×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

No choir



クラウチは暗闇が漂う湖の畔にいた。革靴の爪先で湖面を踏むと、それは細波となって辺りに響き、遠くの方まで揺れ渡った。季節は未だ冬ではないが、森の奥である此処はひんやりと冷たい空気が存在しており、葉や土の本来の香りがそれらに混じって、目が覚めるような清らかさを持っていた。幼少期、彼女はこの避暑地でどう過ごしたのだろうか。森を駆け巡り、この湖で泳いだりしたのだろうか──あの年季の入った組分け帽子がサラの頭に乗せられた時、それは躊躇する事なく「スリザリン」と言い放った。クラウチは既にスリザリンの座席に座っており、その短い、だが印象的な場面をじっと見ていた──いや、そんな事は有り得ない。彼女は最初から最後まで、子供のように生きる事を楽しまなかった。クラウチはたった数分前に殺めた死喰い人三人の遺体を処理する為に再び此処へ戻って来たのであった。一人の闇祓いの救出、そして、同胞の殺害は全くもって衝動的な行動であり、彼自身、自分が生きる為に呼吸するように当然の如く行った事柄が、果たしてこの先どう転ぶのか微塵も考えなかった。例え考えたとしても結局は無駄である事を分かっていたし、そして今更、彼女を聖マンゴや、再びこの屋敷に戻す事などは即座に放擲した。脆弱で、今も死に掛けているサラを、人殺しの俺が救う事は出来るだろうか?いや、今は何も考えまい。今はたった一つの事、奴等を処理する事だけを考えるんだ。しかし、奴等は一体どんな呪文を彼女に放ったんだ?クラウチが一歩踏み出した時、屋敷の門の前に微かな靄が掛かった。透明なそれから音もなく現れた一つの影。地面に散らばっていた枯れ葉は渦を描き、ある人間の膝辺りにまで舞い上がった。黒の革靴に、地面を擦る程まであるローブ、そして、耳と首とを覆う長髪。自分と変わらぬ程の大きな影を持った男が、眼前にある屋敷を見上げる事なく、半ば走るようにして門を潜り抜けて行った。クラウチは息を呑んだ。その男は闇祓いでも騎士団員でもなかった。何とその人物はセブルス・スネイプであった。彼の中にある男の記憶──学年が一つ上のスリザリン生、魔法薬学の天才にして、悪戯仕掛け人の標的。そして、左腕に闇の印を持ち、あの方の為に罪を犯した同胞。そんな人物が、一体彼女の家に何の用があるというのか?もしや、俺が殺めた何方かが死ぬ間際、闇の印を通じてあの男に助けを求めたか?すると、僅かに遅れて、屋敷しもべ妖精が姿を現した。小さな身体をわなわなと震わせながら屋敷へと入って行く彼女は、クラウチが放った失神呪文を受けた者であった。ああ、そうか、失神から覚めた後、あの男を呼びに行ったのだ。闇祓いではなく、あの男を──裏切り者が、こんな所にいたとは……しかし、一体あの二人には何の関係がある?彼女は闇祓い、そして、あの男は腐っても死喰い人──あの横顔、痩けた頬に凍ったような白い肌。クラウチはともすればあのスネイプの表情に何か異常な、神秘的なものを見た。つまり、彼はある特別な力や偶然の暗合が働いたように感じたのである。

サラはこの数日間というもの、危険な狂人の付添いを任された人間が狂人を恐れるのと同時に、その狂人の傍にいる事から、自分の正気までが心配になって来るといった感覚を絶えず味わっていた。彼女を助けたクラウチという男は、その内に潜んでいる狂気を少しも外へは出すまいと努めていた。しかし、その茶色の双眸に張り付いた深い呻吟さと野望は彼の生命を奮い立たせ、彼を侵し、彼を闇の中へと引き摺り込んでいた。サラは縹渺とした意識の中で、彼の呻き声や発狂する声を聞いた。時には声だけではなく、壁を叩く音や物を割る音なども聞いた。最初、彼は滅多に彼女のいる部屋に訪れる事はなく、その為に、彼女は一日の殆どを一人で過ごした。そうしている内に、聞こえていたあの呻き声や発狂する声は、彼が出しているものではなく、自分が出しているものではないかと思い始めた。酷い夢を見て飛び起きた際には、自分の喉がすっかり腫れ上がっており、唾を飲み込むと軋むように痛んだ。部屋にある暖炉の火は消える事はなかったが、常に悪寒がその身に迫っては、唇を氷のように冷たくさせた。サラは自分の存在だけは忘れないように、再び眠りに就くまで、自分が持つ名前を繰り返し唱えるのであった。そして、自分の身に及ぼしつつある不完全な呪いが、一体どのように、一体いつまでこの身を侵すのかという事も同様に考えるのであった。この事に対する後悔はなかったが、クラウチに対する警戒が強かった為に、一刻も早く記憶がなくなる事を願った。実際、苦痛は、一歩一歩激しさを増し、着々とその力を発揮して、サラを死へと近付けて行った。彼女にとっては苦しまずにいられる状態もなければ、自分を忘れる事の出来る瞬間もなく、痛み苦しまない肉体は一個所とてなかった。いや、最早この肉体についての記憶や印象や考えすらも、彼女の心に身体そのものと同じく、嫌悪の情を呼び覚ますばかりであり、苦悩の種に過ぎなかった。彼女の全生活は苦悩の感情、それから逃れたいという欲望に集中されていた。すると、サラの心には明らかな一つの転機が生まれた。彼女は死というものが全ての欲望の充足であり、幸福であると感ずるようになったのである。以前、彼女の苦痛や欠乏によって呼び起された個々の欲望は、飢餓や、疲労や、渇きなどと同じく、自分に快感を与える肉体的な機能の遂行によって満足感を与えられていた。ところが、今や欠乏と苦痛はそのような満足感を齎さず、却って満足感を得ようとする試みは、新たな苦痛を引き起こすばかりであった。こうして、全ての欲望は、全ての苦痛とその源である肉体から逃れたい、という一つの欲望により一層集中される事となった。

サラは床に就くと、眠ったのか、眠らないのか、時々病人らしく、寝返りを打っては咳払いをしていた。咳が出来ない時には何かを呟き、時には重々しく溜息を吐いたり、忌々しそうな表情で固く瞼を閉じているのだった。別室にいても、クラウチはそれが耳につき、長い間眠る事が出来なかった。彼の頭に浮んだ思いは種々雑多であったが、どんな思いも帰するところはただ一つ、死という事であった。全ての者にとって避ける事の出来ない終末である死が、今初めて、抵抗し難い力を持って彼の前に現われた。そして、この死は、夢うつつの中で呻いている彼女の中に潜んでいる死は、決してこれまで彼が考えていたように縁遠いものではなかった。そうした死は、彼自身の中にもいるのだった──彼はそれを感じた。それは今日でなければ明日、明日でなければ三十年後の事かも知れないが、それでも結局は同じ事ではないか?では、この避ける事の出来ない死とは、一体何ものであろうか?彼はそれを知らなかったばかりでなく、嘗て一度も考えた事がなかった。それは、他でもないサラという人間の死が、他の一切のものとは異なる為であった。それを考える術も知らなければ、考えるだけの勇気もなかったのである──俺は今生きている。ある事を成し遂げようと欲している。しかし、全てのものには終りがあるという事を、死というものがある事を、すっかり忘れていたんだ。クラウチは暗闇の中にある椅子の上で、上体を屈め、張り詰めた思いに息さえ殺しながら、じっと考え込んだ。しかし、彼が張り詰めた思いになればなる程、益々次の事が明瞭になって来るのだった。即ち、それは疑いもなく、その通りなのであり、人生に於けるたった一つの小さな事実、死がやって来れば全ては終りを告げるのだから、何も始める値打ちはないし、しかも、それを救う事も不可能なのだ。自分はこの事実を忘れていたのだ。ああ、それは恐ろしい事だが、事実には違いないのだ。それにしても、俺は未だ生きているじゃないか。もうこうなったら、何をしたら良いんだ。一体何をしたら良いんだ?彼は絶望的な調子で思いに耽りながら、重い腰を上げた。
「食事、もう必要ない」
クラウチは久方振りにサラの声を聞いた。それは聞き覚えのある、気持ちの良い、静かで落ち着いた声、親しげで、高ぶらぬ声であった。サラ・バラデュールという人間、彼女の言う全ての事には、はっきりとした個性が表れていた。それは昔から、出会った頃から変わらぬ彼女の特徴であった。一語を口にする毎に、新しい魅力、新しい精神の輝きが、面差しから射して来るのが見られた。冬の湖のような冷たい瞳は多くを語らず、しかし語った際には、それらは彼の心に留まり、彼の目に焼き付いた。もう死んでしまったと思われていた感情が、徐々に蘇っては高まっていき、忽ちクラウチの胸を一杯にしてしまった。その顔には所々に赤い染みが現れており、どんよりとした茶色の目は真面に彼女を見据えていた。
「全くの的外れだ。俺はあの方にお前を引き渡す事はしない」
「何故?」
途端、その灰色の眼の奥に何かがきらりと閃いた。最もその火はすぐ消え去り、依然として水晶のように澄澄み渡った眼に戻ったが、クラウチはその一瞬に僅かな幸福を感じた。
「するべきと思うけど。それがあなたの、」
クラウチはただ、激しく咳き込んだサラを見詰めるだけであった。彼には何か特別な知識、医術の一つも持ってはいなかった。今まで一度もそのような魔法を他人に使用した事はなく、する機会もなかった為に、彼は何をすべきか皆目分からなかったのである。彼女の口に当てた細い指の隙間からは黒い血が滲み出ており、寝台の上で身体を丸めると、彼女は固く瞼を閉じた。如何に生きるべきかという問題が漸く、幾らかはっきりして来たかと思うと、忽ち、解決の出来ないあの問題──死が現われて来るのだった。彼女は死に掛けている。恐らく春まで保たないだろう。では一体、どうやって救いの手を差し伸べれば良いのか?彼女には何と言ったものだろう?この死について俺は、何を知っているというんだ?知っている事といえば一つ、彼女の死は、彼女の中で育ちつつある死は、俺が殺めて来た奴等の死とはまるで違うものって事だけだ……。

Florence and the Machine - No Choir