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Barachiel



甲板へと上がったコルヴォが見付けたのはサラの後ろ姿であった。彼女は黒い海や空を見ておらず、俯いてその場に佇立していた。コルヴォが窺うように注意深く見詰めていると、彼女は何やら手紙を読んでいる事が分かった。縁に置いている頼りない火のランプに照らされたその顔を見る事は出来ず、その後ろ姿は僅かに猫背になっており、思い詰めているようであった。暫くして彼女はその手紙に火を点けると、絶えず漂っている波風にそっと流し続けた。端まで焼け、灰になるまで彼女はそれを見ていたが、やがて彼の気配を感じ取り振り返った。コルヴォは目を細めて微笑した。彼にとってはすっかり、この表情が無意識の内に浮かび上がって来るのであった。サラの美しい表情は恐ろしい仮面で隠されていた。
「ソコロフが下で君の肖像画を描いていた。見たか?」
「いえ……まだですが、あなたのは見ましたよ」
サラは黒色に光った指の平同士を撫で合わせた。灰になってまでもあの手紙が名残惜しいという風に。コルヴォはその彼女にこの手で触れたかった。昨日のように、恋人宛らの──しかしあの時に触れてからというもの、己の一部が死んでしまったように感じた。心臓から絶えず押し出される血液には火が灯っているかのように熱いのに、彼女に触れた指先は氷宛らに冷たく、己の吐息は白い。「器用な男だ、ソコロフは」とコルヴォは呟いた。そんな息が口から出ては、己の前髪を揺らさずにそれらを鋭い氷の刃にした。
「明日は──遂にデリラですね」
「ああ、無上に待ち遠しい」
遥か遠くにカルナカの姿が現れている。ぽつぽつと街の明かりが浮かび上がっており、島全体が一つの巨大な船のようであった。その巨大な船は息を呑む程に美しかったが脆く、今直ぐにでも崩れ果ててしまいそうであった。其処に住む人々を守るのが、己の役目である。
「此処まで来られたのも、全ては運が見方をしてくれたお陰だ──今回も君に助けられたな」
コルヴォはサラを見た。彼女は己と同じ方向を見ていたが、彼女のその眼にはどう映っているのか分からない。しかし彼女から常に感じられる、不幸さと自己犠牲、この夜のように沈んだ魂が、今だけはその感じを抑えていた。
「ここ数ヶ月は生きた心地がしなかった。エミリーを本当に取り戻せるかどうか分からなかった──だがその一方で、楽しかったよ」
コルヴォも益々己を抑える事が出来なかった。サラには、己といる時だけは気を楽にして欲しかった。彼女の頭には常に他の事がある。だが共に時間を過ごせば、益々彼女は彼女自身の素朴な一面を見せてくれるに違いないとさえ思っていた。彼は恐る恐る、凍えて思い通りに動かない指先を彼女の方へと差し出した。警戒されないようにゆっくりと、己の潔白さが現れるように。嘗てこれ程に幸福だった事はないし、小さな石塊や草の葉に至るまでの全自然に対する感受性が、これ程にも充溢して切実だった事はない。コルヴォはサラの仮面に両手を添えると、そっと仮面を取った。このまま私は死ぬのではないだろうか?このまま船がひっくり返って、彼女と共にこの海に沈む。私の身体は凍っているから泳ぐ事も出来ずに、彼女はそんな私を助けようとするが出来ずに──そんな馬鹿げた疑問が真面目に胸に浮かんだ為に、彼は彼女の表情を真面に見る事が出来なかった。指先から腕、腕から心臓にその冷たさが伝わり、だんだんと機能を停止していく。彼は彼女と生きる事よりも、彼女と死ぬ事を望んでいた。しかし何にも増して──というのは、サラの優雅な物腰にも、素敵な顔の蒼白さにも、醜い手にも増して、彼の好奇心と空想を煽り立てたのは、この清らかな女性がある種の沈黙を守っている事であった。コルヴォは己が酷く相手を気に入っている事を認めずにはいられなかったし、また彼女の方でも恐らく、持ち前の才気と世故とで、彼から特別の遇いを受けている事位は疾うに気付いている筈である。それを今の今まで、彼女が自分の足元に跪く相手の姿を見ようとせず、その隠れた愛の告白を聞こうとしないのは、一体どういう訳であろう。彼女の躊躇いの因は何であろうか?
「サラ、私はこの日々の事を忘れない」
君の姿が何処に行っても付き纏う。夢にも、現にも、私の魂の隅々まで満たしている。目を閉じると、此処の額の中に、内なる視力が集まる辺りに、君の灰色の瞳が現れる。此処に……。だが、はっきりと言い表す事が出来ない。目を塞ぐと、いつも其処にまざまざとある。海のように、深淵のように、この双の瞳は私の前に安らい、私の内に留まって、この額のあらゆる感覚を満たす。
「明日、もし私がデリラを始末する事が出来たら、」
君の声は吹き渡る風に乗って伝わり、川のせせらぎの音にも君の声が聞こえる。君は昇る太陽の中にも姿を現し、落日の光の中にも美しき君が姿。君が一体何者なのか私には分からない。我が友愛は昔も今も変わらず、更に大きな、激しい思慕へと移り行く。君は遠くにあって、しかし常に近き存在である。君は私のものだ、我が喜びの泉。君の声に囲まれてこそ、我が生活は順調なのだ。例え我が身が滅ぶとも、君は永久に私のものだ。
「その時は、私と共にこの地の果てまで行かないか」
グランドパレス滞在の最後の夜に、コルヴォは生涯最高の、阻喪に似た幸せを味わった。サラへの愛はもう彼を悩ませず、動揺させなかった。その愛は彼の魂全体を満たし尽くし、彼自身の切り離せない一部となってしまった為に、彼は最早それに逆らおうとしなかった。しかしサラは黙ったままであった。その声、言葉、息が彼女の奥深くにしまわれていた。今までも、そしてこれからも、彼女という人間を知る事など不可能のように思えた。こんなにも直ぐ傍にいるのに、己のものにはならない。コルヴォは彼女の顔に刻まれた、三日月型の傷を親指の平でなぞった。血が移動する事を止めた血色の悪い指先は、彼女の体温も、彼女の鼓動も捉える事はない。手を離すべきだと思ったが、出来なかった。