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Glass bottle



スネイプは特に注意深くサラに応対した。休日には彼女の病室を訪れ、長い間其処に座り込んでいた為に、始めは男の前でおどおどしていた癒者も直ぐに慣れた程であった。彼は、時には三十分余りも、 彼女の寝顔を黙ったまま覗き込み、妙に顰めた額の動きや、僅かな痙攣を起こした指で眼や鼻筋を擦ったり、手を握り締めたりしている様子をじっと観察する事があった。そんな時、スネイプは自分の心が全く落ち着いており、自分自身にぴったりと調和しているのを感じた。自分の境遇に何一つ異常なところも、また何一つ変更しなければならないところも認めなかった。ところが、それと同時に、彼にはこうした境遇が今の自分にとってどれ程に自然であろうとも、己の使命は自分を此処に長くは止めてはくれない、彼女の傍に長くいさせてはくれない、という事が次第に明瞭になって来た。スネイプには彼の魂を導いている幸福な精神力の他に、彼の人生を導いている、もう一つの荒々しい力があった。それは前者と同程度に、いや、それ以上の支配力を揮っており、この力は彼が心の奥で望んでいる和やかな安らぎを一切与えてはくれない。過去に犯した罪の償い、それは「生き残った男の子」を守る事であり、偉大なる魔法使い二人の駒となる事であり、其処には微塵も、サラを愛するという、そのような美しく明るい精神世界など存在しない。スネイプは、周りの人間が怪訝な顔付きで自分を眺め、自分を理解しようとしないにも関わらず、何者であるかを自分に期待しているのを絶えず感じていた。そんな中、彼女だけはあの灰色に沈んだ眼をすうっと細め、彼に微笑み掛けるのであった。しかし、彼女が目覚めてからというもの、彼はサラとの関係の脆さや不自然さを痛感する事となった。死を間近にして、彼女の内部に生まれていた心の平安が去ってしまうと、彼女は彼を恐れているように憚り、彼の顔を真面に見つめる事が出来ないでいるのにスネイプは気が付いた。彼女は何か彼に言いたいのに、それを言い出し兼ねているようであった。その事を、彼は理解したかった。サラの事なら何でも、彼女が考える事なら何でも理解したかった。
「綺麗ね」
スネイプが受け取ったあの手紙。それに記された場所へ行くと、其処は貴族の大きな屋敷であった。思わず屋敷を見上げた際、それはサラが所有する別荘の一つかと思ったが、バラデュール家が好むものとは異なる建築様式であった。しかし、中には何の手掛かり一つ落ちてはいなかった。不自然な事に、生活用品、家具、飾られていたであろう絵画などは、だだっ広い貴族の屋敷に何一つ存在しなかったのである。それにも関わらず、どんよりと漂う、重く、異様な雰囲気の暗さ。人間の手によって何もかも、思い出さえも消された狂気の中に、扉が開いたままの一つの部屋があった。寝台と少し埃の被ったシャンデリアがあるだけの殺風景な部屋。其処にサラは横たわっていた。生きているのか死んでいるのか分からぬ彼女を見て、スネイプの頭はすっかり混乱した。呼び掛けても一向に反応せず、固く瞼を閉じている姿は死んだ幼馴染みを彷彿とさせ、彼を慄然とさせた。彼は思わず深淵の中へ落ちて行った。意識されない生命の波が、彼の頭の上に集まったかと思う間もなく、突然、まるで最も強力な電流が彼の身の内に流れたかのようであった。彼は激しく身震いし始め、怯えたように彼女の傍へ駆け寄った。彼の闇色の目は大きく見開かれ、感じていた頭の重さも、手足の怠さも、忽ち消えてしまった。彼女を失ったら、私には何が残るだろう?彼女以外の凡ゆるもの、それらは、以前は何らかの意味を持っていたが、もう今となっては、そんなものは何の意味も持たなくなってしまった。私はたった一つ、たった一つの事を望む。今まで散々苦しんで来たのに、そんな事すら与えられないのか?スネイプは「大丈夫だ、大丈夫だ……」とサラを抱え、震える腕でその身体を抱き締めながら、聖マンゴへと姿くらましをした。その際、混乱した意識の中でスネイプが見た、寝台の脇に置かれた水差し。それには数輪の花があった。シャンデリアが放つ朧げな明かりに照らされたそれらは、闇に呑まれる事なく、その花が持つ力を鮮やかに揮っていた。一瞬の内に彼の目が捉えたそれが、それだけが、この一連の物事の枢要であるように彼には思われた。一人の女、所有者不明の屋敷、そして数輪の花……一体誰が?誰が彼女を助けたというのだ?スネイプは尋ねようとした。しかし、サラが言い出し兼ねている事はその事であると思い、彼はぐっと堪え、彼女の言葉を待つ事にした。彼は彼女との会話を追いながら、彼女に見惚れていた。青白く痩せ細った姿にさえ存在する美貌と教養、それと同時に、その率直さや誠実さが健在した。彼は聞いたり話したりしながらも、絶えず彼女の内面生活の事を考え、その感情を推察しようと努めていた。
「ありがとう」
「……花などそこらに生えている」
病室に飾られた穏やかな花。眼が覚めるといつも其処にあるそれはサラの眼に留まると、馥郁たる香りと美を放った。彼女はそれが水差しに入れられる瞬間を見た事はなかったが、此処に訪れる人間はスネイプたった一人である。無表情のまま、しかし何処となく恥ずかしげにそう応えた彼の顔立ちを彼女はちらりと見た。その時、ふと疑問に思った。彼はこのような顔立ちであっただろうか?悟性のある、氷の刃宛らの鋭い眼差しはその面影を残しながらも、殆ど力を失ったように見えた。一体何が、彼をこのような表情にさせたのだろう?此方を向き、彼女の瞳を捉えた闇色の悄然とした双眸。サラはスネイプの友人ではあったが、彼という人間が持つ顔を今まで真面に見た事がなかったのである。いや、顔ばかりではない。大きいが繊細な白い手、広い肩、髪の長さや畝り具合、そして唇の形。
「私の居場所は手紙か何かで?」
「匿名の手紙だった」
スネイプは短気ではあったが、言う言葉を随分と選ぶ事があった。それは取るに足らない会話の中であっても、サラが何か言葉を溢すと、それに僅かに頷き、言葉を選び、ゆったりと話すのである。喜怒哀楽のない、心を無にした人間。それが、彼女に見えていたスネイプという人間であった。しかし、座って此方を見ている眼前の彼は、彼の目には全く見覚えのないもの、穏やかさの光がきらりと走っていたのである。それは悄然などではなく、何か他のものであるように思われた。思い返してみると、彼はいつも優しかった。彼の心遣いと彼の差し挟む言葉のお陰で彼女は幾度となく助けられ、その訳を考えた時、彼の行動全てが特別な意味を帯びているようにサラには思われたのであった。スネイプについては、彼という人間そのものを彼女は愛していた。彼の崇高にして不可解な現を、自分にとって心地良い、あの引き延ばすようなアクセントを持つ太い声を、その隙のない眼差しを、その磊落な性格を、その血管の浮いた柔らかな白い手を、愛していたのであった。彼女は、彼に会う事を無意識の内に喜んだばかりでなく、相手の雰囲気に自分の与えた印象が表われるのを捜すまでになった。サラは単に自分の話だけでなく、自分という人間そのものがスネイプに気に入られている事に気が付いていた。以前までは、彼の表情の変化をまじまじと見なかった為に分からなかった事が、今では瞳を転じるだけでそれが簡単に分かった。しかし、彼の方ではもう随分と前から、彼女に会う事によって感じる、あのまるで冷水浴でもした後のあの清々しい気分の源、彼女が好きだった。全世界に於いて彼の為に存在しているものは、彼にとって俄に大きな意義と重大性を帯びて来た彼自身とサラだけであり、自分と彼女は目も眩むばかりの高みに立っており、何処か遥か下のほうに、我々以外の人間、その他諸々の世界が存在しているような気がしていた──本当にそうだったら良いのにと、そんな下らない事さえスネイプは真剣に思うようになっていたのである。
「そう」
今も尚、サラの身体に現れている痣。その中には魔法によって治された箇所が幾つかあった。彼女を保護した人間はそれなりに手を尽くしたようであったが、スネイプはその人物に忿懣の念を覚えた。何故直ぐに聖マンゴへ連れて行かなかったのか。幾ら闇祓いの持つ情報が貴重とは言え、あのような仕組みが複雑な呪いを治すなんて事は到底困難である。そして何故、もっと早く周りに知らせなかったのか。救った人間が彼女と同様の闇祓いであれば、瀕死の彼女の頭の中を覗く事など容易であり、自分の存在を見付け出す事は出来た筈である──ならば、その人物は、闇祓いではない事になる。すると、一体誰だ?彼女を救って得がある人間とは?その答えを導き出す手助けをする、ある一つの出来事があった。それは、スネイプがサラに自ら調合した薬を差し出すと、決まって彼女は逼迫したような、沈淪した表情を浮かべる事であった。彼は彼女の事をよく見ていた為に、その僅かな表情の変化を見逃さなかったが、それが何故だか分からなかった。しかし、彼はそんな彼女を見ている内にふと思い至った。その人物は薬を何一つ作れなかったのではないか?そして、彼女はその事に対し何の非難もなく、それどころか、そのガラス瓶を見る事によってその人物を想起しているのではないか?
『君にはいるのかね』
『いないよ』
いや、そんな事がある筈がない……そんな事、あってはならない事なのだ。スネイプは時に、もし自分が全くの自由の身であったら、どんな事になっただろうと空想している自分に気が付く事があった。彼はサラの病室に入ると、以前のような心の落ち着きは消えてなくなり、代わりに姿を見せるのはいつだって愛であった。静謐の中で、しかし彼の全身を捉えて離さないそれを、彼は追い払う事が出来なかった。ただ彼女に、自分の心の内を気付かれないように注意する必要があった。彼女という人間を愛するという事は、彼にとって、いや、どの人間にとっても非常に困難な事であった。自分は彼女を永遠に愛し続けるかも知れないが、彼女と一緒にいて常に幸せという訳にはいかないかも知れないと、ふと冷静に思うのである。というのは、サラは愛というものを恐れ、愛を全くもって面倒なものと考えている人間であった。彼女は誰かを支配する事はないし、そして、誰かから支配される事もない。従って、そんな彼女は友人である自分であっても、別れる事を一瞬も悲しまないであろう……。スネイプの脳裏にはあの写真の青年の顔を留まらせていた為に、いつでもあの顔を其処に浮かばせる事が出来た。しかし、その事を彼女に尋ねる事は出来なかったが。