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Last of the true believers



それはからりと晴れあがった、この冬最後の、凍ての厳しい日だった。城の近くには馬車や、橇や、生徒達が列を成して並んでいた。明るい日の光にとんがり帽子をきらきらさせながら、入口の所や、棟木に木彫りの飾りを付けた、綺麗に掃き清められた小道に群がっていた。雪の重みで、巻毛のような枝を全て垂らしている庭園の白樺の老樹は、まるで新しい荘重な衣で飾り立てられたみたいであった。クラウチは禁じられた森へ向かってその小道を歩きながら、自分に言い聞かせるのだった──落ち着いていなければ。俺は何をそわそわしているんだ?どうしたというんだ?黙れ、この馬鹿者め──彼は自分の心に向かってそう叫んだが、彼が落ち着こうとすればする程、益々息が詰まって来るのであった。一人の生徒が遠くの方から彼に声を掛けたが、彼は相手が誰かも見分けが付かぬ程だった。橇を下ろしたり上げたりしてガラガラと鳴る鎖、滑り落ちる手橇の音、陽気そうな生徒達の声はすっかり聞こえなくなっていた。彼は更に奥へと歩いて行った。彼の眼前には太い幹を持った大樹が限りなく姿を現しており、途端、その中に、直ぐサラの姿が認められた。クラウチは心臓を締め付ける歓喜と恐怖の思いから、彼女が其処にいる事を知った。彼女の身なりにも、仕草にも、何処といって少しも変わったところはなかった。しかし、彼にとっては、この老樹の群集の中で小柄な彼女を認める事は、刺草の中で薔薇の花を捜すように最も容易かった。全てのものが彼女の存在によって輝いていた。彼女こそは、周囲の全てのものを明るく照らす微笑みであった──俺は、本当にこの雪の上を、彼女の所まで行けるだろうか?──クラウチはふとそう考えた。サラのいる場所は、まるで近付いてはならぬ聖地のように思われ、一瞬、彼はそのまま帰ってしまおうかとさえ思った。それ程に彼は恐ろしくなったのだ。彼は漸く、怯む自分を押さえ付けて、彼女の元へは歩けば行けるのだ、たったそれで彼女の元へ行けるのだと判断する事が出来た。彼は相手が太陽でもあるかのように、長い間、彼女を見詰めるのを避けながら森の中を進んで行ったが、しかし、彼女の姿は太陽と同様、見ないでも、それと直ぐ分かったのである。クラウチは若者が体験するような感情を味わった。心臓は激しく高鳴り、何一つ考えを集中させる事が出来なかった。踏む事によって軋む雪の清らかな音が、サラを振り向かせた。彼女の輝かしい喜しげな視線は、彼にその美を浴びせ掛けるのであった。
「セストラルか」
クラウチは何もない、ただ足跡が刻まれているだけの地面を見渡した。今正に新しく刻まれた物もあれば、じっと其処にいて動かない物もあった。サラが投げた生肉は音もなく静かに姿を消し、その代わりに、辺りには小さな足跡が幾つも出来上がった。
「──見えないんだね」
クラウチは足を止め、その場に佇立した。目には見えないが存在はしている為、動くと彼等と衝突するかもしれない、もっと悪い事には踏み付けるかも知れないという考えが彼の中にはあった。そんな彼の元へサラは自ら歩み寄った。危惧している彼であったが、彼の周りにはセストラルは一匹もいなかった。存在を知る事が出来る人間にのみ、彼等は近寄る習性がある為である。クラウチは死を見た事がなかった。死に近付いた事もなければ、死は全く別の所にあるのではなく直ぐ傍にあるものだという認識すらなかった。サラが彼に近付いた為に、セストラルが持つその白い目、死に喩えられるその目ら彼の方へと転じられた。
「セストラルの子供が其処に、あなたの傍へ近寄って来る」
「此処か?」
クラウチが右手を差し伸べた。しかし其処にはおらず、ただ空気に触れているばかりであった。サラが居場所を示すように手を差し伸べると、彼女が開いた手の先に、彼は同様にして移動させた。彼の指先が触れたのは翼であった。骨に直接触ったように感じられ、クラウチは思わずサラの顔を見た。美しい毛並みや、触れる事によって感じる体温さえもない。ただあるのは物としての性質であり、存在を知る事が出来る人間の意識の中でのみ、その生を発揮させる。その小さな子供は骨格の浮き出た顔を彼の膝に押し付けていた。
「私の故郷にも生息していたの。少し色が違ったけど」
こうして呼吸をし、心臓を働かせ、全くの同じ場所に立っているのにも関わらず、見ているものが異なる。クラウチはあの光景、呼吸すると冷たい空気が入る事によって肺が凍り、吐血で窒息死をする光景を見た事がない。あの自然の摂理、魔法で防ぐ事が出来ても、生命力が弱まるとそれで死に至るという、残酷な摂理を目の当たりにした事がない。恐らく彼の人生の中で、この先にも、その光景を見る事はない。雲の間から明るい日が差した事によって、雪が張った枝の模様が子供の翼に影として浮かんだ。
「実は、終戦後にお前の国へ行った事がある」
それは戦争が終結して約二年後の事であった。クラウチは降り立った鉄道のホームから見慣れない形をした、異常な建物に満ちた不思議な街を見た。冬の澄み渡った空気と石炭が燃える匂い、辺りに記されている読む事の出来ない言語、そして、ホームに行き交う、この社会での階級が顕著な身なりの人々。通常、人間が自分にまるで関係のない、異なった生活様式を見た時に感じる、幾分羨ましいような不安な好奇心を彼は感じた。明らかにこの街は、この国は、己の全生活の力を傾けて生きていた。彼は市中に満ちた生の脈動を見て取ったばかりでなく、この大きな美しい肉体の、呼吸とも言うべきものさえ感じたのであった。
「お前を探したんだが……其処には何もなかった」
当然の事とは知りながらも、サラの事を想起しながらクラウチは力を尽くした。サラ・バラデュールという人間が此処で生まれ、此処に存在している筈であると自分に言い聞かせたのである。しかし、ただ彼はその国の呼吸、これから成長しようとする躍動を感じたのみであり、其処には何ら彼女の面影はなかった。己の全生活の力を傾けて生きる、その中に彼女という存在はないと言わんばかりに、その異なった生活様式、街を彩る荘厳な建築物は其処にあった。サラ・バラデュールという小さな存在は、この国の必要な犠牲、この国の血となり、それでもってこの国は輝いているのだ。彼にはそう思われた。「クラウチ」とサラは静かに名前を呼んだ。凍結した湖の上で、脱色した山々を背に戦った。何の為とも分からず、ただ国の命令に従い、我々と何ら変わらぬ人間──忍耐力がある人間、勇気がある人間、誠実な人間、信仰心を持つ人間に杖を向けた。湖を真っ赤に染める人間に対し何もせず、その身にやって来るであろう死を見届ける事なしに、我々は前へと進んだ。
「私は戦死したかった」
生の消滅を前にした恐怖の他に引き裂かれた事と精神的な傷とが感じられ、その傷は肉体の傷と同じように、時には死に至り、時には全快するが、 必ず痛みを伴い、また、痛みを掻き立てるような外からの接触を恐れる。終戦後、サラは祖国に留まり、渡英する事は考えたが、しなかった。それは他でもない、例えそれがごく小さなものであろうとも、外からの接触を恐れたからであった。
「生き残った事を後悔してるの、今も」
サラの声は震え、心臓は張り裂けんばかりであった。何故私はあの時、助かったのか?金色のスニッチがポツンと、自分の血で真っ赤に染まった地面の上に転がってあった。それは血の細波を立てる事をせず、ただ静かに横たわっていた──しかし、祖国に留まり、凡ゆるものからの接触を避け、たった一人で生きても、その傷は全快するどころか悪化する一方であった。自分の生のみをまじまじと見詰めるその果てのない時間は、彼女に無上の戦慄を齎した。
「でも、此処に来たのはね」
その切ない声は、この世ならぬ天から聞こえて来るかのようであった。クラウチはサラの眼を真っ直ぐに捉えた。彼女に接する彼の態度は無造作で闊達であったが、その心も瞳も、彼女の言う事為す事の一つ一つを、彼の親切で潔白な目が絶えず追い慕っていた。
「此処に、来たのはね、」
私は自分を改めて、運命が自分に課した僅かばかりの苦しみを、もはやこれまでの習いのようにくよくよと思い煩う事は辞めるつもりだ。私は現在のものを享受しよう。過去は過去としよう。もし人間が、どうしてこんな風に作られたのかは知らないが、これ程にも空想力を働かせて不幸な思い出に耽溺する事をしないで、もっと虚心に現在に堪えて行きさえすれば、人間の世の苦しみは遥かに少ないに違いない──サラは如何にも悲しそうな、と同時に如何にも優しい微笑を浮かべながら、痙攣的に啜り泣きの込み上げてくる胸を、両手でじっと押さえて声に出してこう呟いた。
「あなたが此処にいると思ったから」
サラはおずおずと手を差し伸べた。二人の手は離れなかった。クラウチは何も言わずに、たった一人、サラ・バラデュールを見詰めた。其処には彼等二人だけで、誰も見ている者はなかった。
『天の凡ゆる祝福が君の上にあらん事を』
二人は口を利こうとしたが出来なかった。涙が二人の目には浮かんでおり、何方も青白く痩せていた。しかし、この病み疲れた青白い顔には、新しい未来の、新しい生活への全き復活の朝焼けが既に明るく輝いていた。二人を復活させたのは愛だった。互いの心に、もう一つの心にとっての尽きる事のない生の泉が秘められていたのだ。
「俺もだ」
光立ちてあれ、お前の魂の安らう所に。お前の麗しい魂、お前は聖な光に包まれていた。今からは、その魂は永生を持つ。俺は嘆く事をしないであろう。神が、お前と共にあると知る故に──我が命なる君、われ君を愛す。
「お前はいつも心の中にいたから」
我が命なる君、われ君を愛す。われ、君を愛す……。クラウチはもう我慢する事が出来なかった。彼は優しい愛に満ちた涙を流して、他人や自分や、また、我人共に抱いている迷いの為に静かに泣いた。

Jessie Ware - Last of the True Believers