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Faded in the sunshine and the snow



マイクロフト・ホームズは身の回りの整理が得意である。物の整理整頓は言うまでもないが、特に人間関係においては複雑さ一つない。所謂権力のある、付き合っていて自分にとって利のある人間は好むが、それも仕事の内と換算する。話をしていて段々と仲良くなるという典型的な関係に発展する人間などこの世にはおらず、いたとしてもその場限りであり、彼は直ぐに身の回りの整理をする。我に返ったように。
早朝。マイクロフトは身支度を整えると、早速迎えに来ている黒塗りの車に乗り込んだ。今日は安息日である為、道路には私服を着た人々が姿を現した。彼等を見て、最後に私服を着たのはいつだったかと思い出してみようとしたが出来なかった。英国政府には安息日など一生来ないように思われた。彼の家が遠くになるに連れ、まるで処刑台へ向かうような逼迫した顔が徐々に穏やかになっていった。独りが好きだが、家は余り好きではなかった。今まで仕事しかやって来なかった為に、空き時間にする事が何一つない。否、あるのだろうが、しようとは思わない。料理、掃除、趣味、家族、恋人。彼には何一つなかった。
仕事場は然程遠くはない。何より通勤時間が無駄と思え、近くに家を買ったが、帰るのは週に数回程度であった。車から降り、人気の少ない長い廊下を進む。来客が通る途中までは赤絨毯が敷かれており、その奥にある暗い、湿気が一段と感じられる廊下。其処にマイクロフトの部屋がある。彼には此処が真の家のように感じられた。パソコンを立ち上げ、部下が殆ど振るい落とした数個のメールを確認した。その中で一つ気になるものがあった。一人の諜報員が此方の部署に配属になったとの事である。マイクロフトはメールに添付された、その諜報員の経歴に目を通した。
"サラ・バラデュール"
国籍は英国であったが、聞いた事のない名字であった。これまでも珍しい名を持つ人間はいたが、発音が難しい名は初めてであった。高校卒業後、大学へは行かずに諜報機関に就職。所謂古株であった。表面上は何の問題もない人物である。しかしマイクロフトはどんな種類の人間であろうが信用しない。問題のない人間などいないからである。問題があるのは構わないが、此処でヘマをされると困る。受話器を取り、部下に電話をかけた。
『──はい』
部下は直ぐに出た。口に煙草を咥えているのだろう、籠もった声で返事をした。
「夜通しご苦労」
『どうも。で、何ですか?』
「此処に配属になった諜報員の監視を、」
マイクロフトは右手でマウスを操作し、もう一つ添付された物を見た。顔写真である。その履歴書に重なるようにして広げられたファイルを見た途端、何かがマイクロフトの頭を金槌で大きく叩いた。此方に向かって微笑する女──漆黒の髪に病弱そうな青白い肌、そしてシャッターの光で銀色に輝いている灰色の虹彩。その顔を、彼は見た事があったのである。最近ではない、殆ど意識を向ける事がない、随分と昔の事である。しかしどんなに昔の出来事であろうと、マイクロフトの記憶は鮮明であった。楽しい事、嫌な事、忘れたくない事、反対に忘れたいと思う事も全て思い出す事が出来る。上等な服に身を包んだ人で溢れたパーティー会場。時間が経つにつれ、生徒が施した会場の装飾が落ち始め、地面に転がる。小さなピンク色の風船を足でつんつんと突く一人の女子生徒。一点物の、光沢のある深緑色のワンピースを着ていた。傍には誰もいない。居心地が悪そうに、会場の真ん中にポツンといる。すると一人の女子生徒が彼女に駆け寄って言った。「サラ」と。顔写真の横、履歴書に印字されていたのは"サラ"。名字ばかりに気を取られ、名前を疎かにしていたのである。
『一ヶ月?』
部下が煙草に火を点けた。カチッという音で、マイクロフトの追憶が切れた。いつもなら一ヶ月頼み、どういう類の人間か分かると一週間程度で止めていた。問題がありそうなら田舎へ飛ばし、使えそうなら此処に置く。その判断を、今までずっとマイクロフトがしていた。牙城が一つあれば国は成り立つ。
「いや、半年。宜しく」
部下の何かしらの言葉を受け取る前に受話器を置くと、マイクロフトはその顔写真を注意深く見た。そして二つのファイルを閉じた。もう追憶する必要はなかった。

「初めまして。サラ・バラデュールです」
難なく発した音にマイクロフトは心地良さを感じる程であった。フランス語宛らに鼻から音を抜けさせ、それは我々が想像するスペルの音とは全く異なるものであった。握手の為に手を差し伸ばされるかと思ったが、それはなかった。
「バラデュール」
「ええ。私より発音がお上手ですね」
「たまたまだ。しかし、名前で呼ぶ事にするよ。マイクロフト・ホームズだ」
「宜しくお願いします、ホームズさん」
マイクロフトは感じざるを得なかった。不気味な運命の力が、もはや彼の力ではどうする事も出来ない恐ろしい勢いで彼に働いている事を。その灰色に沈む静謐さの中に、他でもない自分が映っている事を。