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In sleep a king, but waking no such matter



マイクロフトは全寮制の男子校に通っていた。街の中心にありながらも街には溶け込んでおらず、週末と年に一度学校で開かれるパーティーでしか外の世界と触れ合う事がない。そのパーティーには家族や親戚が集うのだが、こっそり恋人を招き入れた生徒もいた。近くに女学校があり、其処の生徒もパーティーに出席出来た。毎日見ている男子ばかりの風景が一変するのである。装飾で彩られた会場は騒がしいのだが、演奏が始まると人々は声を抑え、ダンスをし始める。勿論男子生徒は親との決まりきった会話を避け、一緒にダンスをしてくれる女子を探す。しかしマイクロフトには無縁の事であった。何より太っていた事もあり容姿に自信がなく、女子と話した事も殆どない。僅かに興味はあったが、彼はケーキの方が好きだった。皿に取ったケーキをフォークで突きながら、早く終われば良いのにと会場の隅の方で過ごすのがこのパーティーであった。時間が経つに連れ、上等な服に身を包んだ人で溢れたのが徐々に人が少なくなり、生徒が施した装飾が落ち始めた。其処に、ピンク色の小さな風船を足でつんつんと突く一人の女子生徒。一点物の光沢のある深緑色のワンピースを身に纏い、周りに視線を泳がせていた。傍には誰もいない。彼女の顔立ちに似た大人も、パートナーもいない。居心地が悪そうに会場の真ん中にポツンといる。すると一人の女子生徒が彼女に駆け寄って言った。「サラ」口の形でそう言ったのが分かった。眼を細めた彼女は友達に連れられ、会場から出て行った。──実際、あの子は綺麗だった。あれ程の人を見た事がなかった。躾が良く、慎しかやで、しかも幾らかつんとしたところがある。あの唇の赤さ、頬の輝き。何しろ一瞬の事だ、すっかり忘れるだろう。そう思った。しかし今では、この世の続く限り忘れる事は出来ない気がした。あの子が眼を細めた様子は、深く彼の胸に刻み付けられたのである。するといつの間にかサラが彼の目の前にいた。二人の足元には幾つもの風船。会場に人はいたが、皆自分の世界に夢中で、二人には誰も気が付いていない。彼女の灰色の眼は彼の目を真っ直ぐに捉え離さなかった。そして彼も、彼女の細い手を離さなかった。サラの汚れのなさ、打ち解けた心は、ありのままの彼を見ていた。話をしながら彼女の手に手を重ね、興に熱しては身を近付け、その清い息吹がマイクロフトの唇に触れさえした。私は雷光に当たって気を失うのではないだろうか?サラは私にとって神聖だ。その前にあっては一切の欲念は沈黙する。その傍にいる時、心はもはや此処にはなく、凡ゆる神経の中に魂が顛倒する。──彼女にはあるメロディがある。素朴な、それでいて秀麗で、この世ならぬ天が齎す声。ただその始めの一つの符が鳴り出でる時、それは私から凡ゆる苦悩、錯乱、懊悩から解き放つ。
「私を覚えていて」
覚えているとも。マイクロフトは目を覚ました。

マイクロフトは流れ行く顔と姿を遠くから見ていた。そして、その顔や姿が皆、彼には同じように無意味に思えた。今日が此処で働いている職員数人の誕生日らしく、一つの部屋が学生の週末パーティー宛らになっていた。垂れ幕こそなかったがテーブルにはワインや菓子が並んでおり、誰々の誕生日を祝うというよりも単なる気晴らしであった。入口付近で「無意味だ」と言わんばかりの顔で佇立していたマイクロフトであったが、その部屋にはサラがいた。楽しげに下っ端の官僚と話をしていた。既に帰りの車を手配していたマイクロフトであったが、一旦は腕時計を見ては、その馬鹿馬鹿しい集いへと参加した。夢に出て来た学生時代のパーティーと然程変わらなかった。雑談をしている人、ダンスをしている人、食べ物に夢中になっている人。そんな彼等には見向きもせず、マイクロフトは故意にサラの視界に入る位置へと移動した。彼女に背を向けるようにして、並んである食べ物を選ぶ振りをした。其処には幾つもの種類のケーキがあったが、今は食べたいという気は起こらなかった。
「もう帰られるのですか?」
マイクロフトの片手には傘があった為にそう判断をしたのだろう。楽しそうな、問い掛けるような光がその灰色の眼に輝いており、顔には優しい、悪戯っぽい表情があった。マイクロフトは思わず微笑した。夢で会ったサラとは異なる、本当の彼女が其処にいた。
「おめでとうの一言は言った」
「本当ですか」
「いや、嘘だ。機会があれば明日言う」
「絶対言わないでしょう」
「決め付けは良くない」
白い歯を見せ笑いながら、サラは複数のグラスにワインを注いだ。向こうにいる同僚共に渡すのだろう。するとその一つをマイクロフトに手渡そうとグラスを持ち上げた。それを見た彼は僅かに首を横に振った。
「それより……一曲どうだね。音楽が始まった」
マイクロフトは格別響きの高い、歌うような、上流階級らしい上低音でものを言った。そしてサラが持っていたグラスを取り上げ、テーブルに戻した。すると、品位と優雅さの溢れた動作で、彼女は嬉しそうな微笑を浮かべて、彼に自分の細くしなやかな手を差し伸べた。マイクロフトは今自分が別な世界に捕われているのを感じた。その事で心臓の動機が異常に昂ぶり、思わず彼女が恐ろしくなった。触れたら死ぬのではないだろうか?何に?雷光に当たって──彼がその手をそっと掴むと、夢で見た光景が想起された。この感覚は全く同じであった。彼女に対する感覚は夢であろうと現であろうと、何一つ違う事はなかった。二人はダンスをしている人混みの中へ入った。彼の左手には彼女の右手がある。彼女だけで良いと思った。自分に触れるのは彼女だけで良いと。マイクロフトが持つ青い目は静かに、様々な事を語っていた。一方でサラが持つ灰色の眼はたった一つの事、ただ彼を見ていた。彼女の親切で潔白な眼が、ありのままの彼を見ていた。
「来月の第三日曜日、」
「?」
「休みだ。君は?」
人生においての過ち、孤独、苦衷を知り尽くしている彼であるから、たじろぐ事もなく、それらを分け合ってくれるだろう。きっと彼なら──私の心が思い描いたような愛は、彼の他のところには見出し得ない。
「休みを取ります」
その美しい灰色の眼の中で溶け合っている崇厳と謙抑の表情は、限りなく魅惑的であった。その瞳に彼はどんなに見惚れていた事だろう。生き生きとした唇、鮮やかな頬が、どれ程に彼を魂の底まで惹き付けた事だろう。冬の湖のような宝石宛らの眼にすっかり飲み込まれて、会話も何も思い付かなかった。まるであの夢をもう一度見ているようで現心がなかった為に、部屋中に響いていた音楽も殆ど聞こえない程だった。ただ確かな事は、サラ・バラデュールという人間の魂は美しく、彼であっても夢で創造する事が出来なかったと言う訳である。
「そうか。ではその日に」
此処で私は自分を感じ、人間に与えられた一切の幸福を感じたのだ──マイクロフトはサラに別れの挨拶をしながら、その痩せた手を、無意識に幾らか長く、自分の手に握ったままにしていた。本当に、この手、この顔、この眼、私にはかけ離れた宝物のような女性の魅力が全部、本当にこれが全部、永久に私のものに、自分にとって私自身と同じように、身近なものになるのだろうか?否、そんな事ある筈がない……。マイクロフトは傘をテーブルに掛けたまま部屋を辞した。夜は早や地上に下っていた。星と星とは浄く寄り添い、大いなる光、又は小さき火花となり、澄める夜空に輝いていた。鷹揚に照り渡る月影は、深き憩いの幸を護っているように彼には思われた。