな身体、女の子の身体に胸を高鳴らせながら、自分に対し優しい態度で接する彼女の事を考えた。恐らく彼女はこの事を一生覚えてはいないだろうと。躓かないように足元だけを見ていたスネイプに、彼女は『顔を上げて、相手を見ないと』と言った。だが彼には出来なかった。
「ルーピンとトンクスの婚約を聞いた」
「ええ、素晴らしい事よね」
君には現世を愛して欲しいのだ。現世を憎み、己を憎み、生まれた事を後悔していた他ならぬこの私が、現世を愛し始めた事は誰にも否定出来まい。左手で触れているサラの右手、右手で触れている彼女の腰、闇色で捉えている灰色。私にはたった一言、この眼を見ながら言いたい事があるのだ。
「君はどう思う」
「何を?」
私は君をこよなく愛し、誠を尽くすつもりである。それによって私の活力は君の血と混じり合い、宛ら神の脈動のように君の脈動の中で脈打ち、君を衝撃や危険から切り抜けさせ、君の人生を意義に満ちさせ前進させる。嘗て君が私にしたように。君の眼差しが私の胸に差し、君の言葉が私の胸の闇を払ったように。君がこの身にただ一つの休息を齎したように。
「未来の事だ──私との」
その為に、世の厳しい掟に従い、定めのない運命に私は耐える事が出来たのだ。この破れた心を結ぶ鎖はその時朽ちていたが、心は砕けなかったのだ。スネイプは右手でサラの頬を撫でた。君からの口付けを私は恐れるが、君には私からの口付けを恐れないで欲しいのだ。私の胸は重く塞がれているが、君を苦しめる事はしない。君の物腰、声と仕草を私は恐れるが、君には私のそれらを恐れないで欲しいのだ。砕けなかった心を差し出し、私は君にこの身を捧げる。私にはたった一言、この眼を見ながら言いたい事があるのだ。