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Bathing in the purple rain



殆ど眠っていない蒼白な顔をしたサラが、一つのボストンバッグを肩から提げ、病室から出て来た。身体はすっかり痩せ細り、着ている服が身体に合っていなかった。瑞々しい、静謐の中にも活気に溢れた女性だった彼女は、半ば死んだ、これからの人生に関わりを持たない人間になろうとしていた。任務による心的外傷──何かしらの形で不安を感じた際に手が震え、それが止まらなくなる──を理由に彼女は無期限の停職を申し出たのである。一切を離れ、全く新しい生活を望んだのである。しかしマイクロフトにはその事が全てを解決するとは思えなかった。彼は彼女が今陥っているそのような事の経験がなかった為に、サラを半ば殺してしまった傷、その傷を癒し、彼女を生へと呼び返す術を全く知らなかった。
「君さえ良かったら、街まで送るが」
「いえ、電車で行きます」
病院の外、直ぐ其処には黒塗りの車が停車していた。マイクロフトを待っているのだ。サラはその車を眺めながら、「またストライキがあったら翌日ですが……」と如何にも寂しそうな、と同時に如何にも優しい微笑を浮かべて彼に言った。外は雨が降っていた。彼女の手は軽い傘すら持てる状態ではなく、何の役にも立たない、あってないようなもの同然に思われた。その失望が、彼女を絶えず追い慕っている彼の眼差しが捉えた。
「彼はどうなりましたか」
サラは食べたり、飲んだり、眠ったりはするが生きてはいない自分を容易に想像する事が出来た。この先にある人生は自分に何の感銘も与えないという事、自分は安息以外何一つ人生から必要としていないという事、そして、自分がその安息を見出す事が出来るのは死だけであるという事がまざまざと眼前に、地下鉄へと続く平坦な道に示されているのを見た。しかし、その死が訪れるまで自分は生きなければならない。つまり、その時まで自分の時間、自分の生命力を使わなければならない。
「死んだよ」
サラの顔には、その眼元にも微笑にも溢れていたあの生き生きした表情が跡形もなく消えていた。いや、今ではもうその生命の火が消えてしまったのか、それとも、何処か遠いところに隠れてしまったみたいであった。傘を差して、先に外へと出たマイクロフトが背後を振り返った。彼女は動かず、その場で立ち止まっていたのだ。何かを決意したような、だが頼りない表情を浮かべた彼女は彼の顔を見上げると、前へと進んだ。マイクロフトにはこれが、サラとの一生の別れであると確信した。
「この事をどうか覚えていて下さい」
マイクロフトの顔は、見る間に険しい表情に変わった。しかしそれは、自分の内気さに打ち勝とうと向きになったからであった。
「私は、この国を裏切りません」
英国。この国は、あなたそのものだ。ただ一度、思いが迫って、顔を上げてあなたを見詰めた。その日からは、大空の下にあなたの他のものを眺める事はなかった。救いのない夢だ──限りない障りがあなたと私の運命とを距てている。私の情熱は目覚め騒ぎ止まぬが、あなたの心には常に安らぎがあるように。一瞬の内に輝いた、サラの喜しげな視線は、マイクロフトにその美を浴びせ掛けるのであった。ところが、それと殆ど同時に、マイクロフトの顔は俄に真面目な、気掛かりげな表情になった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがサラを驚かせた。彼女は今まで彼のそんな顔を見た事はなかったし、想像した事もなかった。
「……覚えておこう」
ああ、栄誉よ──もし私がお前の讃辞を喜んだ事があったとすれば、それはお前の響き高い讃辞の為ではなかった。それはただ愛する一人の人の輝かな眼が、私に彼女を愛する価値があると告げるのを見る為だった。ただその為にお前を追い、その為にお前を得たのだ。お前を取り囲む輝きの内で、彼女の眼の光こそ最高のものだった。私の生の内に光る何ものかの上に、彼女の眼が煌めいた時、私はそれが「愛」であり、「光栄」であると知ったのだ。
「共に働けて良かった」
滅び去った過去の残骸の中から私は思い起こすだろう。そしてそれらは私に教える。私が最も愛したものは、何よりも愛するに価したものであったのだと。私の魂に彼女の事を囁くのは──思い出だけだ。彼女の息遣い、質感、魂は私の傍には、ない。マイクロフトは最後にサラの眼を見詰めた。さようなら、柔らかな宝石、どうか君の名を大切にして欲しい。私が自分の名よりも大切にしている程に。どうか苦しまないで、自らを慈愛で包むのだ。君は最良の人間であるから……。 一脈の哀愁が宿った微笑をその顔に浮かべたが、彼はそれらを何かしらの言葉にする事はなかった。すると澄み渡っていたサラの眼は忽ち曇り、其処には続いて異常な輝きが示されていた。マイクロフトは、はっと息を呑んだ。大粒の涙が一滴溢れたと思うと、頬に一本、銀の筋を引いて流れ落ちたのである。──未だ私に目があるのか。心の奥深くに、美の泉が豊かに注がれて来たのを未だ感じるのか。これまで世界は何とつまらない、性の知れぬものであっただろう。ところが君が現れて以来どうであるか。世界は初めて好ましい、根底のある、永続するものとなった。私が一切の力の発動を、情熱の精髄を、思慕、愛情、崇拝、狂乱を挙げて捧げたのは君だけであった──サラはそれを隠すようにして、マイクロフトの差している傘から離れた。彼女の後ろ姿、微かに震えている右手で顔を覆ったのが彼の目に映る。マイクロフトは傘を持つ手に力を込めた。どうすべきか分からない。何が最善なのか分からなかった。──私は一体どうしたと言うのか。何が私をそのように圧し付けるのか。何という異様な感覚だろうか。今までの私の面影はもはや見る由もない。私の愛していたものは消え失せたのだ。私の努力も、私の安らけさも。こんなにも変わり果てたのか。私を限りない力で繋ぎ留めるのは、あの清らかな女の姿か、あの愛おしい人の姿か、真心と優しい心に満ちたあの眼差しか。一思いに彼女から離れ、逃げ去ろうと心を励ましても、忽ちに私の足は、彼女の方へと戻って行く。私の命は彼女の思いのままだ。もし私が君を見捨てて逆戻りするような事があったら、もう私の生きて呼吸する力が消え失せても良い──マイクロフトが肌身離さず持っている剣と拳銃は彼の手から落ち、開いたまま地面へと崩れた。私は前よりももっと深く、もっと純に君を愛している。君を愛している。 マイクロフトは足を踏み出した。 サラの視線の先には、いつの日のように、ストライキが勃発していた。

Prince - Purple Rain