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Low, low, low ...



此方を見下げるカウボーイとその妻をハンスは最後まで見失う事はなかった。最後まで、というのはその身に受けるであろう衝撃に備えて瞼を閉じるまでであり、直ぐに訪れるであろう死はどうやっても避ける事が出来ないものであった。右手に持っていた拳銃は落下途中で離してしまい、空を切り続ける両手を強く握り締める事しか出来ない。しかし、先程撃たれた胸の痛みや息苦しさは不思議な事に感じる事はなく、ただ計画の失敗だけが心に滾った。それを更に助長させたのは、これが世の必定であると言わんばかりのカウボーイの顔であった。その間抜けな顔に最初は忿懣を覚え、何故自分はもっと上手く出来なかったのだ、たった一人であったあの男を踏み躙る事など容易であった筈だと失望をしたが、落下する速度が徐々に緩やかになって行くのを感じた時、もはやそんな雑念はすっかり消え去った。その存在を見るまでもないある一つの存在が、ハンスが生きている世界に於いてのたった一人の存在が、夥しい程の興奮でもってその姿を現した。
「君には分かるまい……」
それらとは別に、ある後悔がハンスの胸を占めていた。それは落下する以前からあったものであり、彼の願望を膨れ上がらせもし、また彼の揺らぐ事のない感情を瑞々しい力で包み、一定の速度で揺れ動かしたものであった。六億ドルを手にした時、どれ程の喜びに心を失い掛けたか。そして、君のその哀愁に満ちた瞳、淑やかな声がどれ程に私の胸に迫り、甘美な幻想を齎したか。六億ドルは夢であったが、君をこの腕に抱く事もまた夢であったのだ。君と出会ってからはあの金は単なる添え物であり、君をあの世界から連れ去るだけものであった。君を思い、君の姿や声を思い出すと、あのような不可能と思われる事でもやり遂げる事が出来たのだ。
「また君に会えた事に、こんなにも喜んでいる事を」
「分かりますよ。手に取るように」
「……君はやはり、」
「ええ」
「君からの電話を、私は心待ちにしていたのだがな」
「ごめんなさい」
「気にするな。其方にも規則があるのだろう」
サラはあの日のように上等な衣服を着ており、その隙のない顔立ちはハンスに微笑み掛けた。右手で持っている灰色の杖を地面に横たわらせた彼に向けると、出血している胸の上に左手を置いた。やはり君は魔法を操る人間であった。出会った時にそうではないかと疑い、再会した時には殆ど確信のようなものを抱いていたが、実際に目の当たりにするまで信じる事が出来なかった。君が質問を嫌ったのもその為であろうが、私は君のような人を見た事がない。私は様々な所へ行ったが、空港でこの目が捉えた君は正に普通の人ではなく、またこの世界の人ではなかった。
「君の本当の名前を知りたい。ソフィア、ではないだろう」
「サラです」
「サラ、このまま私を死なせた方が世の為だと思うが」
「あなたのような人間は何処にでもいます。勿論、私の世界にも」
「君に対する記憶だけは消さないでくれ、頼む」
「あなたは善人ではないけれど……出会えて良かった」
ああ、私は君を知らない。君という人間を知らずに私は君を思い続け、君からの電話を待ち続けた。そして君のその高尚たる美しさに触れたいと何度も思っては、どうすれば君をあの世界から引き離しその手を握る事が出来るかを考えた。サラ、君は正に私の心臓であったのだ。君の為に存在しているようなものであり、また私は君に自分の為に生きて欲しいとも思っていた。それ程の男に私はなりたかったのだ。気紛れで意地の悪い君の事だ、君はあの時私にそれらしい視線を投げ掛けてくれたが、知っていたのだろう。私が君を愛し始めている事の一切を。

空港でその姿を捉えた時、サラの眼は聡明らしい表情に輝いた。別れの言葉こそ告げなかったが、瀕死の状態であったハンスが自分に開いたあの暗い心、自分に掛けた言葉の数々を彼との僅かな思い出に結び付けては、それらを時たま眺めるといった事をしていた。彼の吐息が傍にあった頃の、あの異常な程に昂ぶった心臓の動悸。自分を全く新しい精神世界へと拉する、あの逞しい魂。もし今度彼に再会したとしても、私は彼に声を掛けない。そんな覚悟をする事はサラには出来なかった。マグルの世界で再会する可能性は非常に低く、彼女も忙しかった為に彼の存在は殆ど遠ざかっていたが、彼を忘れた訳ではなかった。寧ろ彼女はハンスという男を、先に死んでしまったあの男のように、日常生活に於いて唐突にふと思い出した。あの男はもうこの世にいないが、彼は未だ息をし、空を仰ぎ、この地に立っているのだ。そして何より、マグルである彼を助けたという自分の行為に対する驚きもあった。傷の手当てと記憶の改竄を施し、新たな人生を与えたのだ。人助けは専門ではあるが、このように再生を促す事は全く初めてであった。あの男のようになって欲しくはなかったという後悔から始まり、そして遂にハンスという人間に対する愛が顕になったのである。サラは駆け寄った。彼女は普段人を追い掛けるなんて事は絶対にしなかったが、無意識の内に、履いている高さのある靴で軽々と地面を蹴り、漆黒の髪を微風に靡かせた。白髪混じりの茶色の短髪、丁寧に整えられた髭、そして淡褐色の虹彩。彼が生きている、生きて、今此処にいる。
「良いスーツですね」
「サラ」
「お元気でしたか?」
「ああ。仕事も中々上手くいっている」
ハンスは爽やかに微笑んだ。その目はサラが浮かべていたものをそのまま映したように、彼もまた聡明らしい表情に輝いた。その長身には以前同様、自信と威の風采を纏わせており、世に通用する美を持っていた。彼は彼女に対する記憶を失ってはいなかったが、彼女という人間は失ったという事を感じていた。彼女が自分を助けた時、これが別れなのだと思った。彼女は自分の事を少なくとも特別な存在と思っていただろうが、深く関わる事を避けていた。自分との未来に関わる事全てに触れるのを避けていたのだ。しかしそんなサラがやって来た。全くの偶然ではあったが、彼女は自分を避ける事をせず、その意識と身体を自分に向けたのだ。ハンスは彼女の明眸を見詰めた。ああ、やはり私には君が必要だ。君の一眼でも、一言でも、私にとってはこの世の凡ゆる知恵にも増して嬉しいのだ。
「一つ提案なのだが、今から食事でもどうかね」
「すみません、友人と来ているもので」
「真逆、例の?」
「ええ、例の友人です。ほら、彼処に」
「驚いたものだ。私の兄より似ている」
その男は左手首に嵌めている時計に指を差し、サラに合図を送った。彼女より彼の方が世間慣れしている風貌ではあったが、やはり彼女と同様、得体の知れない不気味さがあった。孤独と悄然がその黒色の目には貼り付いており、辺りにいる人間、魔法族でない人間に峻厳な視線を浴びせ掛けていた。しかし、その男がハンスの姿を見た途端、彼の顔は何か不意に暗くなり、目の表情も更に不快げになった。ハンスは直ぐそれら全てを見て取り、心の中である感情が動いた。
「電話します。掛け方を習ったので」
「頬にキスしても?」
あの男もサラを愛しているのだ。彼女はそんな彼を信頼し、そしてまた必要としている。ハンスは彼女が持つこの誠実な眼が、唯一世界と繋がりを持っているものであるように見ていたが、それは全くの間違いであるのではないかと思った。唯一ある世界との繋がり、それはあの男なのではないだろうか。彼女は自分をあの男に似ていると言った。何故彼女が自分を生かし、人生を改めさせる手助けをしたのか。それは他ならぬ、あの男の存在があった為である。あの男に似ているからこそ彼女は自分を見たのだ。サラはあの男を愛している。静謐の中で輝く柔らかな宝石を、彼女は彼に向けているのだ。
「彼に宜しく──美しい人」