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Show no regret



私はもはやこの地上で求めて叶わぬものを求めている。思えばこうもいうべきだろうが──あの時、あの手に触れた時──ただ彼女は私のものだった。私はあの心に、あの大いなる魂に触れていた。彼女の前にいる時、自分が有り得る一切のものであったが故に、自分が自分以上のものと思われた。驚くべきかな、あの時、私の魂の中には働かないでいる力は一つもなかった。嘗てこれ程に幸福だった事はないし、彗星や草の葉に至るまでの全自然に対する感受性が、これ程に充溢して切実だった事はない。
『ホームズさん』
「仕事が入った事は知っている」
『すみません……』
「気にしなくて良い」
マイクロフトはサラを眺め、今更彼にとって彼女が何者であるかを切に感じた。彼女はいつも彼の魂の前にいる。しかし、その事実が無上に不幸に思われた。指先は未だじんわりと温かかったが、もう既に、彼のような人間であっても持っているであろう心臓は血を送り出す事を止めていた。彼女も他の人間同様、このまま、自分にとって不要なものとなるのだろうか?このまま、我々は以前の、元いた路に戻るのだろうか?
『ではまた』
「気をつけて」との言葉はマイクロフトの口からは出なかった。彼自身の勘は鈍かった。勘というのは事実に基づいた推測ではなくただの直感だからである。しかし今回は、その勘というものが彼に働き掛けた。マイクロフトは端末を耳に当てたまま通話を切らずにいたが、数秒経ってサラの方から通話を切った。一定の音を聞きながらも、彼は端末を耳から離さなかった。忽ち彼の指先は冷たくなり、青い目が捉えている景観は以前のように、彼の目を奪うようなものではなくなっていった。サラが離れて行く──当然だ、彼女にも仕事がある。単なる諜報活動だ。そんなものは此方の世界では日常茶飯事ではないか。何の変哲もない、直ぐに帰って来る。仕事の面では彼女は抜かりない、必ず帰って来る。もし危険に遭っても……否、本当にそうだろうか?彼女は生に固執している人間ではない。寧ろその反対のものを望んでいる。この国に生きて帰らなければならない理由が、彼女にはあるだろうか?国の為なら死んでも構わないという彼女の信念を動かすような、そんなものがあるだろうか? ──マイクロフトは端末を眺めた。
"サラ・バラデュール"
それは単なる数字が並んだものではなく、その数字に彼は一人の名前を入れたのだ。深入りした結果である。その事は初めから、出会った初めの頃から分かっていた事であった。しかしこの瞬間から、マイクロフトは何か未来に関わる事に触れるのを避けた。サラ、言葉、愛、潔白な眼、青白い肌、あの細い手──サラ。サラ。サラ。
『私を覚えていて』
激昂する自分の血を、彼は幾度寝かし付けた事だろう。日も月も星も依然としてその運行を続けながら、彼にとっては昼もなく夜もなくなり、全世界は身の回りから姿を消した。

例の諜報活動に関する指令内容の授受は既に完了していた。それよりももっと重大な課題が頭の中で幾つもの山を作っていたが、今は何もする気が起きなかった。ある想念──非常に明瞭であるが、それだけにまた恐ろしい想念が、マイクロフトに落ち着きを与えないのであった。彼は例の諜報活動が、今までサラが参加した多くの仕事の内で最も恐ろしいものに相違ないという事を承知していた。ある国の組織に潜入している英国国籍の諜報員が、他国の諜報員の名簿を掴んだのである。しかしその諜報員が此方に情報を送る前に失踪した為、その捜索に政府は数名を送り出したという訳である。今度こそ上手く事が運ばないかも知れないという想念が、初めて端的に、恐ろしくまざまざと、殆ど正確無比な事のように彼の心に浮かんで来た。しかし彼等の死、又は成功が、この英国に致命的な打撃を与える事はない。政府としてはあくまでも一つの情報としてそれを手に入れたいだけなのである。その事はただ彼自身、即ち彼の心に迫った。この観念の頂きから見下ろすと、以前自分を苦しめたり、自分の心を支配したりしていた全てのものは、突然冷ややかな白光に照らし出されて、其処には影もなければ遠近もなく、また輪郭のけじめさえなかった。彼には自分の全生涯が幻灯宛らに思われた。彼はそのレンズを透かして人工的な光線で、長い間人生を眺めていた。ところが、今急にレンズを取って燦然たる真昼の光で、この拙劣に塗りたくられた現実を見たのである。マイクロフトは何気なく手帳を開いた。彼は日程を事細かく書く事をせず、いつ誰に読まれても良いように曖昧な事や数字、自分にしか分からない暗号のみを記した。しかし来月の第三日曜日に瞳を転じると、日付である二桁の数字に丸を付けてあった。他には何の言葉も、暗号も、数字も書いておらず、其処にはたった一つの丸。簡単な印だが、一年という長い月日の中で何かを記してあったのはその一日だけであった。まだ始まってもいない日を待つなどなかった事であった。そして、その日の為に何と様々なものを浪費した事か──すると、机の上に置いていた端末が震えた。弟からの着信であった。マイクロフトにとってはもはやどうでも良かった。それとは全く別の、弟が直面している課題が自分の前にも開けているからこそ、どうでも良いという事だった。もし彼女が死んでも墓は建てられない。彼女の頭脳、忠誠、響きのある名字は無に帰する。必死に生きて来たであろう痕跡すらない。残るのは死を心待ちにしている人々が持つ、彼女という人間の記憶である。
『私を覚えていて』
君を忘れる。それが、最善の事だ。

Daniel Caesar - Show No Regret