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Fair torch



随分と前に記憶された男の姿も、痩せ細って病的な雰囲気を漂わせており、とても恐ろしく思われたものだが、今の彼はそれよりも更に痩せて弱り切っていた。それは正に皮を被っている骸骨であった。肺には大きな穴が空いているかのように何度も空気を吸っては、嘸かし息苦しそうに少ない息を吐いていた。しかし、椅子に座らされた男はそんな事には気にも留めず、薄暗いムーディの私室にいるたった一人のスネイプを、汗の滲んだ前髪の影から凝視していた。狂人の鋭い目はただの飾りではなく、その中に何かを含んでいるようにスネイプには思われた。
「クラウチ……ジュニア」
スネイプはふと思い出した。サラに渡されたリストの中にこの男の名前があった。『私達も血眼で捜索してるけど、何一つ掴めてないの。ポッターに危険が及ぶかも』彼女はあの時そう言った。スネイプはこの男の父親、クラウチ・シニアは知ってはいたが、この男の事は何一つ知らなかった。男を初めて見たのがもう随分と前であった為、この男が死喰い人であり、闇の帝王の忠実な僕である事さえ朧げであった。ロングボトムの事件で名を聞いた事はあっても、精々、沢山いる寄せ集めの中の一人に過ぎなかった。従って、そんな見知らぬ男にそのような憎悪の含んだ視線を浴びせ掛けられる筋合いはない。スネイプはその茶色の双眸から逃げる事なしに、漆黒の杖を向けた。
「──同志よ」
クラウチは顎を上げ、スネイプにその顔全体を見せた。眼前にいる黒尽くめの男を嘲笑するように口の片端を上げたクラウチは、歯を見せてクツクツと笑い出した。今、彼に施している縛り付け呪文よりも強力な呪文の数々がスネイプの頭に浮かんだが、クラウチの片腕にある印を見ては思い留まった。クラウチは聞き取る事の出来ない声でボソボソと何か言っては、一人でに笑い、裏切り者であるスネイプに罵声を浴びせ掛けた。その態度を毅然として見ていたスネイプは、クラウチの右肩が微塵も動いていない事にふと気が付いた。怪我でもしているのか、笑う際には頭や身体が動いているのにも関わらず、右肩だけは死んだように固まっている。スネイプはゆっくりとクラウチに歩み寄ると、ムーディのコート、その内側にある懐に手を入れた。途端、クラウチは縛り付け呪文を跳ね除ける勢いで全身を揺さぶった。屍宛らの身体の何処にそんな力を秘めていたのか不思議であったが、暴れる事によって鳴る椅子の音は、男の骨が軋む音であるかのように思われた。クラウチは地を這って行く低い唸り声を上げ、歯軋りの音を響かせた。
「止めろ」
先程まであった皮肉な輝きはクラウチの目から消えた。しかし、直ぐに別の微笑が──何か相手には分からないものを自覚し、それと同時に、静かな悲しみを覚えて生まれた微笑がそれに取って代わった。懐にあったのは一本の杖であった。それはこの世界でたった一つの、スネイプの愛するサラ・バラデュールの物であった。灰色に沈んだ、彼女の瞳の色と同様の杖。その杖の先端から持ち手にまで刻まれた一本の深い傷。黒ずんだ其処からまた小さな傷が数箇所現れている、今にも朽ち果てそうな杖。彼女の家で初めて拾い、無意識の内に覚えたこの質感。それを目と手で捉えた時、スネイプの魂は竦み上がり、血管が凍る思いであった。
「あんたでも驚いた顔をするんだな」
此方を向いて僅かに微笑している男子生徒。深緑色と灰色のネクタイをきちんと締め、痩せ細った首から米神、そして額を覆う茶色の髪。彫りの深い目元、聡明な眉、そして髪と同様の色をした双眸。こざっぱりとした、上流階級らしい、品のある怜悧な顔立ち。謹厳だが嘸かし神経質そうなその人物は、スネイプには見覚えがなかった。見覚えが、なかった。サラの屋敷、ガラステーブルの上、一冊の本に挟み込まれていたあの写真の人物が今、スネイプの眼前にいた。バーテミウス・クラウチ・ジュニア……この男はサラと同じ学年にして、彼女の友人であったのだ。彼女を助けたのは、他ならぬこの死喰い人であったという訳である。
「貴様には、到底似つかわしくない物だ」
スネイプがサラに欠かす事なく薬を出した際、美しい顔立ちに決まって浮かんでいたあの逼迫した、沈淪したような表情が、再び彼の脳裏にまざまざと想起された。彼女は死を渇望していた。この男と過ごした日々の中で真面な薬など一つも出される事はなかった筈である。それが出されるようになり、徐々に死から遠ざかって行くのを感じていたのだ。彼女は死とこの男を結び付けていた為に、彼女はあのような表情を浮かべていたのだ、無意識の内に。「心外だね」とクラウチは応えた。彼の顔は先程のような狂人の顔付きではなくなっており、人間の血がその下で脈打っている苦しげな老いた顔に変わっていた。
「元気にしてるか?アイツは」
聖マンゴへと姿くらましをした際、混乱した意識の中でスネイプが見た、寝台の脇に置かれた水差し。それには数輪の花があった。シャンデリアが放つ朧げな明かりに照らされたそれらは、闇に呑まれる事なく、その花が持つ力を鮮やかに揮っていた。一瞬の内に彼の目が捉えたそれが、それだけが、正にあの一連の物事の枢要であったのだ。クラウチの胸の中で心臓がゆっくりと、緊張した鼓動を始めた事が見て取れた。スネイプは一人でに暗い輝きを増したクラウチの双眸を見て、彼がサラを愛している事を悟った。いや、それはクラウチが言葉に出して言ったのと同様、明瞭な事であった。
「死人に言う事などあるまい」
「あんたには分からんだろうな、あんたには何も──いや、分かってたまるか」
クラウチが言葉を切ったのは、心が動揺し、胸の中が乱れに乱れていて、それ以上言葉を続ける事が出来なくなったからである事をスネイプは直ぐに看取した。闇の帝王復活の陰謀、それを見事に成功させた男がこのように取り乱した姿にも驚いたが、この男を最後まで庇い、愛したサラの姿がスネイプの胸に悩ましい痛みを齎した。やはり私は何も知らなかった。何一つ、彼女の事を知らなかったのだ……。
『君を愛したいから』
『……愛さなくて良いわ』
不快げにそう言ったサラは芝生の上に仰向けに横たわっていた。クラウチはその上に身を屈めた。そして彼は、明るい夕空の星が彼女の瞳に映っているのを見、それから黒い雲が彼女の瞳に映っているのも見た。彼女はいつだって善良そうな慎ましい眼差しで彼を見詰め、全くの静謐の中で彼という人間を愛していたのだった。クラウチは自分から奪った灰色の杖に注意を払っている男から視線を外した。この男はサラを一人の人間として愛している。それだけの力と自由をこの男は持っている。俺が望む全てのものを、嘗て俺にもあった筈のものを、この裏切り者は持っているという訳だ。そして、それらをいつでも発揮出来るのだ。彼女の魂の前に立つ事が許され、魂の前に跪く事が出来るのだ。ただ一つ、彼は今も尚あの愛情と闘っていたにも関わらず、何としても自分の胸の中から取り除く事の出来なかったのは──永遠にサラを失ってしまったという、殆ど絶望的ともいえる哀惜の情であった。
『ちゃんと、殺さないと』
『一緒に逃げない?』
闇の帝王にこの魂を捧げると思い立った時、サラの事は忘れ、愛さないと固く心に誓った。しかし、クラウチは彼女の愛を失ったというその哀惜の気持ちを、自分の胸から取り除く事も出来なければ、彼女と共に過ごした幸福の折々を、記憶の中から拭い去る事も出来なかった。その幸福も当時はそれ程とも思わなかったのに、今ではその魅力の限りを尽くし、絶えず彼の心に迫って来るのだった──美しい灯火よ、俺に彼女の姿を見せて欲しい。最後に、彼女の声、あの眼差しを、この俺に与えて欲しい……。

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