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It is perfect in every moment of its existence



英国に凍てつく冬が訪れようとしていた。青空は厚い鉛色の雲に覆われ、太陽は最早その姿を隠していた。キングス・クロス駅への特急列車に乗る為にクラウチとサラは駅にいた。其処には彼等同様、帰国する生徒の見送りがちらほらといた。二人共に、これ程に静寂に包まれた駅を知らなかった。たった数人を乗せる列車は、再び彼等を乗せて此方へと戻って来る事はない。此処にいる誰もがそう思っていた為に静かであったのである。
『これを君に』
クラウチはスニッチをローブのポケットから取り出した。早速輝きを放っているそれは彼の手を離れると、翼を忙しなく動かしながら飛び立った。そしてサラの手が届く範囲をぐるぐると旋回して彼女を見上げた。それは彼女が最初に捕まえたスニッチであった。
『ありがとう。どうか元気で』
サラは右手を差し伸べた。その手は羽根ペンを握り、薬を調合し、スニッチを捕まえ、そして高尚な魔法を操った。彼女の魂の表れである魔法は彼女の意のままに動き、彼女の秀麗さを表した。
『君も』
光立ちてあれ、君の魂の安らう所に。君の麗しい魂、君は聖な光に包まれていた。今からは、その魂は永生を持つ。僕は嘆く事をしないであろう。神が、君と共にあると知る故に──クラウチはその手を握った。
『天の凡ゆる祝福が君の上にあらん事を』
最後に二人の目が出会った時、その眼差しは隔てのない口を利いた。クラウチは僅かに揺れ始めたサラの柔らかな宝石宛らの眼を見詰め、彼女の額に優しく接吻した。すると忽ち明るい光が彼女の顔に差し、その悲しみと喜びを同時に照らし出した。
『さようなら、バーテミウス・クラウチ・ジュニア』
彼女は、たった今開いた花のような美しさに満ちた少女であった。十五歳の、無知な魔女であった。

『恋人とか、いらっしゃるんですか』
彼女にとってそれは、やっと口から出す事が出来た言葉だった。ホグワーツの新米教師からの呼び出しにクラウチは特に驚きはしなかった。小綺麗でさっぱりとした美男子である彼は、女性の眼には大層魅力的に映った。近寄りたいが、いざ近寄ると酷い火傷を負いそうな、不気味で掴めないところがある一方で、毅然として勤勉なところが多くの女性の心を射止めたのである。クラウチは三十路を過ぎようとしていた。周りは結婚をしたり、子供が生まれたりと、無意識の内に顔に表れる幸福を周囲に放っている人間で溢れていた。新米教師のその言葉はクラウチに届いた。しかし彼は彼女を見ながらも、その瞳の奥は遠くを見ていた。彼が意識を向ける方向──北の国では今も尚、戦争が続いている事を、果たして目の前の彼女は知っているのだろうか?此処からは随分と遠くにあって、その国の戦争は英国には何の影響も及ぼさない。この空の下、自分は長く待ち続けている人がいる。冬の、凍ての厳しい風がクラウチの髪を揺らした。こんな風、お前なら何とも思わないんだろうな……。
『恋人はいない』
瞼の裏に浮かべたサラの顔立ちはもう明瞭に思い出す事が出来なくなってしまった。彼女の凛とした声が未だ微かに残っているだけである。もし彼女が無事で帰って来たらどうするかを、クラウチは思い描いてみようとした。どういう風に自分が彼女に接したら、彼女は再び自分の大切な人になってくれるだろうか?しかし彼はそれを思い浮かべる事が出来なかった。彼は空恐ろしくなり、はっきりとした想像は何一つ浮かんでは来なかった。他の誰かとなら、彼は直ぐに未来の情景を作り上げる事が出来た。それは全て頭で拵えたものである上に、彼はその鋭い洞察力から彼女達の中にあるものを何もかも知る事が出来るからこそ単純明快だった。ところが、サラが相手だと将来の人生を思い描く事が出来なかった。というのは、彼はサラ自身を理解しておらず、ただ愛しているだけだったからである。
『だが、もう心に決めた人がいる』
自分は彼女という人間を愛した。だから此処で待っている。彼女が生きていようと死んでいようと、ただ自分は此処で彼女を思う。彼女が帰って来るまで待つのだ。ただそれだけだ。愛しているから、待つのだ。それに於ける覚悟もした。その時、彼女の死が訪れたならば、自分なりの別れもするつもりである。だから自分に彼女以外の人間など不要なのだ。人生で大切な人は一人で良いのだ。
『すまないな』
果たして彼女は覚えているだろうか。此処で過ごした、短くも楽しかった最良の日々の事を。そして、彼女に心を捧げたこの男の事を。どうかもう一度お前に会いたい。祖国に全てを捧げざるを得なかったお前に。

クラウチは時々不可解な気持ちに見舞われた。自分がこれ程にもただ彼女だけを、これ程にも熱く、これ程に胸一杯に愛して、彼女の他には何も知らず、何も解せず、何も持ってはいないのに、何故一国の戦争が、運命が、自分から彼女を奪う事が出来るのだろう?奪う事が許されるのだろう?
「クィディッチ、来年は優勝出来ると良いですね」
手入れされた黄金のトロフィーを無言で眺めているクラウチを見て生徒が言った。常に忿懣と呻吟に迫られている彼の横顔が、今は眉間に皺を寄せておらず、代わりにその双眸の奥に隠れている沮喪さが表へと出ていた。生徒は、このバーテミウス・クラウチ・ジュニアという人間をそのようにさせている原因は一体何であろうかと思った。この人は何をその胸に秘めているのだろうか?何を信条とし、何を至福とするのだろうか?
「優勝するさ。絶対にな」
光立ちてあれ、お前の魂の安らう所に。お前の麗しい魂、お前は聖な光に包まれていた。今からは、その魂は永生を持つ。俺は嘆く事をしないであろう。神が、お前と共にあると知る故に──彼女のあの手を取った右手に瞳を転じた。
「僕、シーカーに応募しようと思うんですけど……」
「大歓迎だ。確か飛行術は得意だったな」
「でも、歴代のシーカーはもっと凄い人がいますから」
しかし時が経つに連れ、クラウチはひっそりと嘆くようになった。それからはもう、日も月も星も依然としてその運行を続けながらも、彼にとっては昼もなく夜もなくなり、全世界は身の回りから姿を消したのであった。
「彼女達も最初から上手かった訳じゃない」
クラウチはすうっと目を細めた。彼女なんか一年の時、箒に乗った事がなくてビビっていた。「もうこんな事、二度としたくない」と半ば泣きそうになりながら言っていたんだ……。サラの顔立ちは勿論の事、彼女の声までもがクラウチの記憶から消え去っていた。ただあるのは彼女の存在。たったそれだけが彼の心の中にあるだけであった。余りにも長い空白の時間がこれ以上続こうものなら、虚偽の彼女の姿を創造し、新しい記憶として彼の頭の中に存在し続けるであろう。何よりもクラウチはこの事を恐れていた。
「夕飯に遅れるぞ」
「本当だ!先生は行かないんですか?」
「未だ仕事があってな」
クラウチは最早、サラが行ってしまったのではないかという方を、生の向こう側を見詰めていたのだった。そして、今まで彼が一度も考えた事がなく、今まで彼にはとても遠い、有り得ないもののように思えていた生の向こう側が、今までは全てが空虚と破壊か、苦しみと侮辱でしかない生の此方側よりも、近く、親しみ深く、分かり易くなっていたのである。しかし其処にサラを見る事は出来なかった。クラウチは今もまた、此処ホグワーツにいた時と同じ姿で彼女を見ようとした。彼女が自分の顔を見、自分の声を聞き、彼女の言葉と彼女が自分に言った言葉を繰り返そうとした。そして遂にそれが出来ずに、その時言う事も出来た筈の新しい言葉を、彼女や自分の言葉として考え出したのであった。クラウチは顔を顰めた。彼は此処数年に渡って自分の身に生じていた事を理解した。彼の人生の中に、生きている人間には恐ろしい、この世の全てのものからの疎外が感じられたのである。彼は今では、全ての生あるものを理解するのに苦労していた。しかしそれと同時に、彼が生あるものを理解しないのは、理解する力がないからではなく、生きている者が理解せず、理解も出来ないような、何か別のものを彼が理解しており、それが彼の全身全霊を呑み尽くしているからであった。クラウチは精神的に身を縮め、頭上に迫っている、恐ろしい死の雲に目を半ば閉じて、生を真面に見詰めるのを恐れていた。彼は容赦なく痛みを掻き立てるような接触を避けて、用心深く、開いた傷口を庇っていた。脳裏で鳴り止まぬ、恐ろしく厳しい声に聞き入ろうとする為になくてはならない静寂を、全てのものが掻き乱し、彼の前に一瞬現れた、不可思議な、果てしなく遠い彼方を見詰めようとするのを妨げるのだった。十五年もの歳月が過ぎた。最後にサラを見てから十五年が経ったのだ。そして今、十六年目が始まろうとしている。これまでの人生に於いて、それなりに様々な出来事があったが、どれもあの惜別に比べれば小さな事であり、あの惜別程に彼の精神を劈くものは何一つなかった。クラウチにとっては、サラ・バラデュールという名に呼び覚まされた数々の追憶は、遠い詩的な過去に属するものであった。そしてそれはその存在の全ての瞬間に於いて完璧であり、同時に、忘れ去るべきものであった。