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Instead of yesterday’s withered hope



黄昏時になるに従って空は晴天になり、風は全く静まった。魅せられるような晴れ渡った夕暮れであった。湖面は油を流したようであり、くっきりと鮮やかな夕陽はその上を照らしながら沈んで行った。こんな美しい光景がまたとあろうかとサラは思った。大広間は既に人が僅かになっていた。消灯時間が迫っていた為に生徒は寮へと引き上げ、其処に残っていたのは見事に酔っ払った教師陣とその関係者であった。何処から持って来たのか分からぬ酒を飲みながら、地面に胡座をかいて雑談している教師や、生徒で溢れ返っていた為に出来ずにいたダンスを此処ぞとばかりにしている教師もいた。音楽は生演奏ではなくなっていたが、誰かが持って来たレコードが小さな音量でひたひたと流れていた。それぞれが自分の世界に浸っており、この聖なる夜、クリスマスパーティーを楽しんでいた。
「酷い有り様だ」
眼前にいる、荒れた教師陣に嘲笑したクラウチは燕尾服を着ていた。漆黒のジャケット、その襟は本繻子で光沢を放っており、白無地のシャツにタイを締め、懐中時計を繋げている銀のチェーンが胴着から見えていた。そして足元には洒落たエナメルの革靴があった。普段、彼は、深い紫や赤など色の入った、少し派手なものをジャケットの下に着ていた為、このような白と黒のシンプルな服装は斬新であった。しかし、派手な色を難なく着こなすこの長身の男は、何を着ても、例え白の無地であっても、一層それらは彼の生まれ持った品格に拍車を掛けていた。正に其処には、こざっぱりとした一人の貴族が立っていた。しかし彼は周囲に向かって、特に女子生徒に向かってだが、「俺に近寄るな、そして声を掛けるな。俺はただ此処にいるだけだ」と顔で示しており、彼にダンスの申し込みをするどころか、近寄る事が出来た女子生徒は誰一人としていなかった。
「本当に」
落ち着いた色に瞬く瞳を、または黒々と耀う瞳を、または聡明な眉の影に柔らかに光る瞳を、クラウチは見た。サラは今までもその美しさで彼を驚かせたが、今夜はその日々とはまた違って特別であった。彼女が放つ嫣然さが、その淑やかな身を包んでいる濃紺のドレスと相俟って、ことに美しかったのである。煌めくダイヤモンドが鎖骨を飾り、露出している肩や腕には清らかな優婉さがあった。生と美に張り切ったサラの姿は、周囲に対する無関心な表情と一緒になって人々の目を射た。その灰色の眼は誰を求めるでもなく群衆を眺め、宝石を嵌めた華奢な手は、誰に触れるでもなくただ彼女の傍にあった。彼女は最初に大広間へその姿を現したが、また直ぐにその姿を消した。ダンスの申し込みをしようと考えていた男子生徒の目が幾ら彼女を探しても見つからなかった。馥郁たる明眸を持ったサラは、生徒達が寮へ引き上げた後、また姿を現したのであった。
「折角だ、一曲どうだ」
クラウチはサラの方へ身体を向けた。彼の気難しさのある、厳かな自信は、今夜は一段と磨きが掛かっていた。そんな彼に向けられた、その美しい灰色の眼の中で溶け合っている崇厳と謙抑の表情は、限りなく魅惑的であった。その瞳と微笑に現れた抑え切れぬ震えるような輝きは、彼の心臓の動悸を異常に昂ぶらせた。
「覚えてないかも」
「大丈夫だ、転んでも誰も見てない」
「あなたが見てる」
「確かに」
サラの身体に触れるか触れないかまで近付いて行った時、クラウチの眼差しは特別優しく輝いた。彼は幸福そうな、慎ましくも満ち足りた微笑を浮かべて、恭しく、静かに彼女の方へ身を屈めると、その大きな、幅のある手を差し伸べた。彼女は今、自分が全く別の世界に捕われているのを感じた。それは彼も同様であった。

一曲踊った後で二人は外へと出た。廊下を少し歩いては、果てまで広がっている湖を見渡せる場所で立ち止まった。湖は静かで和んでいた。其処に立ち、それを眺めていると、ある思いがサラの胸に浮かんで来た。何処へ行こうと存在している大地と海、一体これは何なのであろうか。どういう風に創られたのであろうか。一体自分は何なのであろうか。自分ばかりではない、野生のものであれ、飼育されたものであれ、人間であれ動物であれ、生きとし生けるものは皆何なのであろうか。また、何処から来たのであろうか。言うまでもなく、我々は全て、ある秘められた「力」によって、大地と海、大気と青空を創った「力」によって創られている。だがその「力」は一体何ものなのだろうか。サラは欄干に頬杖を突きながら、月光輝く豊かな水面を、流れに沿って無言のまま眺めていた。
「この休暇は、何か予定が?」
クラウチの言葉にサラは微かな微笑を示した。ただ自分が以前とはまるで掛け離れた、不思議なもの狂おしい世界、善悪賢愚の見境も付かない世界へ来てしまって、もはや後戻りする事が出来なくなったのを感じたばかりであった。彼は続けた。
「もし良かったら──湖水地方を車で回ろうと思ってな。ケント川の辺りにあるケンダルから北上するんだ。ケンダルからウィンダミア、アンブルサイド……そして南下して、カンブリア・コーストのカートメルへ行く」
クラウチの頭の中には、その詳細に至るまでの旅行の計画が、日常生活に於いても常に存在した。彼は今まで旅という旅をした事がなかった。此処へ行きたいとも、これがしたいとも思わず、ただ余生を過ごしていた。そんな彼であったが、サラと再会するその少し前に心境が変化し、何処か此処とは違う所へ行きたいと思うようになったのである。それからは暇があれば計画を立てた。日数、目的地、手段を熟考して決め、後は行くだけであった。
「俺、マグルの運転免許を取ったんだぜ」
マグルと殆ど接点がない暮らしをしていたクラウチが首都へ出向いた時の事である。臭いや音が忙しなく漂っている道路には、箱のようなものが行列を成していた。明らかに面倒そうな、意味の分からない物体。動く際には変な、地を這うような音が鳴り、どうやら中にいる人間が操作しているようであった。すっかり癖になっている、姿くらましと姿あらわしを繰り返しながら旅をするのもどうかという疑問が、その時、彼の頭に植え付いたのである。そして特に、二人並んで操作している車が目に留まった。一方の人間は何もしていないようであったが、何故だかその風景が特別なものに見えたのである。あのような、魔法の存在すら感知せぬ間抜け面のマグルであっても、人生を豊かにしようとしている。それは我々と何ら変わらぬ、いや、全く同じ事なのだ。そう思った彼は、魔法界とは対極にある未知の世界に、少しではあったが、興味が沸いたのである。それからというもの、努力の連続ではあったが──サラをはっとさせると同時に、その心を強く捉えた悪戯な表情。彼女はクラウチが磊落とした気性で、何一つ隠し立てしない事はよく分かっていたが、それにも関わらず、彼の中には何かしら別の世界が、サラには想像もつかない、複雑で詩的な興味に満ちた崇高な世界があるように思われた。
「本当に?」
「ああ。随分と苦労した」
「卒業試験より?」
「卒業試験より」
サラの灰色の瞳、正に冬の湖のような瞳には幻想的な明かりがあった。その明かりを、彼女の顔を見るのがクラウチは好きであった。すっかり失くしたように思われていた生命の鉄の弦が、緩やかに、しかし力強く振動するのであった。
「楽しそうだね。車、乗った事ないし」
「仕組みはサッパリだが、気に入ると思う」
サラはクラウチのその目の中に、自分には開かれていないあの特別な世界を認めた。彼の中にのみ存在するそれは、彼を人間たらしめているものであった。彼女は今、自分を自分として感じ、それ以外のものになりたいとは思わなかった。ただ今は、前よりももっと良い人間になりたかった。
「本当は、教師になる筈じゃなかったんだ」
クラウチは欄干に両肘を付いた。上質のジャケットには深い皺が幾つも現れ、膝丈まで垂れている二つに分かれた燕の尾状が力無く揺れた。
「そうなの?」
「ああ。欠員が出て、俺が候補に上がったという訳なんだ」
クラウチの横顔──痩せ痩けた頬、筋が通った高い鼻、厚さのない薄い唇には哀愁さが唸りを立てていた。十五歳の青年であった彼は、一人の男に、幸福とは掛け離れた、深淵を覗き込んだ男になっていた。
「話が来た時、教師なんて真っ平御免だと思ったよ」
クラウチはふと右手を伸ばした。今宵も良夜であった。月が炯々と存在を主張している為に、周りを囲んでいる星々はそれに負け、明かりを全く失っており、其処だけが闇に呑み込まれていた。
「後悔してる?」
「──いや、」
その大きな手、角張った指を月に近付けた。それを捕まえるように、しかし手の中に収めるのではなく、それに触れるように指を僅かに動かした。光立ちてあれ、お前の魂の安らう所に。お前の麗しい魂、お前は聖な光に包まれていた。今からは、その魂は永生を持つ。俺は嘆く事をしないであろう。神が、お前と共にあると知る故に──覚えているもんだな、あの時、言わなかった事であっても。変わらずにこの胸にある。サラが出会ったのは、じっと自分に注がれる、不安そうな、痛々しいまで気掛かりげな彼の眼差しであった。其処には愛があった。彼の愛が、其処にはあった。
「部屋へ戻ろう。後始末は酔っ払い共がやってくれる」
「お酒ってホグワーツにあるの?」
「奴らは自室に隠してあるんだ。ベッドの下とかな」
「飲んだ事ある?」
「ホグズミードの安い酒の方がまだマシだ」
クラウチの笑った顔は、見る間に、険しい表情に変わった。しかし、それは自分の内気さに打ち勝とうと向きになったからであった。二人は歩いた。言うべき事が互いにはあったが、言わずに、ただ私室へと続く廊下を二人で進んだ。
「おやすみ」
クラウチはサラの優雅な姿が隠れるまで、その後を目で追っていたが、その顔にはずっと微笑が漂っていた。こうした一切の事がどういう結末になるか、彼には分からなかったし、また考えてみようともしなかった。ただ、彼は今まで虚しく費やされていた自分の力が、全て一つに集中され、凄まじいエネルギーで、一つの幸福な目的に向って突進して行くのを感じた。彼もその為に幸福であった。彼は自分がサラに真実を語った事だけを知っていた。サラを部屋まで送った時、彼は、「俺はお前のいる所へ行くのだ。今の俺はこの人生における一切の幸福も、生活の唯一の意義も、ただお前に会い、お前の声を聞く事でしか認めていないのだ」と全身全霊で語っていたのである。彼が心に思っていた事を、まるで言葉で打ち明けたかのように、サラは彼のその言葉を察知した。彼女がその事を考えているかと思うと嬉しかった。クラウチは一晩中眠らなかった。自分の私室へ帰ると、彼は彼女に会った時の一切の光景と、彼女の語った全ての言葉を、絶えず記憶の中から探り出していた。そして、将来起り得るであろう様々な光景を、胸の痺れるような思いで、あれこれと思い描くのだった。