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Meet me halfway



サラは自分の置かれている状況に対して、暗い見通ししか持つ事が出来なかった。彼女はもう半日以上飲まず食わずで、絶えず死の恐怖に襲われながら、何もせずにぼんやり座っていたのである。彼女の蒼ざめた顰みがちな顔は、益々蒼ざめて皺が深くなっていった。捕まった、もう一人の諜報員の声が遂に聞こえなくなった。浴びせられる雷宛らの怒声によって、自分の耳が聾したのかとも思った。サラの精神力は殆ど無意識に、自分の恐ろしい境遇を見まいとする努力にのみ向けられていた。死という必定、この先にある筈であった生を放擲したのである。──ある筈であった生とは、幸福に満ちた意義ある生。そんな人生が、自分とは無縁であったものが、この先にある筈であった。マイクロフト・ホームズ。正に青銅の心と大理石の顔とを持った男。気難しさと隻眼を有し、その冷徹な心の影に潜んでいる溢れ漲る熱。それと共に自己の凡ゆるものを犠牲にしている男。彼女は彼と過ごした自分の生活を思い起こして、彼の一言一行にも自分に対する愛を見出した。彼の氷の刃宛らの目、日に当たる事を知らない白い肌、格別響きの高い上流階級らしい上低音。それらが惨たらしい程にはっきりと彼女の頭に浮かんだのである。あなたの一目でも、一言でも、私にとっては、この世の凡ゆる知恵にも況して嬉しかった。サラは震え、心臓は張り裂けんばかりであった。

勘が当たるというのはこういう事であると、マイクロフトは自分の目を疑った。例の名簿は無事に此方へ届いた。誰が送ったのかは定かではないが、サラを含む数名の諜報員であった。しかしその後、幾ら時間が経とうと何かしらの連絡一つ送られて来ない。全員の消息がひっそりと消えたのである。情報機関はその先の始末、数日前に現場へ送った諜報員らの脱出計画を持ち出さなかった。顔と国籍が既に割れている、しかも捕らえられていると尚更、情報機関は感知をしたくない。自力で英国へと戻って来るか、或いは英国を捨て単なる一市民としてその国に留まるか。しかし何方にしても政府の手助けがなければ希望は薄い。今度こそ上手く事が運ばないかも知れないというあの想念、初めて端的に、恐ろしくまざまざと、殆ど正確無比な事のように自分の心に浮かんで来たあの想念。何故手を打たなかったのだろう?何故彼女を行かせたのだろう?しかし一つ、不利益を被る恐れがあった。自分の名や存在が他国に知られる事である。全くの影に潜んでいた存在がそうでなくなるという事、だが彼はその事を確信しつつも受話器を手に取った。汗が滲んでいた。彼の胸には恐怖が悉く迫り、血の色をした戦慄が幾つも聳え立っていた。しかしそれは彼の立場が危うくなるという事に対するものではなく、彼女の死、彼女という人間の喪失に対するものであった。喪失とは死、彼女の死とは自分の死であった。その事を、あの時の彼は未だ知らなかったのだ。

マイクロフトも又、飲まず食わずで、絶えず死の恐怖に襲われながら、何もせずにぼんやり座っていた。其処は暖房の効いた快適な仕事場であったが、彼の蒼ざめた顰みがちな顔は、益々蒼ざめて皺が深くなっていった。もし彼女を助け出す事が出来なかったら?否、もう彼女は死んでいて、助けようがないかも知れない。人間は愛する者とはいつか別れなくてはならないのだ。この世には何一つ変化しないものはない。従って、残された者は前を向いて生きなければならないのだ。此処に大樹があるとして、その一つの大きな枝が枯れ落ちた。しかし大樹はなお堅固に生き続けるものだ。そういうものなのだ、人生とは。彼はそう自分で今ある生を奮い起こしたが、上手くはいかなかった。想像すべきはサラのいないこの先の人生である。しかし彼女の名前、彼女の魂が依然として彼の前にあった。絶えず彼女はあの灰色の眼でこの国が好きだと言っていた。その誠実さが彼女の眼を聡明に輝かせ、彼の目を通してそれを見せていたのだ。彼女は良い人間だ。間違いなく、そしてこの世の誰よりも。仕事以外の事は何処か抜けていて、自分のように特別頭が賢くなくても、人の為にと自己を犠牲にする。今もマイクロフトは、その時に彼女の眼を見ながら浮かべたのと同じ、嬉しそうな、しかし悵然とした微笑を浮かべた。──私には彼女の心持ちが良く分かっていた。分かっていたばかりではない。あの魂の力、あの真剣さ、肉体に結び付けられているようなあの心、あの心を私は愛したのだ。あんなに強く、あんなに幸福に愛したのだ……。
≪コードネーム 南極≫
一睡もせず凝視していたパソコンに連絡が入った。マイクロフトは息を呑んだ。それに続いて又一つのメールが画面に表示された。
≪作戦成功≫
たったそれだけの文字であったが、マイクロフトをあの陰惨な恐怖から解き放つには十分であった。自分の生、即ち彼女の生が救われたのである。しかし自分の幸福は何たる偶然に支配されている事か。その感覚は不意に、発作のようにマイクロフトを襲った。心の奥底に、一つの花火のように燃え立つと見る間に、それは火のように燃え上がって彼の全身を捉えた。彼の内部の一切が一時に和らげられ、涙が目に溢れてきた。座っていたそのままの姿勢で、彼は机に倒れ伏した。

The Black Eyed Peas - Meet Me Halfway