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Longing for your essence



彼女を見よう。早朝、マイクロフトは目を覚ますと真っ先にカーテンを開けた。まだ太陽は沈んでいたが、心から快活に、彼女を見よう、と思った。車で出勤する頃には太陽は現れるだろう。マイクロフトはサラと再会してから、空、特に太陽を仰ぎ見る事が多くなった。どんよりとした雲った天気が多いと思っていたのが、実際見てみると日の光が差していたり、途切れた雲の隙間から青空が見えたりする。彼女──サラを見よう。これでもう終日、他の願いはないように思われた。全てはこの期待の中に飲み込まれてしまうのであった。

あの灰色の瞳、深く聡明な表情。あの姿が何処に行っても付き纏った。現にも、恐らく夢にも、自分の魂の隅々まで満たしているのではないかと疑問に思う程であった。「魂」など曖昧で余り好きではない言葉であるが、こんなにも犇犇と、他人の存在をこの身に感じるなど今までなかった事であった。目を閉じると彼の頭の中に、内なる視力が集まる辺りに、サラの沈んだ色の瞳が現れる──彼の頭の中に。しかし、はっきりと言い表す事が出来ない。目を塞ぐと、常に其処にまざまざとある。海のように、深淵のように、あの双眸は彼の前に安らい、彼の内に留まって、彼の凡ゆる感覚を満たす。否、決して彼は彼自身を欺いているのではない。彼女の冷たい瞳の中には、彼と彼の運命への偽りならぬ共感が読み取れるのである。その事を確かに、彼は感じている。この点では自身の心を信じて良いのだが、サラは……。マイクロフトは腕時計を見た。短い針が八を指している。思い返してみれば、今日も彼女と会っていない。会わずして夜になっている。それもそうか、ずっと自分の部屋に籠っていたのだから。マイクロフトは何故か殆ど進んでいない仕事を其方退けで交通情報を調べた。
"地下鉄でストライキ"
次にサラのパソコンを見ると、数分前に電源が落とされていた。マイクロフトは席を立ち、車を回してくれるように運転手に電話を掛けた。機関内を大股で移動し、外へと出ると半ば走るようにしてその車に乗り込んだ。
「地下鉄の駅へ。通る道は私が言う」
サラはいつも此処から地下鉄まで最短ルートで行く。そして寄り道はしない。買い物は全て家の近くにある店で済ます。マイクロフトは運転手に次は右、或いは左と言いながら、車内から外の世界を見渡した。辺りは暗く、人々の疲れた顔は無駄に明るい店の蛍光灯で照らされていた。すると、地下鉄の駅が近付くに連れて人集りが目立った。地下鉄が利用できない為にタクシーを利用する者もおり、道路は混雑していた。マイクロフトは次第に苛立ち、車を停車させると降りて彼女を探す事にした。遠くまで見渡せる彼の長身と、然程時間が経っていなかった事もあり、サラが好んで着ているトレンチコートを見付ける事が出来た。「失礼」と断りを入れながら人混みを掻き分ける。人混みとは無縁の人生であった彼は終始眉間に皺を寄せ、「抗議をして一体何になるんだ?」と胸の内で独りごちた。
ああ、そうか、ストライキか──とサラは落胆した。タクシーで帰れば済む話なのだが、ただ何となく自分の計画が狂ってしまったように感じ、残念に思って佇立していた。すると誰かに肩を叩かれた。先程から通りすがりの人々の身体が絶えず当たっていた為に気の所為かとも思った。しかし背後にいたのはマイクロフト・ホームズであった。周りの人々とは異なる、上等な背広を着た長身の官僚がとても険しい表情を浮かべて其処にいた。
「ホームズさん」
「車がある。乗りたまえ」
マイクロフトの声は人々の抗議の声で殆ど聞こえなかった。しかし彼が指を背後に差した為に、付いて来いという意味という事が分かった。サラは人混みに埋もれている彼の後ろ姿を見ながら、この人はあの政府の建物内にいるべき人だと感じた。あの嘸かし迷惑だと言わんばかりの表情が、彼女にとって可笑しかった。人々の上に立つ、根っからの官僚である。
「すみません、助かりました」
「車で来た方が良い」
「そうします」
最後に運転手の扉が閉まると、人々の声やサイレンの音は聞こえなくなり、代わりにこの車のエンジン音が聞こえた。後部座席はセパレートになっており、随分と広かった。芳香剤は設置されておらず、革の純粋な香りが漂っていた。サラも車を持っているが、休日だけに乗る娯楽用、窮屈で乗り心地の余り良くない小さなスポーツカーであった。
「シートベルト」
マイクロフトの声で車内を観察していたサラが我に返った。シートベルトをすると、車がゆっくりと発進した。威圧感を放っている黒塗りの車はスムーズに進み、数秒の間にはあの混雑から抜けていた。
「ロンドンの構造は把握出来たかね」
「住んでいる辺りは」
車内から見る外の景色は自分が見ていたものと異なっていた。どの都会も、どんよりとしている。此処に移ってからまだ日は浅いが、この街に馴染む事はないだろうとサラは思った。彼女は窓の向こうから、隣にいるマイクロフトへと視線を転じた。先程の険しい表情はなく、彼も外を見ていたが、何も見ていないようだった。仕事に勤しんで一瞬の時間も無駄に過ごした事がない人は幾らでもいる。しかし仕事に几帳面で勤勉な事では、彼のような人は余り見た事がない。
「何処か寄る所は?」
マイクロフトは此方を見ていたサラの瞳を捉えた。その一瞥の強い魅力の前では、彼であっても数秒の間は全てを忘れた。英国、仕事、そして敵──彼自身を構成しているその全てを忘れ、人間の手で直接に彫られたような整った眼を見詰めた。そして彼は人間の目が美しいものだと初めて知ったのであった。
「いえ、ありません」
サラは優しく微笑みながら、じっとマイクロフトを見詰めた。目の前の彼が今何を考えているのか読み取る事が出来ない。しかし、単に親切な人間など限られている。マイクロフトは上着の内ポケットからメモを取り出し、すらすらとペンを走らせた。
「私の連絡先だ」
それは直通の電話番号であった。サラは益々彼の考えている事が分からなくなった。恐らくだが、一生、彼のような立場の人間に電話など掛ける事はない。何が目的なんだろうか。仕事上での利用が目的ならば、此処まで親しくなろうとはしない筈である。
「何かあれば連絡してくれて構わない」
サラに接するマイクロフトの態度は無造作で闊達であったが、その心も目も、彼女の言う事為す事の一つ一つを絶えず追い慕っていた。彼女の為なら何でもしたい。たったそれだけの、簡単で、清らかな気持ちであった。
「ありがとうございます」
「いや」
マイクロフトは窓の外を見た。自分はこれ程も多くのものを持っている。しかし、彼女を憧れる心は一切を呑み込んでしまう。私はこれ程も多くのものを持っている。しかし、彼女がなくては一切は無に帰するのではないか?そんな馬鹿な考えが真剣に彼自身の胸に浮かんだ。車が徐行し始め、やがて停車すると運転手が降りた。彼女の席の扉を開ける為である。
「おやすみ」
正に青銅の心と、大理石の顔とを持った男が抑揚なく言った。自分に優しい眼差しを注ぎながら……。その時、サラの胸の中で、心臓がゆっくりと緊張した鼓動を始めた事が分かった。心臓。初めからずっと其処にあったものだが、ある事を意識せずにいた。
「おやすみなさい」
電話しますね。そんな冗談が浮かんだが、言えなかった。サラは車を降りると、振り返りもせずに力ない足取りで家へ入った。手の中にある二つ折りのメモ。それが異物に思えて、彼女はそれをそっとテーブルの上に置いた。眺めれば眺めるほど不思議に、先程までの時間が幻想だったのではないかと思えた。この事を言葉で言って良いのだろうか?言う事が出来るだろうか?──彼は私を愛している。私を愛している。あの人が私を愛したとして、自分が自分にとってどれ程に価値あるものとなるだろうか。私は自分をどれ程に尊敬するだろうか。あの人が私を愛したとして。