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To be in a passion



登録していない番号からの着信がマイクロフトの端末に入った。ポケットから取り出し、それに青い目を転じると、並んでいる数字の順番でそれが誰なのか分かった。しかしその着信は彼の事をそれ程長く呼ばず、画面を眺めている内に切れた。マイクロフトは端末をポケットに戻し、無駄に広い会議室の窓から外を見た。空は晴れて行くところで、まるで星を開いて見せるように雲が素早く走っていた。時には、空が晴れ上がって、黒い、雲一つない空が現れて来るように思えた。時には、その黒い斑点が雨雲のように思えた。時には、空が頭上で高く高く昇って行くように思えた。時には、空がすっかり下がって、手で届くように思えた。というのは、目に見えるもの全てがすっかり彼の精神状態に左右され始めたのである。国会議員、諜報員、同僚、今自分が巡り合う全ての人間との関わりで、マイクロフトの中には新しい特徴が現れた。それは、一人一人の人間が自分流に考え、感じ、ものを見る事が出来ると認め、言葉で人の信念を変える事は出来ないと認めるという事だった。以前にはマイクロフトを不安にし、苛立たせた、この一人一人の人間に当然許される独自性が、今ではマイクロフトが人々に対して抱く関心と興味の基礎になっていた。人の考え方とその性格、更には人間同士の食い違いや、時には完全な矛盾がマイクロフトを楽しませ、彼に微苦笑を浮かべさせた。マイクロフトは端末を取り出し、番号を打ってそれを耳に当てた。すると再び鮮明に、彼の頭の中にサラの沈んだ色の瞳が現れた──君とこうして眼と眼を合わせていると、何もかもが君の頭へ、君の胸へ迫ってきて、永遠の神秘として君の傍らに、眼に見えるが如く、見えざるが如くに働いている。君の胸を一杯になるまでその気持ちで満たすが良い。そして君がその感覚に浸って祝福を覚えた時に、それを幸福とか、真情とか、愛とか、神とか、何とでも気に入るように名付けたら良いのだ。しかし私には、何と呼んだら良いのか分からない──マイクロフトは端末を仕舞った。彼女は出なかった。

無意識の領域を越え、意識の領域において、マイクロフトはあの一瞥にただ恋焦がれた。彼はサラの眼を求めた。それが、一人からまた別の一人へと移って行くのだが、彼にはさっぱり眼を留めなかった。遂に彼は諦めて、同僚と話をしながら呆然とその場に立っていた。彼の心は彼女に向かって幾度となく、何かしらの言葉を放った。それでも彼女は彼を見なかった。オフィスにいる全く関係のない人間が辺りを行き来し、目の前にいる同僚は此方の状態に気付きもせず話を続けている。適度に相槌を打ちながらも尚、彼はオフィスを出て行く彼女の後を見送っていた。すると、扉を閉めようとしたサラが振り返って、見た。──私の方を……?恐らくは私の方を振り返ったのだろう。恐らく。目が覚めるような美しさに、脳梁が震えた。その感覚が再び彼の身に起こるのが分かった。端末からはサラの声、その切ない声は、この世ならぬ天から聞こえて来るかのようであった。
『ホームズさん?』
今胸一杯に味わっている甘美な春の明日、それと等しい爽やかさが、マイクロフトの魂を残る暇なく浸していた。太陽の下に最も愛する彼女を、この腕の中にかき抱く事が出来たら──。マイクロフトは椅子から立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩いた。確率的に彼方から電話を掛けてくる事は考えられなかった。しかしサラは掛けて来た。それは何故か?その答えは恐らく彼にとって最良で、至福そのものであった。彼女の態度はとても注意深く、そして瑞々しかった。そしてその声は先日の礼をしたいと言った。
「生憎、仕事が山積みでね」
以前晴れていた夕空は、一面に煙が棚引いていた。利鎌のような新月が空高く掛かり、この煙を透かして奇妙に輝いていた。最も、マイクロフトが言いたかったのは全く別の事だった。今までの幸福が他の人間より少なかったという事もあり、マイクロフトの精神状態は以前とは異なっていた。自分という人間を中心として全ての事が順調に回っていた。それがある日突然、誰よりも優れた自分という要素を余り重要としなくなったのである。他の人間、所謂自分より恐ろしく劣った人間を愛した事がなかった彼は、当然、自分の傍に誰かを置く事を知らない。置いたとしても距離感が分からない。利用が目的ならばどんな事であろうと容易いが、彼女を利用したいとは思わなかった。近付きたいと思っても、何処か離れていたいと思う。要は考え過ぎているのだ。有る事無い事、その区別なく幻想を抱いている。それは人を愛するという一種の幸福であろうが、彼にとってはもう十分過ぎる程に感じていた。──もう良いのではないか?そんな考えが、サラと会った日から頭の片隅にあった。ただ愛するだけで良いのではないか?……彼は誰も、愛した事はなかったが。