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12 inches



起床時刻になると自然と眼が覚める。寝過ごす事があるとすればそれから再び眠る時だけであり、遅刻をした事はたった一度もない。先程まで見ていた夢の内容を気にしながら、就寝前から握ったままである杖を振るう。サラは寝台からさっと起き上がると身支度を整える。顔を洗い、服を着替え、口紅以外の化粧をする。毎日全く同じ動作の為にこれも夢ではないかと疑問に思いながら、鏡に映る死人のような顔と視線を合わせる。自分を死に至らせる呪文は一体いつ飛んで来る?いや、そんな馬鹿げた考えは捨てて早く外へと出よう、朝食を摂ったら直ぐに。此処よりも外の方が飛んで来る確率は高いのだ──気分はいつも通り抜け目なく沈淪していた。せめて外見だけはこざっぱりとしておかなければならない。それが一番大事なのだ──今日はどの指輪を嵌めようかと引き出しから吟味しているサラであったが、不意に自分の背後に気配がある事を感じ取った。夢の続きを唐突に思い出したのである。
≪全く、部屋が有り過ぎるとは思わないか?≫
≪俺達貴族は無駄な事しかしない。上等な服を着て、家具を統一し、客人の機嫌を損ねないよう言葉を並べる。だが果たしてそんな価値が客人にあるか?嘗てあった事はあるか?≫
≪この本は?何故こんな所にある?不自然だ≫
恐る恐る見上げた先、鏡越しには栗色の髪を持つ長身の男の姿があった。男はたった今から魔法省の高い地位を占める人物とでも会うような格好をしており、嘸かし美しかった。これ程の男がいるだろうか?少しばかり嫌味が過ぎるが──サラはクラウチから視線を外して指輪を嵌めた。そして異常な程に昂ぶっている心臓の動悸に構う事なく、男が視線を浴びせている二冊の本を奪い取るように抱えた。その時も彼女はずっと眼を伏せていたのだが、彼女が踏み締めている床の上には同様に、男の両脚、男が履いている革靴がちゃんとあったのである。男は鏡の中にいるのではなく、この部屋の中に、そして彼女と同様、この地に足を着けていたのである。サラには顔を上げる事がとても出来なかった。光沢を放つ革靴、そして其処からすらりと伸びる脚。その先にあるものを真面に見る事など出来なかった。
≪まあ、何だって構わないさ。此処はお前の家なんだからな。ああ、そうだ、仕事へ行く前に一つ頼みたい事がある。暖炉に火を点けてくれ。この部屋は何故こんなに寒いんだ?≫
サラは随分と下の方から込み上げて来た涙が外へと出ない内に、その二冊の本と共に寝室から飛び出した。彼女自身、自分が愛していた一切を遂に失ったという訳である。彼女はつくづく自分の無力を感じた。この世に於いて生きる目的というものを探し続けて来た彼女であったが、それは既に眼前にあった。太陽宛ら燦然と存在していたにも関わらず、真面に見ようとしなかった為に、そして一切を失ってから、それが何か分かったのである。

≪屋敷しもべ妖精がそろそろ呼びに来るぞ。『朝食の準備が整いました』ってな≫
「おはようございます。朝食の準備が整いました」
昨日と同様の姿形をしたクラウチがソファーに腰掛けて其処にいた。脚を組み、無表情で部屋を隅から隅まで見渡したり、窓の外に広がっている中庭を眺めたりしている。その姿をサラは鏡越しに時々見ていたが、髪の艶、薄い唇、痩けた頬、それら全てには生命の伊吹が掛かっており、薄い皮膚の下には純粋な血が今も尚通い続けているようであった。肺はゆったりと縮んだり大きくなったり、そして心臓は絶え間なく末端にまで血を届けている。魂、体温、そして甘い香り。死よりも渇望したものが、世界中を探さなくともこの部屋にある。
≪言っておくが鍵を掛けても意味ないぞ。俺は何処にでも移動出来るんだからな──今日も昨日と全く同じ一日が始まる。ムーディがよく言っていただろう、『油断大敵!』とな。ところで何故お前は闇祓いになったんだ?あんな肉体労働、貴族がする事じゃないだろ≫
≪お前がいつも、朝食には果物しか食べなかったのを思い出したよ。着色されたケーキなんかは絶対に手を付けなかったよな?ハッフルパフの奴等なんかは笑顔で食らい付いていたが≫
サラがクスリと笑うと、その微笑はクラウチにも伝わった。彼女が考え込むと、彼の顔も真面目になった。それは何ら不思議な事ではないが、彼女にとっては何か超自然な力が働いたように見えた。最初、彼の姿を見る事を注意深く拒んでいたが、今となっては、その超自然な力を認めてからは、彼女の眼は彼の顔へすっかり惹き付けられるのだった。クラウチは飾り気のない衣服を身に纏って優雅だった。何も嵌めていない指や手首も、細いがしっかりと据わった首も、乱れのない髪も、大きな手足だが気品のある軽々とした仕草も、今や生き生きとしているその美しい顔も、どれ一つとして優雅でないものはなかった。
≪死喰い人の連中に宜しく頼む。もう俺以外にあの方に忠実な奴はいないから、殺してくれて一向に構わないぞ。肝の据わっていない役立たずの寄せ集めだ。神秘部に入り込んだ餓鬼共も始末出来なかったんだって?酷い話だ≫
「ええ……そうね。全く酷い話だわ」
もはや、いや相変わらず、サラには希望も、健康も、心の平和、そして周りの静寂もなかった。賢者が瞑想の内に見出し、内なる栄光で報いられて歩んでいるのみである。何ものに勝る満足もなく、名声も権力も愛も閑暇もない。人間はこれらに取り囲まれ、微笑みながら生き人生を歓びと呼ぶが、彼女という人間に与えられたのはそれとは異なった運命の杯であった。