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It’s saved for you



マイクロフトは窓際に立ったまま、建物に出入りする人々を見下ろしていた。彼は今までにもその泰然と落ち着き払った態度で、未知の人々を驚かせ、強い印象を与えたものだが、今はそれよりも更に傲然として、他人の事など気にも留めないように見えた。マイクロフトは他人をまるで品物か何かのような調子で眺めていた。彼の事をよく知らない人間は皆、彼のこうした態度の為に彼に憎悪を感じた程である。自分が品物ではなく人間である事を彼に思い知らせる為に、彼に煙草の火を借りたり、話し掛けたり、更にはスキンシップまでしたが、マイクロフトは相変らず、まるで明かりでも見るような目付きで彼等を眺めていた。周りは遂に、自分を人間と認めてくれない彼の態度に押されて、次第に自制心が失われていくのを感じながら渋い顔をするのであった。マイクロフトは何一つ、誰一人眺めてはいなかった。彼は自分が王者になったような気がしていたが、それは、自分がサラに感銘を与えたと信じていたからではなく──彼は未だそれが信じられなかった──サラから受けた感銘が幸福と誇りを齎したからであった。

停職中、こんなにもやる事がなかったかとサラは不思議に思った。大抵の人間は大部分の時間を生きんが為に働いて費やす。そして、僅かばかり残された自由はというと、それが却って恐ろしくて、それから逃れる為にありとあらゆる手段を尽くす。正にその状態だと嘲笑した日々も漸く過ぎ去り、彼女は復帰した。専らデスクワークであったが、手の震えは見事に治った。彼女は特に何もしていなかった。勧められたセラピーも途中から行くのを止めたし、心休まる郊外へ引っ越すのも辞めた。ただ数週間に一度、マイクロフトと過ごした。短い時間、互いに探りを入れながらであったが、徐々に変化を感じて楽しんだ。話をし、食事をし、外へ出掛けた。サラが運転する車で湖へ行った時、彼が履いていた上等の革靴が砂や埃で汚れた。それを見て彼女は自ずとぞっとしたが、彼は終始穏やかで、その事に全く気が付いていなかった。いや、気が付いてはいただろうが気にしていなかった。口数が少ない彼はゆったりと湿った土の上を歩き、冬の、色のない湖を眺めていた。このまま、彼と過ごすのだろうか?サラはふと思った。全くの一人であった自分の人生に、彼が加わるのだろうか?その答えは自分でも分からなかった。恐らく彼自身も、分かっていなかった。マイクロフトが振り向き、彼女の視線を捉えた。
「灰色に見える」
連なっている山々の頂には真っ白の雪が、そして湖を取り囲んでいる白樺の木々には細かな雪が所々に張っていた。鉛色の厚い雲で覆われている空がそのまま水面に写り、灰色に変色していた。サラは微笑して応えたが、マイクロフトはそんな景観など見てはいなかった。彼女の瞳の色と冬の湖を結び付けていた為に、そう見えたのであった。復帰してから彼女は仕事に没頭した。以前のように働き、休日でさえも仕事の事を考えた。紛れもなく、これが自分の人生なのだと思った。『灰色に見える』とはどういう事なのか?しかしサラは次第にその言葉を忘れていった。ただ一つ覚えていたのは、彼が何かを思い詰めていた事であった。彼は隠し事が得意であるが、あの日はその何かを自分に打ち明けたいとでもいった表情を時たま浮かべていた。彼女自身も聞けば良かったのだが、何となく怖かった。恐らく彼も、打ち明けるのが怖かったのだ。

海外での仕事の依頼が来た際、サラはそれを受けた。しかしながら手は微塵も震えなかった。前回とは仕事内容が異なってはいたが、前回と全く同じ仕事内容でも手は震えなかっただろうと思った。このままこの生活を続けるのは合っていないと彼女は思い始めていた。確かに幸福で、あれ程に望んだ普通の人生であった。そして彼が好きだ。とても。しかしそう思う程に、これで良いのだろうか?本当にこれが、自分の望んだ事だろうか?と思うサラであった。彼女はマイクロフトが住んでいる家を見た時、思わず彼の顔も見上げた。彼は依然として無表情で、殆ど語る事なしに彼女を招き入れた。どうやら貴族の別荘を買い取ったらしく、年季こそ入っていたが美しかった。執事や使用人達が主人のお出迎えとして、玄関にずらっと並んでいるかと思いきや、誰一人としてその影はなかった。当然、この屋敷の何処かにいるのだろうが、マイクロフトの目に留まらないように仕事をしているのだろう。この広い敷地内に存在するのは彼たった一人であるように思われた。重々しい玄関の扉を潜ると其処にはヴィクトリア調の内装が続いていた。深い赤色の絨毯が敷かれた廊下を通れば広間に出た。其処には展示物──鎧や絵画などが飾られており、二十一世紀である事を微塵も感じられなかった。其処はサラの想像以上であり、マイクロフトが本当に此処に住んでいる事を思うと目眩がしたのであった。薄暗い廊下を歩いていると、途中、幾つもの扉があったが、その中に一体何があるのか気になった。彼はとんでもない物、彼が率いる一つの情報機関をこの下に持っていても何ら不思議はない。通された部屋はもう既に暖かく、壁に掛けられた絵画の淑やかな婦人は此方を見て微笑んでいた。ガラス張りの扉の向こうには寝室があり、その隣には浴室らしきものが見えた。政界の要人が泊まる為の部屋であろうか。
「此処には誰も招いた事がなくてね」
サラの表情を読み取ったマイクロフトが言った。
「こんな立派な屋敷なのに」
「誰かに知られたら価値がなくなる」
マイクロフトが持っている人間嫌いの性質。その性質が齎した持論を持ち出し、彼はその顔に嫌悪を示した。彼が分かり易い笑顔を浮かべる時はいつもそうである。
「良かったんですか?私、知ってしまいましたけど」
「これでも整理したのだ。君は余り物を置かないし、散らかっていると思われたら……まあ、そんな事は良い」
マイクロフトが最後の言葉を濁した。どうやら彼なりに気を使ったらしい。確かに置いている物は多いが、どれも高級品で価値ある物ばかりであり、家具の向きや間隔なども計算されていた。サラはそれが出来ない為に物を置かないだけの事である。
「食事は?」
「ホームズさんが作ってくれるんですか?」
「私の料理を食べたら、君は出て行ってしまう」
「そんなに?」
「酷いよ」
此処が自分の家だからかは分からないが、マイクロフトの微笑した表情は有りのままのものであるように見て取れた。誰が用意したか知る由もない料理を食べている時も、窓の外に広がっている手入れされた中庭を眺めている時も、サラを見詰めている時も、彼の青い目には幻想的な明かりがあった。以前にも時たま現れていたそれは、今はもうずっと其処にあった。その明かりを、彼の顔を見るのがサラは好きだった。言おうかとも思ったが、言うとその明かりが消えてしまう気がして言わなかった。