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Lost and found



クラウチは競技場の芝生に足を踏み入れた。その中央には深緑色のユニフォームを着た選手が集まっていた。猫背気味の、大股で此方へと歩いて来るクラウチの姿に気が付いたチームのリーダーは、相変わらず眉間に皺を寄せて不機嫌そうな彼へと一目散に足を動かした。
「調子はどうだ」
「応募して来た奴はみんな無能でしたよ」
「彼奴は?」
「今から見るところです」
クラウチはある生徒に瞳を転じた。大柄な選手の中にポツンと一人、小柄な生徒が立っている。彼は先日、クラウチの元へ解答を見せに来た生徒であった。あれから勇気を奮い起こして応募したのだ。しかし側から見ると、今正に上級生からの虐めを受けているかのようであった。
「あの新しい先生、スリザリンの元シーカーなんですって?」
サラ・バラデュールの事である。彼女の名字は稀有で、しかも発音がやや厄介な為に、生徒から「あの先生」、「変わった名前の先生」と呼ばれていた。外国語に長けた人間にのみ、正確な発音をする事が出来る。クラウチはその生徒からリーダーへと視線を流した。「あの新しい先生」ではない、「バラデュールだ」と彼は発音してやりたかったが、止めた。発音出来ない奴は一生出来なくて良いと思ったからである。
「彼女がどう言うか分からないが、俺が連れて来よう」
「先生が?珍しいですね。あの先生の元へ誰が行くか僕らで決めていたのに」
「お前らじゃ無理だ」
クラウチは今にも泣き出しそうな生徒を再びちらりと見た。生徒はその手を微かに震わせながらじっと芝生を見詰めていたが、クラウチには、他でもない彼がシーカーの地位に収まる人間と思われた。肝が据わっているのだ、本人は未だ自覚していないが。
「ま、期待はするな」
その生徒がふと顔を上げ、クラウチの存在に気が付いた。途端、控えめな笑顔であったが、彼ににっこりと挨拶をした。
「首を長くして待ってますよ」
太陽は垂直に立った山腹に遮られて、谷になっている路面を照らさなかった。そこは冷たくじめじめしていた。クラウチの頭上には晴れやかな九月の空が広がっており、高低入り混じった鐘の音が楽しげに響き渡った。サラの自室は偉く階段を上がったところにあった。日当たりが良い場所で、途中の階段にも窓からそれが差しており、随分と眩しかった。螺旋階段を上り切る頃には、クラウチは僅かに汗をかいていた。しかし彼の心臓、昨夜ゆっくりと緊張した鼓動を始めたものは、全身に血液を送り出す事に忙しかったのではなく、愛すべき価値のあるあの姿を見る事に対する心地良い拒絶を表しているのであった。彼はサラの表情、一種独特な慈しむような、優しいところがあった表情を思い浮かべた。扉をノックしようと右手を差し伸べた時、その厚い扉は一人でに開いた。最後固定されたように重々しい音を出したそれは、部屋全体を彼に見せた。すると空の殆どを見渡す事が出来る巨大な窓が彼を迎え入れた。その前には一つの机、羽根ペンと本が数冊置いてあるだけの、何の装飾、個性を表さない素朴な部屋であった。写真一つない其処は部屋というよりも使用人の物置きという印象を受けた。クラウチが恐る恐るその部屋に足を踏み入れると、其処は静謐と沮喪で溢れていた以前までの生活を彼に思い出させた。しかしそれらとはまた別の、全く別のものが此処にはあった。彼が知悉している孤独さや不幸さではなく、それは彼が理解し得ないものであった。クラウチはその窓の傍へと近寄った。それは城の内側ではなく外側を向いており、測り知る事の出来ない無限の空、茫漠とした森、そして海宛らの灰色の湖を見る事が出来た。サラのあの眼元や微笑に溢れていた、あの生き生きした表情。それが跡形もなく消えていた。生命の火が消えてしまったのか、それとも何処か遠いところに隠れてしまったのか、彼には分からなかった。

サラは長い螺旋階段を見上げる事なしに上がり始めた。一定の速度を保っていたが、彼女が汗を滲ませる事も、彼女の心臓が特別に働き掛ける事もなかった。日が差していてその場は暖かかったが、彼女にとっては、今踏み締めている石畳のようにひっそりと死んでいた。自分の辺りは常に、全て死のように静まり返っているように彼女には思われた。人生初の授業──新しく就任した教授特有の、長い自己紹介をしなかった事に生徒達はやや困惑こそしていたものの──望外上手くいったように思う。螺旋階段の頂上へ近付くと、自室の扉が開いている事に気が付いた。サラは全く無意識の内に杖に利き手を添えたが、その中にいる人間を見ると、そっとその杖を収めた──此処は英国で、私は今、ホグワーツ魔法魔術学校にいるのだ。何も起こらない、いや、起こる筈がないのだ……。一点物の背広に身を包んだ男が一人、其処にはいた。広い肩幅、すっかり伸びた身長。その漆黒の背広に隠れている、華奢だが筋肉質な体躯。そして、乱れ一つない茶色の髪。
「クラウチ?」
此方へ振り返った彼の表情、彼の茶色の双眸。その顔には何かはにかんだような、驚いたような表情が浮んだ。しかしまた直ぐに、彼はその目を輝かせ優しく微笑しながら、現れた彼女をじっと見詰めるのであった。サラはクラウチのその一連の変化を一瞬たりとも見逃さなかった。正に目の前の男は、他でもない自分によって不幸にも、そして、幸福にもなり得るという訳であった。
「すまない、勝手に入った」
クラウチは格別響きの高い、貴族らしい上低音でものを言った。そんな彼の声を聞くと、彼女は痙攣で喉を締められるような思いであった。最後に聞いたのは、未だ声変わりを終えていない少年の声だったからである。
「大丈夫、勝手に開くようにしてるから」
サラは眼を離さずにクラウチを見詰めたまま、自分でも何の為とも分からず、微笑を浮かべた。彼女は自分がこの関係を理解出来ていないのを感じ、この相手の男に対してどんな感情を持つべきであるかを、自分ではっきりさせようと努めながらも、それが出来ないでいるのであった。
「今、クィディッチの練習をしてるんだが来ないか?」
しかし、それと殆ど同時に、サラの顔は俄に真面目な、気掛かりげな表情になった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがクラウチを驚かせた。彼は今まで彼女のそんな顔を見た事はなかったし、想像した事もなかったからである。