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Idle tears



初めサラは驚きの余りからだが気を失いそうになった。もう彼女が救われる事は誰がなんと言おうと明らかな事だった。一般市民の服装をした特殊部隊が眼前に数人おり、もう彼女は自分の好きな所へ行けるのだった。暫くは一言も発する事は出来なかった。彼女はその一人が両腕で抱いていてくれた為、辛うじてその傍に立っていられた。そうでなければ地面に倒れたかも知れなかった。早足で移動する内に彼女の意識ははっきりしていったが、周りにいる仲間に対してさえも口が利きけなかった。彼等は色んな優しい、心暖まる事を言っては彼女を落着かせ気をしっかり持たせようとしてくれた。しかし、まるで堰を切って落としたような喜びが彼女の胸中に滾っていた。暫くしてから辛うじてロがきけるようになった。すると、ある薄暗い一室の前を通った。何処も似た部屋ばかりだったが、その部屋だけには男一人がうつ伏せに倒れていた。その男は捜索対象であった例の諜報員であった事が見て取れた。
「彼は……、」
サラはただ無我夢中だった。軈て涙が止めどなく流れ出した。彼を見て、彼女は彼等と共に帰還する人間ではなく、依然として凡ゆるものから取り残され、此処で死ななければならない人間のように思われてきたのであった。

特別病室でサラは新聞を読んでいた。膝の上にそれを広げてあったが、じっと一点を見ており、その眼は字を追っていなかった。マイクロフトは病室の外からその姿を見付けると、一人もの思いに沈んでいる彼女に声を掛けた。彼女は至って普通であった。爽やかな表情と声で彼に注意深く対応をした。マイクロフトはサラを助けた事や任務について何一つ触れなかった。病室に入って来た彼は、彼女の上に立つ人間として見舞いに来たと言わんばかりの顔であった。しかし彼女のみならず、彼も同様、瀕死の人間宛らに顔色が悪かった。目の下にはうっすらと隈が出来ており、水晶のような青い目は充血していた。まだ私の方が元気なのではないか?何回も殴られはしたが。サラは可笑しくて、僅かに眼を細めた。
「体調の方はどうだね」
「良いですよ」
殆ど眠れていない、逼迫した疲労を映した双眸がそれを隠そうとした。サラの記憶──あの未だ新しい記憶が、深く彼女の心臓へ血の出る程に食い込んでいるという事を、彼は今しみじみと感じた。その血生臭い記憶の痕が決して癒えないばかりか、却って時の経つに従って、益々意地悪く、益々残酷に、生涯彼女の心に生きるに違いないという事を、彼は今こそはっきり思い知ったのであった。彼女の心に猛威を揮い、苦しませ、何故自分は助かったのだろうと思わせる。眼前に開けている生よりも、過ぎ去った、もうこの世にはないものを見ている。あの男の死──誰の所為でもない事を自分の所為と勘違いし、自分も彼処で死ななければならなかったのではと思っている。サラがそういう類の馬鹿な人間である事をマイクロフトは理解していた。
「君が此方に配属になった日を覚えている」
フランス語宛らに鼻から音を抜けさせ、想像するスペルとは全く異なる音を持つ名字。握手を嫌い、差し伸ばさなかった手。感じざるを得なかった、恐ろしい勢いで自分に働いている、あの不気味な運命の力。そして、その力でもって灰色に沈む静謐さの中に、他でもない自分が映っているのを見た時の事を。
「だが実は……」
しかし何故自分はこの事を彼女に言おうと思ったのだろう?マイクロフトは口を噤んだ。言ったところで何か成るものだろうか?あの時に自分が感じた運命の力など、彼女に言ったところで何に?しかしサラの瞳、玲瓏たる虹彩が彼の目を捉えた。「実は、何ですか?」彼女も又、その日の彼を覚えていた。人と親しくなろうという気が全くない、終始不機嫌そうな物腰の、しかしその影には自分の姿を見て何故か驚いたような表情を浮かべた人。それが彼であった。
「それ以前に君に一度会っている」
サラはその顔立ちに僅かな困惑を示した。それと同時に、その眼に微かな期待を持った。
「それは……私が前にいた職場でしょうか」
「いや、君が情報機関にスカウトされる前だ」
一向に消えないサラの優美な困惑に、マイクロフトは目を細めた。彼女が知る由もない記憶を、自分はここ数日の間、どれほど大切にしたか知れない。
「君が通っていた女子校の近くに男子校があっただろう」
「あのパーティーで?」
サラは記憶を辿った。その追憶は快感と苦痛を伴いながら、又もや彼女を病的な感覚へと導き入れた。過去を思い出す事ほど辛いものはない。十代でスカウトされ、この世界に入った事を彼女は何より悔やんでいたからであった。大半の人が送る、普通の、何も知らない人生がどれほど幸福か。もしその時に戻る事が出来たら、自分のその頼りない腕を掴み、無理矢理にもう一つの、何の変哲もない道へ引っ張って行ってやりたい。そう何度も繰り返し思っていた事が、その追憶の中で思い出されたのである。彼女は沈んだ優しい色をその顔に表した。
「まさか、会っていたなんて」
「話はしていないから、覚えていないのは当然だ」
「どんな生徒に見えました?」
マイクロフトは言いたくなかった。当時の自分が受け取ったあのサラという人間──彼をはっとさせると同時にその心を強く捉えた、生真面目な、時には沈みがちの瞳の表情。彼女の中には何かしら別の世界が、自分などには想像もつかない、複雑で詩的な興味に満ちた、崇高な世界があるように思われたあの感じを、彼女自身に知られたくなかったのである。
「今と余り変わらない」
善良な人間。しかし信念をその胸の内に隠し、身を滅ぼす定めの人間。マイクロフトはその眼の中に、あの時に見た、自分には開かれていないあの特別な世界を認めた。
「地味でしたからね」
「いや、そういう訳ではなく……私は酷く太っていた」
「本当に?」
「甘いものしか食べていなかった」
そのサラがにっこりと笑った。ケーキを美味しそうに頬張る、幼くまん丸としたマイクロフトを想像したのだ。彼のような人間が、そんな有り触れたものを好きだったとは思ってもみなかった。マイクロフトはずっと目を離さずに彼女を見詰めたまま、自分でも何の為とも分からず微笑を浮かべた。
「休暇を楽しむと良い」
マイクロフトはサラの手を見ないで言った。しかし彼女はそれを、自分の手をちらりと見た。新聞の上に置いてあるそれは、力を込めようとすると震え、全く言う事を聞かないのであった。彼女は顔を上げて、再び彼を見た。十代からこの国に尽くして来たのだ、やっと自分の人生を取り戻せる。
「そうですね、やりたい事をやります」
しかし自分の人生とは一体何だ?中身が陥没していて、影も形もない人生に、今更何を付け加えようとしているのだ?サラは小さく忙しく息をし始め、下唇は震え、美しい灰色の目は忽ち涙に潤んだ。
「……家の……整理を、」
サラはこれまでの一生で幸せがとても少なかった為に何を失っても辛かった。彼女は既に我慢が出来ずに、優しい愛に満ちた涙を流して、他人や自分や、又、我人共に抱いている迷いの為に泣いた。マイクロフトは先程の言葉を言った時の彼女の長く続く、悲しそうな厳しい眼差しを思い出し、その長く続く眼差しの非難と絶望の意味を悟った。彼は何をすべきか分からなかった。特に彼が苦手としている言葉──飾りだけで真偽の区別すらなく、何の役にも立たない──は当然ながら不必要に思われた。しかし何故か、この彼女に対して何もしない事に居た堪れなくなり、彼女の震えている身体、悲しんでいる魂にそっと両腕を回した。長身を屈ませるようにして恐る恐る、彼女に振り払われないか心配しながら、抱き締めた。全くの不自然な、覚えのない感覚であったが、彼は彼女を落ち着かせようと手でその背中を摩った。一回、二回、三回……大丈夫、大丈夫だ。私もそうだった。君と出会う前はまるで何もなかった。しかし人生とは、一生を通して見なければ分からないものだ。一生を、通してしか分からないものなのだ……。