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Memory, hither come



寝台の上に、毛布に包まった一個の肉体が横たわっていた。その肉体に付いている一方の手は毛布の上に乗っていたが、長い指を持つその手首が、元から中程に掛けて同じ太さの細長い橈骨に付いているのが何とも奇妙であった。頭は横向きに、枕の上に乗っていた。クラウチの目には、その米神の上の汗ばんだ黒髪と、皮膚がぴんと張って透き通るような額が直ぐに映った──この恐ろしい肉体がサラだなんて、そんな馬鹿な事が?クラウチは思った。しかし、近付いて顔を見た時、それはもう疑う余地はなかった。人相は恐ろしい程に変わってしまっていたにも関わらず、入って来た人間の気配にちらっと上を仰いだその生ける目を見、微かに動く口元を見ただけで、もうこの死せる肉体が生ける彼女であるという、恐ろしい事実を理解するのには十分であった。しかし、そのぎらぎらと光っている眼は、入って来た彼を厳しく非難する事はなく、サラが持っている本来の慇懃さが、あの精神の輝きとなって彼を見詰めるのであった。すると、忽ちこの視線によって、生ける者同士の生きた関係が生まれた。クラウチは、自分に向けられた視線の中には何の非難の色もない事を読み取ると、その身に悔恨の情を覚えた。彼が彼女の骨宛らの手を恐る恐る取った時、彼女はにっこりと笑った。その微笑は、漸くそれと知る事が出来る程の弱々しいものだった為に、そうした微笑にも関わらず、厳しい眼の表情は変わる事はなかった。
「どんな呪文を掛けられた?」
サラは何を見ても、ただその中に死か、死への接近だけを見るようになっており、死が訪れるまでは、短いながらもこの人生を生きて行かなければならなかった。暗黒が全てのものを彼女の眼からすっかり覆い隠してしまっていたが、他ならぬこの暗黒の為に、彼女はその中の唯一の導きの糸はクラウチだけである事を感じた。最後の力を振り絞ってそれを掴み、しっかりとそれにしがみ付きつつも、サラはこの暗黒を、この死を嬉々として彼女は待ち望んでいた。彼女は決して救いを求めようとせず、生を実感する事なく、死が予定よりも早く到達する事を思いながらただ呼吸をしていた人間であり、その人生に於いて死を望まなかった事は一度もなかったのである。
「自分で掛けたの」
クラウチは落ち着いた気持ちでサラを見る事は出来なかったし、彼女の前では落ち着いた自然な態度でいる事も出来なかった。彼は彼女がいる部屋へ入って行くと、その目もその注意力も、無意識の内に曇ったようになってしまい、彼女の状態の細々した点を見る事も、見分ける事も出来なかった。彼はただ末恐ろしい雰囲気、悲惨な有り様を見、呻き声を耳にして、訪れる度に彼は、これではとても救い難いと感ずるばかりであった。増してや、サラの状態を詳しく調べる事などは考えもつかなかった。つまり、その毛布の下に、彼女の身体がどのようにして横たわっているのか、あの痩せ細った腕や、腰や、背を、どのように曲げて寝ているのか、どうしたらそれをもっと具合の良くする事が出来るのか、せめて良くする事が出来ないまでも、幾らかでも今より楽にする方法はないのか、などという考えは全く思い浮ばなかった。少しでもそんな細々とした点を考え出すと、背筋の辺りに悪寒が走るのだった。クラウチはもうどんな事をしても、サラの生命を延ばす事も、苦しみを軽くする事も出来ないと堅く信じ切っていた。助ける道はないという彼の意識は彼女にも感じられた為に、それが一層彼女を幸福にさせた。しかし、その為に、彼は益々苦しい思いをするのだった。彼女の部屋にいる事も苦しかったが、いなければもっと悪かった。彼は絶えず色んなロ実を作っては病室を出て行ったが、そのくせ一人でいるのに耐えられなくなって、また舞い戻って来るのであった。

黒の革靴に、地面を擦る程まであるローブ、そして、耳と首とを覆う長髪。自分と変わらぬ程の大きな影を持った男──クラウチは初め、何と書くか決心する前に羽根ペンの先にインクを浸した為に、広げた羊皮紙の上に数滴の染みを作ってしまった。ポトリと最初の一滴が落ちた時、彼の中であるものが怒涛の如く崩れ去った。高く聳え立っていたそれは平坦になったと思うと、今度は陥没し始め、彼の中に暗くて深い深淵を作った。しかし、彼は自分がこれからやろうとしている事について再び考える事はせず、新しい羊皮紙にすらすらと羽根ペンを走らせた。癖のある筆記体だが分かり易く簡潔に、サラの居場所である此処の住所をそれに書き記した。クラウチは、インクの足しをせずに役目を終えた羽根ペンを机の端へと放り投げた。隣の部屋からは、彼の屋敷しもべ妖精がサラに対して呪文を唱えている声が微かに漏れていた。彼女は片っ端から身体を癒す魔法を唱えたが一向に効かず、薬屋で購入した物をサラに与えても体調は悪くなる一方であった。彼女の命は風前の灯である事は誰が見ても明らかであり、クラウチにとって彼女の死は当然に避けるべきものであった為、屋敷に現れたあの男、スネイプに文を書いたのである。この事をサラに話さなければならないと心の中で決めた時、そんな事は最も容易い簡単な事のように思われた。ところが今、この新しい事態をよく吟味してみると、それが非常に込み入った、難しいものであるような気がした。クラウチは何か非論理的な訳の分からぬものに直面して、自分がどうしたら良いのか皆目分からないでいるのを感じた。彼は他ならぬ人生に直面したのであった。いや、サラが自分以外の誰かから愛されているという事態に直面したのであった。これは彼にとって全く訳の分からぬ不可解なものに思われた。何故なら、それは人生そのものだったからである。クラウチはこれまでの生涯を生活の反映としか繋がっていない世界で送り、其処で生きて来た。そして、人生そのものに衝突する度に、それから身を外らすようにして来た。しかし、今、彼の感じた気持ちは、深淵に掛かった橋の上を悠々と渡っていた人間が、不意に、その橋が壊れており、眼前に深淵を見出した時の気持ちに似ていた。その深淵は人生そのものであり、その橋はクラウチの生きて来た人為的な人生であった。自分と同様、天涯孤独であったサラが誰かから愛され、そして、誰かを愛するかも知れないという疑問が初めて頭に浮んだ為に、彼はその思いに思わず身震いしたのであった。しかし、彼女の咳き込みや、軋む身体に荒ぶる呼吸などを聞いている内に、クラウチの思いは急にがらりと変わった。彼は彼女の事をあれこれと考え、彼女が何を考え何を感じているのかと考え始めた。彼は初めて、彼女の私的な生活、彼女の思想、彼女の希望を、まざまざと思い浮べた。すると、サラにも自分自身の生活が有り得る、いや、あるのが当然だという考えが、余りにも恐ろしいもののように思われ、彼は慌ててその考えを追い払おうとした。それこそ、クラウチが覗き込むのを恐れていたあの深淵であった。思想と感情によって他人の内部に立ち入ることは、彼には縁遠い精神活動であった。彼はこの精神活動を有害かつ危険な妄想と看做していたからである。
「一緒に逃げない?」
昨日はずっと、熱と、譫言と、意識不明の状態が続いた。真夜中近くなると、サラはもう感覚を失ったまま、脈搏さえ殆ど絶えてしまっていた。傍にいたクラウチは今夜来るかも知れない臨終の時を一種の恐怖を抱いて待っていた。彼が今まで見て来た死というのは、どれも唐突で、何の前兆もないものであった為に、彼女のものは全くの異質であった。日に日に彼女が死んで行くのを見ると、自分も同様にして何かが死んで行った──どうしたというんだ?嘗てあんなにも煌めいた輝きが、今や俺の視界から永久に消え去ろうとしているからといって。何物も昔を呼び戻せはしない。草に見た輝きも、花に見た栄光も、何物も呼び戻せはしないんだ──口を開くよりも早く、微かな驚きの閃きがクラウチのその茶玉の目、深い呻吟さと野望が張り付いた目から放たれた。
「何処へ逃げるって言うんだ」
「何処でも良い」
クラウチの精神的混乱は益々激しくなって来て、今はもうそれと戦う気力もない程になってしまった。その時、彼は急に、今まで精神的混乱とばかり思っていたものは、その逆に、嘗て味わった事のない新しい幸福感を不意に齎してくれた法悦的な心境である事に気付いた。彼は寝台の傍に跪いて、サラの腕の肘のところに頭を乗せた。その腕は衣越しに、彼の顔を火の如く焼き、彼は子供ように啜り泣いた。彼女は相手の頭を抱いて、身を擦り寄せ、挑むような誇らしさで眼を上へ向けた。
「──サラ」
彼女の名を口にすると、クラウチは自分自身でも分からない気後れを、いや、寧ろ怖いような気持ちを感じた。そして、それと同時に、彼女に対してのみ感じられる、感激に満ちた憐憫と愛とが彼の胸を一杯にした。彼はサラの手を取ろうとした。すると、彼女は咄嗟に、自分の手を求めている、太い血管の膨れ上がった、しっとりとした彼の手からさっと自分の手を引っ込めた。しかし、無理に自分を押さえ付けた様子で彼の手を握った。