×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

I suppose there is a heart somewhere inside me



サラが住んでいる家の何倍もの広さを持つ敷地。休日には映画を鑑賞し、運動をし、音楽を楽しむ。何をしようと近隣とは距離がある為に何の迷惑にもならない。たった一人でその空間を独り占めしていた。自分だけの、誰にも侵される事のない聖域。しかしマイクロフトはふと思うようになった。好んで何度も観ていた映画がつまらなくなったのである。運動をしていても、音楽を流していても、何となくつまらない。部屋には自分一人。もし、此処に、この部屋に誰かがいたら?心底人間嫌いで、一生自分一人で良いと思っていたのがそう思わなくなった事に対して、彼は一種の恐怖を感じた。疲れているのだ、疲れているからそんな事を考えるのだ。しかし眠っても、また休日には同じ事を思うのであった。しかも、前よりも強く、この部屋に誰かがいたら?と考えるようになった。否、でも誰が?誰がこの部屋に必要というのか?マイクロフトの世界は、全ての人々が全く相反する二つの種類に分れていた。一つは下等な種類であって、これは月並みな、愚劣な、特に旧式で滑稽な連中が属していた。しかし、もう一つ別の種類、其処には本当の人間がいた。この種の人々は何よりもまず優雅で美しく、大らかで、大胆で、優秀でなければならず、また顔を赤らめもせずにその他一切のものを冷笑していた。
「ホームズさん」
マイクロフトの瞼の裏に彼の心を温かくする幻が、サラの柔らかな表情が浮かんだ。彼女の優しい声が彼の耳に囁き、彼女の愛しい名が甘く彼の胸に迫った。これは恋をする人間誰しもが経験する事であり、彼にとっては初めての事であった。──そうだ、君がいないのだ。君が此処にいない──たった一人の為に彼が見ている世界は鮮明になり、たった一人の為に動いている心臓にも意味を持つ。サラの事を思い出すと、マイクロフトの心は又しても甘く疼いた。

隙間なく降っている雨で積もった白い雪が濃い灰色と変色し、人殺しの凶器と化していた。そんな中、バス停から早歩きで此方へ来る一人の女。ヒールのある靴で溶けた雪を刺すように器用に歩いて来る──サラは、マイクロフトにとって生活の中心であった為、外的な感覚の助けを借りなくとも、常に彼女の接近を感知する事が出来た。しかし、その影をじっと見詰めながら彼女の家の前に居続ける事が、何とも恥ずかしい、傍から見ると何とも滑稽な男に思えた。彼は傘で自分の顔を隠し、彼女の存在に未だ気が付いていない振りをした。脚を動かしたり、人気のない道路を眺めてみたり、意味のない事を随分とした。
「ホームズさん」
サラをちらっと見た瞬間、マイクロフトの青い目の中には何かがきらりと閃いた。最も、その火は隠れるように直ぐに消えてしまったが。
「面倒と思わずに傘を差しなさい」
マイクロフトの厳かな声を聞くと忽ち明るい光がサラの顔に燃え上がり、その悲しみと喜びを同時に照らし出した。彼女は小さく笑いながら、彼の傘の中に入った。瞼の裏に幾度となく浮かんだ、彼の心を温かくする幻が、サラの柔らかな表情が眼前にあった。
「どうしたんですか?こんな夜に」
こんな夜。今日はクリスマスであるというのに、サラはその事に全く無頓着な態度であった。彼女にしてみれば、マイクロフトがこんな夜、しかも雨が降って足元の悪い日にわざわざ外へ出るなど、どんな大事な用があるのだろうか、といった具合であった。
「……いや、特にこれといった用はない」
そんなサラに「クリスマスだ、君に会いたかった」と言うのはマイクロフトには到底無理な事であった。勿論君が思うように、こんな鬱陶しい雨の中、しかも夜にわざわざ外出するなど、私のような人間は絶対にしない──しかし、君だけは例外であるという事も言いたかったが、一生かかっても言えない事のように思えた。彼は持っていた紙袋を隠すように身体の後ろで持った。
「……入ります?」
「そうしよう」
サラの動作は不得意げであった。この家に誰かを招き入れた事が一度もなく、勝手が分からなかった。しかも相手が相手である為に、自らそう言った事を早くも後悔し始めた。彼女は自分の生活を垣間見られる事が余り好きではなかった。其処はマイクロフトと似ており、誰にも何も知られたくない人間であった。玄関の鍵を開け、リビングにマイクロフトを通した。其処には暖炉、革のソファー、テーブルがあるだけで、細々とした物が一切なかった。散らかっていない事に思わず自分を褒めたサラであったが、散らかす事が出来る物がそもそもない事に気付いた。彼女は奥にあるキッチンで早速湯を沸かし始めた。マイクロフトは然程広くない部屋を隅々までじっくり見渡していた。何もないが、何かを観察をしているように見えた。
「何か食べます?確かアップルパイが、」
サラが背後を向き、冷蔵庫を開けたのを見たマイクロフトは持っていた紙袋──濡れないようにとビニールを掛けた物──を、リビングの扉付近にある小さなテーブルにそっと置いた。クリスマスプレゼントであった。しかし渡す事が酷く億劫に思えた。自信満々に、彼女が喜んでくれるだろうと踏んでいた自分はもう此処にはいなかった。冷蔵庫には水とオレンジが二個、そして四分の一程度のアップルパイがあった。ああ、そうか、昨日食べたんだった──という事は、本当に、この家には、何もないぞ……と一人で焦っている彼女にマイクロフトは声を掛けた。
「それより、湯船に浸かって暖まった方が良い」
サラが着ている深緑色のコートは随分と濡れていた。当然髪も濡れており身体は冷え切っている筈である。しかしその事に全く気を配らずにいる彼女は冷蔵庫を閉め、マイクロフトの方へと足を向けた。
「いえ、私は──そうだ、暖炉に火を点けますね」
暖炉の前に屈んだサラは傍に置いてあったマッチを取り、その小さな箱の中から一本取り出した。しかし手が震えており、その細い棒を二本の指で持ち続ける事は困難であった。冬の寒さで震えているのではない事は直ぐに分かった。
「私がやろう」
マイクロフトがサラの隣に同じようにして屈み、彼女の手からそれらを取った。その際に触れた指先は氷宛らに冷たく、ある程度冷えていた彼自身の身体をもぞっとさせた。彼女の横顔は見るまでもなかった。彼女は心底情けなさそうな表情を浮かべていたに違いない。着いた火は徐々に燃え上がり、部屋中に暖気を放ち始めた。二人は無言のまま──サラは火をぼんやりと見詰め、マイクロフトはそんな彼女を時々見詰めた。彼女は冷えて簡単に取れそうな指先を暖炉の傍へ寄せた。依然震えていたが、その震えを克服するかのように強く先々にまで力を入れ、細い手を開いた。思わずマイクロフトはその指から視線を外した。そしてそれらに重ねるようにして、自分の指を持っていった。何故そうしたのか?これは彼自身の感情ではなく、何かしら外的な力が彼を捕まえてしまったのである。彼はこんな事はとても有り得ない事だと決めていた。こんな事はとてもこの世には存在しない幸福のような気がしたからである。マイクロフトの綿のような、柔らかく大きな手が彼女の手を取ると、サラは彼の横顔を見上げた。彼女がいつも何か思い掛けぬ事のように驚かされるのは、彼の慎ましい、落ち着いた、哀愁の目の表情と、特にその微笑であった。この微笑はいつも彼女を魅惑の世界へ連れ去って、彼女は其処で幼い日々でさえ滅多に味わった事のない程、自分を生き生きとのびのびしたものに感ずるのであった。マイクロフトは彼女が自分を見詰めているのが分かったが、視線を合わせられなかった。火の光によって、その灰色の瞳は色を変えている事だろう。見てみたいと思ったが、彼には勇気がなかった。
「人間には心臓が一つあるという」
サラが持つ気高い身体の優しい命の焔が、しなやかな液の結晶に触れて冷やされていた。
「しかし人間はそれを実際に見る事なく死ぬ。何処にあるのか知らぬまま──本当に、あるのかさえ」
その冷やされた、柔らかな宝石をサラは揺らした。
「ない方が、安心するのだが」
マイクロフトはやっとサラを見る事が出来た。艶のある漆黒の髪が青白い肌に貼り付き、その細かな毛先から丸い雫が漂っていた。彼女は、彼にとって何かしら神秘で詩的なヴェールで覆われているように思えてならない人間であった。従って、彼は彼女に何一つ欠点を見出さなかったばかりか、彼女を覆っているその詩的なヴェールの陰に、極めて高貴な感情と非の打ちどころのない完璧さを想像していた。
「──残念ながら此処に」
しかし幾ら完璧であっても死は訪れる。サラの手は彼から離れ、彼の心臓が存在する位置に置かれた。布を数枚隔て、皮、筋肉、神経、骨の更に奥。しかし正確に、彼女の手はその位置を示した。
「私のは、此処に」
そしてその手はマイクロフトの手を取ると、自分の心臓が存在する位置へと移動させた。死は、正に此処に、平等に訪れるのだ。
「何方が先に……、」
死ぬだろうか。そう遠くない未来だ、君にとっても、私にとっても。死ぬ事は怖くはない。しかし、君が死ぬ事を思うと怖い。いつまでも、その綺麗な眼を開けていて欲しいのだ。
「今、死ぬかも知れませんよ」
忽ち、マイクロフトの目には抑え切れぬ震えるような輝きが現れた。彼の心が燃え立ったのだ。
「なら良い」
マイクロフトはサラをそっと抱き締めた。まるで心臓と心臓を重ね合わせるように、その事が何か意味のある事だと微塵も疑わずに。
「メリークリスマス、マイクロフト」
マイクロフトは自分の神経がネジに巻かれた楽器の弦のように次第に強く張って行くのを感じた。その瞳はいよいよ大きく見開かれ、手足の指は神経質に動き、胸の中では何者かが息を押さえ付け、この薄闇の中にある全ての形象や響きが異常な鮮やかさで、自分を驚かせた事を感じた。「プレゼント、ありがとうございます」良いんだ、それよりも君は、君だけは死んでくれるな……。マイクロフトは窓の外、降り続ける雨を見た。あの日、サラが退院した日も雨だった。その日から私達は──マイクロフトには思われた。これこそ本当の生活というものだ。これこそ、本当の幸福というものだ、という事を。
「メリークリスマス」
彼女は私を愛している。彼女も自分でそれを白状している。サラへの愛はもうマイクロフトを悩ませず、動揺させなかった。その愛は彼の魂全体を満たし尽くし、彼自身の切り離せない一部となってしまった為に、彼は最早それに逆らおうとはしなかった。

Michael Wycoff - Looking Up to You