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Lay your hands on me, touch my burning sand



部屋に入って来た時には分からなかったが、向かいのソファーに座るスネイプの顔を真面に見た時、彼の左目下にある頬骨から耳朶の下に掛けて、一筋の赤い線が走っていた。今回は顔に傷を負ったらしい。彼がする動作に関しては少しばかり眉を寄せたいものがある。その大きい体躯の為にも辺りに気を配る事は最低限すべきなのだが、特別彼は不注意な人間である。その長い袖の所為かは分からないが、物に対して何かと扱いが雑である。特に気に食わぬ場所の扉、騎士団の本拠地の扉を勢いよく開け、何をそんなに急ぐ事があのか大股で歩き、仕草も大袈裟──それらには彼の短気さが表れているのだが、ゆったりとした動作は魔法薬を調合している時だけだろう。ホグワーツでは非常におっかない教師である筈だ、長身で黒尽くめの男が前から大股で歩いて来たら誰だって目を合わせず、声を掛けられないように廊下の端へと移動するに違いない。『気に食わん顔だ。五点減点』とか言うのだろうか。恐らく教室の扉も同様に勢いよく開け、生徒達を怖がらせている事だろう。
「顔、どうしたの?」
「間抜けな奴がグリフィンドールにいてな」
「鍋をひっくり返したんだね」
「今回で二度目だ」
「その調子では三度目もある」
「調合の際は教室の隅に立たせておく」
鈍間な人間はスネイプと対極にある。元から彼がこのように乱暴な性格であったかは分からないが、鈍間を酷く嫌うのはそのような要素を彼が嘗て持っており、その為に誰かに虐げられた経験があるのかも知れない。学生時代の彼には何処かぎくしゃくした、気忙しい、苛立たしいところがあった。彼の顔は極度の厚かましさと同時に、とても奇妙な事に、一目見て分かる程の小心さが顕になっていた。丁度、長い間服従を強いられ、辛抱に辛抱を重ねてきた人間が突然奮い立ち、本領を示そうとしているという感じであった。或いは更に適切に言うならば、酷く相手を殴りたくて堪らないのに、相手に殴られはせぬかと酷く恐れている人間のようだった。抑揚のない話し方にも神がかり的な可笑しさがあり、それが時には悪意に満ち、時には臆しがちで、一定の調子を保てず素っ頓狂なものになっていた。サラはスネイプの学生時代の面影から幼少期を想像しようと努めたが、それに連れて彼が育った家庭に思考を転じた。彼女はさっと腰を上げると、彼がいるソファーへと移動した。隣に座っては己の顔をじっと見ている彼女に、彼はぐっと眉を寄せた。
「……何だ」
「もう少し外れていたら目に入ってたね」
「薬品を目に入れるなど、私はそんな失敗はしない」
「慣れてるのね。薬、塗ってあげようか?」
「いい、構うな」
「血が出てるよ」
スネイプだけではなくサラもであるが、他人の手が視界に入るとそれを目で追う癖がある。自分から離れている分には気にならないが、自分の手が届く範囲にそれがあると異質に思え、それが今から何を仕出かすかを見てしまうのである。相手の顔よりも其方に意識が拉し、最悪それが自分の身体に触れようとすれば、彼女はゆっくりと緩やかに身を引き、彼はさっと素早く身を引く。相手によってはその事を特別不快に思う人間もいる為に、彼女は抱擁などの軽い触れ合いにはぐっと堪えるが、彼はそんな相手などに構う事なく負けじと不快さを顕にする。それ程までに二人は他人に触れられる事に我慢がならないのだが、たった今、サラがその一本の赤い線に触れた。所々から血が滲み出ており、「ほら」と小さな赤玉となっているそれを指で掬い取った。
「他人の血に易々と触れるな」
「薬は持ってるんでしょ?さ、出して」
ただの引っ掻き傷であれば直ぐに治るが、薬品となると非常に厄介である。傷の周りの皮膚は何ともなってはいないが、指で掬い取っても血は再び外に出ていた。スネイプは薬を付けずに何度も擦ったのであろう、周りの皮膚には赤い血が色んな方向へ薄く延びていた。彼は嘸かし面倒そうにローブの懐に手を突っ込み一つの瓶を取り出した。サラはその瓶を取り上げると、自らのハンカチにその液体を浸した。初めその傷に手を伸ばした時、避ける事は出来た筈である。彼は自分を見ていたのだから。しかしそれをしなかった彼が珍しく、更に調子に乗り、他人の傷の手当てまでしている自分も同様に珍しかった。こんな事は仕事ならまだしも、私生活に於いて他人の血に触れる事など真っ平である。だが思っていたよりも然程嫌ではない事、そしてそれは他でもないスネイプであるからという事をサラは自覚したのであった。
「君が自ら他人に触れるとはな」
「必要とあればね」
「今はどうなのだ」
「あなたは直ぐに放置するから……必要よ」
スネイプは一度、頭が三つある犬に右脚を噛まれた事があった。その際も治療という治療をせず、随分と悪化した状態でホグワーツの慰者に指摘されるという失態を冒している。歩く際には格好が不自然であった為にサラも何となく勘付いていたが、彼が傷を見せる事はなかった。放っておけば治ると思っているのか、早く治らせる気がないのか。恐らく全てが面倒なのであろう、彼女は何故こんな彼に二重スパイが務まっているのか不思議であった。ある事に卓越した人間というのは、その他の事はてんで駄目な面を持っているものだが──サラはスネイプの長髪を耳に掛け、顔半分を顕にした。彼は傷にハンカチを当てた彼女を横目で見、そしてその手が次に何を仕出かすかを監視していた。他人との距離に対し幾分は慣れたつもりであるが、専ら近寄られるのは苦手であった。何も考えていないであろう子供に対しても受容する事は出来ない。そもそも他人の手なんてものは信用ならないのだ。しかし今、己の傍にいる脅威、その灰色の明眸は見たところ何の感情も含んではおらず、その手は何の痛みも己に齎す事はなかった。
「触れないのは癖なの。大概の物には呪いが掛けられているし、昔、それで酷い目にあったから」
「それで何でも魔法で片付けるようになったと」
「職業も相俟ってね」
「そうではないだろう。君は元々そのような性格の持ち主だ」
サラも己同様、他人を遠ざけている人間であった。しかし彼女は己とは異なり、相手を馬鹿にしたり、非難または支配する事をせず、ある程度の事は受容する態度を見せる寛大な人間であった。大人になるに連れ随分とその性格は丸みを帯びて来たが、相変わらず気難しいものが根底には存在している。寛大というのは無関心なのである。彼女のその無関心さだけがスネイプの身には適しているものであったが、今だけはその無関心さではなく彼女の優しさが表へ出ており、何故かそれが彼を安堵させた。サラは仕草一つするにしても、一旦考えて行動する。彼女は急に立ち止まったり、大声を出したり、物を放り投げたりせず、一つの流れのように手や物を動かし、そして扉を静かに閉める。闇祓いとは到底思えないその動作、その手をスネイプは見下げた。彼の視界で静止している彼女の左手は瓶を持っており、閉じている両膝の上に軽く置かれていた。その左手の近くに、彼は左手を置いた。
「……最後に手を握ったのは?」
単純な質問の筈であった、己にとっては。その淑やかな手、人間や物を一切傷付ける事をしない不可解な手は、最後に誰の手を握ったのであろうか。誰の手であると彼女は意識をし、誰の体温や質感を感じたのであろうか。全くもって単純な質問である。しかしそう言った後、もし相手からそう尋ねられたら果たして己はどう答えるだろうかとすっかり恐ろしくなってしまった。それ程までに他人と手を繋いだのは遠い昔の事であり、そして何より過去の事を無理に思い出すのは誰にとっても苦痛だからである。問いに考え込んでいるサラを見て、スネイプは直ぐに付け加えた。
「今のは、忘れてくれ」
「思い出していただけよ。最後に触れたのは……確か父親だった気がする」
「今も健在か」
「さあ、多分」
薬品の匂いが、何故か昔の情景を鮮やかに想起させた。それは恐らく人生で一番辛かった時期によく嗅いでいた匂いであったからである。家族と別れたのは学生時代、それもホグワーツに入学したばかりの幼い頃であり、その時は丁度魔法薬学を苦手としていた。幾ら教科書通りにしてももう一つ上手くいかない事に腹が立ち、そして家族がいない事に腹が立ち、鼻を突くあの薬品の匂いと家族との思い出が繋がって記されていたのである。両親は何方も出来の良い頭を持っていたが、子供であるサラには何一つ強要する事をしなかった。日常生活に於いて怒られる事も、殴られる事もなかった。しかし両親と何処かへ出掛けた事も、抱擁も、本を読んで貰った事もなかった。ただ一つ覚えているのは、家族が外国へ亡命する際に握られた手の感触であった。母親は姉の傍におり、二人して遠くから自分を見詰めていたが、父親だけは自分の手を取って別れの言葉を述べた。父親の顔も姿形も、そしてあの時自分に何と言ったかもまるで覚えてはいないが、父親の手だけがまざまざと脳裏に焼き付いていた。触れられたのは一瞬であったが、握られた際、自分はぎゅっとその手を握り返した。それは綿のような手であった。大人の、それも家族を守って来た男の手であるのに柔らかく、簡単に潰す事が出来そうな手であった。
「あなたの御両親は?」
「生きている、恐らく」
過去の事、特に忘れたいと思っている過去は中々忘れられないものである。スネイプの父親は破れ鐘のような声で彼を呼んだ。一度名前を呼び、誰も答える者がいないと父親は彼がいるであろう場所へと足を向ける。家の中の、本来いるべき筈の場所にいない事が分かると、父親は決まって家の外へ出て行く。そして其処から少し離れた公園で、屋根組みの梁の一つに馬乗りになっている彼を見付けるのである。息子は父親の言った事を放って置いて本を読んでいる。これ以上父親を怒らせるものはなかった。父親は彼が周りの子供達とは違い、力仕事に適しない弱々しい身体付きをしている事はどうにか我慢出来たが、この読書癖というものは辛抱がならなかった。息子が自分の理解し得ない魔法とやらの事について、すっかり理解している事が気に食わなかったのだ。スネイプを二三度呼んでみるが無駄であった。公園で遊んでいる子供達の騒音の為というより、彼は本に夢中になっており、父親の恐ろしい声が耳に入らなかったのである。とうとう父親は年とは思えぬ程の身軽さで、屋根を支えている横木の上へと攀じ登った。恐ろしい一撃が、彼の手にしていた本を小川の中へ叩き飛ばした。頬に同様の烈しい第二撃を受けて彼は平衡を失うと、今にも芝生の真直中へ転落し身体を圧し潰されようとした。だが正に落ちんとした刹那、父親の左手が彼を引っ掴んだ。『怠け者!相変わらずそんな下らない本が読みたいのか。そんなものは晩に読め。俺のいない時間に読むなら、お前の勝手だ』スネイプは殴られて気が遠くなり、鼻から随分と血も出ていたが、彼が目に涙を湛えていたのは肉体の苦痛の為よりも愛読書を失った為であった。『降りて来い、この畜生め、話があるんだ』彼が下へ降りるのも待ち切れずに、父親は荒々しく追い立てて彼を家の方へと急がせた。通りすがりに彼は自分の本が落ちた小川をじっと眺めた。それは凡ゆる本の内で、彼が一番心を打ち込んだものであった。静かな時には思慮と情熱を示すその黒い大きな目は、この瞬間、世にも恐ろしい憎悪の色に燃えていた。漆黒の頭髪が低くまで生え下っている為に怒った時には意地が悪く見える。ごく幼い頃からその恐ろしく沈んだ様子と酷く青白い顔を見て父親は、この子は育つまい、育ったところで一家の厄介ものになるばかりだと思っていた。家の中へ入るやいなや、スネイプは父親のがっしりとした手で肩を掴まれるのを感じた。また幾つかぶん殴られる覚悟をして彼は可笑しい程に震えていた。『正直に、俺の言う事に返事しろ』大人の男の荒々しい声が彼の耳の傍で叫ばれると同時に、その巨大な、遠慮なく力の込められた手が彼の小柄な身体の内へと食い込んだ。彼の涙に満ちた黒い大きな目は、彼の心の底まで読み取ろうとする、彼と全く同じ色をした小さな目と睨み合った。
「あなたの名前って何方が付けたの?」
「知らん」
「セブルス、セブルス、セブルス……どんな意味を?」
「知らん」
「sternでしょ。全くその通りの人間になっちゃったね」
「祝福の意のある名よりは救いがある」
「セブルス、セブルス、セブルス……でも良い響きよ」
父親が己の名を口にする時、決まってスネイプの魂は縮み上がったが、成長するに連れて己の名前を口にする人間が増えていった。発する音は同じであるのに、口にする人間が異なるとそれぞれに特徴を持つ事を知った時、あの父親に支配された時間というものはとても短く、何と狭い世界であっただろうかと思うようになった。そして意図する事なしに、初恋の相手は忌み嫌っていたマグル生まれであり、母親がマグルである父親に惹かれた訳を何となくだが理解する事が出来た。正に盲目であったのだ。スネイプは『あなたが最後に手を握ったのは?』とサラに聞かれるであろうと思ったが、彼女は何も言わず、ただ黙って傷にハンカチを当てていた。愛していた母親の名が彼の胸の内に浮かんでは、眼前にいる彼女の名が瑞々しい力でもって彼自身を包み込んだ。

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