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As through the land at eve we went



サラの方が一歩早かった。風を切るように軽快と走る身体にコルヴォは追い付く事が出来なかった。地面を蹴る敏捷な脚、絶えず血を送り出す頑健な心臓が、あの痩せて青白い彼女にはあった。彼の唐突で子供染みた提案に、彼女がこんなにも嬉しげに参加するとは思いもしなかった彼は、直ぐ前を走る彼女のそのしなやかな手をこの手に取りたいと思った。
「……降参だ」
もう随分と前、コルヴォがサラの姿を初めて見た最初の頃に偶然見たのと同じであった。楽しそうな、問い掛けるような光がその眼に輝いていた。仮面が遮り直接見る事は出来ないが、彼女の顔には優しい、悪戯っぽい表情が其処には確かにあった。息の上がっていないサラの華奢な肩に置こうとした左手をコルヴォはふと止めた。何年もその左手にはアウトサイダーの刻印があった。しかしクーデターの際にデリラに奪われてから其処には何もない。虚無にてアウトサイダーからその能力を受け取る事も出来たが、それをしなかった。
「結局、最後に頼りになるのは己の魂と誠の身体ですよ」
サラがコルヴォの視線を辿り、そう言った。──そうだ、サラだ。超常能力を持たない彼女が、もしあの時己の前に現れなかったら、きっと受け取っていただろう。そして今此処に流れている時も、全く別の時となっていただろう。
「その事を痛感している」
コルヴォは左手を強く握り締めた。歳を取ったものだ。昔のように超常能力で猛威を振るう事に、もはや何の魅力も意義も持たなくなった。あるのは魂と身体、ただそれだけで良い。彼はボートへと乗り込もうとしているサラの背後に近寄った。そして彼女の両手首を雲を掴むように捕らえた。
「油断したな」
「卑怯な、」
「鈍ったんじゃないか?」
コルヴォは楽しげに笑った。サラの持つ艶のある髪が彼の仮面に触れ、思わず彼は彼女の両手首を捕らえていたその手を緩めてしまった。その隙に彼女は彼の脚を取ろうとしたが、上手くいかずに体勢を崩した。彼はそんな彼女を抱き留めるようにして共にその場に倒れた。左手は彼女の後頭部に、右手は彼女の腰に添え、二つの鉄の仮面が触れ合い摩擦した事が分かった。冷たい地面の感触が皮膚に伝わると、コルヴォは弾かれるようにして密着していたサラから身体を起こした。
「仲間であっても警戒を解くとは、君らしくない」
コルヴォが仮面の下で目を細めて笑うと、途端に視界が揺れた。気に食わないと思ったサラが体勢を立て直したのだ。瞬く間に彼が下になり、彼女は彼に跨がった。彼の胸倉を掴んでいた手を離し、彼の首筋へとその手を持っていった。コルヴォはハッと息を呑んだ。それは地面に背中を打ち付けた衝撃が齎したものではなく、彼女が持つ本当の顔が直ぐ近くにあったからであった。逆転した際に二人の着けていた仮面が、サラの仮面はコルヴォによって、そしてコルヴォの仮面はサラによって弾かれたのである。暖かな色を帯びた夕暮れの光によって彼女の顔が明瞭に見えた。彼女の顔には左眉から頬骨にかけて三日月の形をした大きな傷痕が一つあった。ダンウォールにて再会した時からその傷には気が付いていた為、彼はそれが気になっていた。日の光が傷痕の薄い皮に差し、それを照らしていた。
「──その傷、何があった」
コルヴォは無意識の内に左手を伸ばした。戦闘で負ったものであるのだろうが、人の手によって故意に彫られたようなものにも見える。だがその手がサラの肌に触れる前に、彼女の手によって阻止された。穏やかに、だが薄い手の甲で遮るように拒絶され、彼は思わずその左手を引っ込めた。
「何も」
しかしサラの表情は殆ど変わらなかった。拒絶したのはただ単に触れて欲しくないだけであり、傷の事は大した事ではないといった風であった。彼女は僅かな微笑を一瞬浮かべた後、さっと立ち上がった。そしてコルヴォに手を差し出した。その黒革の手袋の下にある手は、一体どんな手なのだろう。己のように傷だらけだろうか。それとも、何の汚れもない淑やかな手だろうか。彼はその手を取り立ち上がった。彼女は彼の仮面をも拾い、それが持つ仕組みを興味深気に内側から観察していた。

高い星空や、新月や彗星などを眺めている内に、コルヴォは喜びに満ちた感激を覚えた。──ああ、何と気持ちが良い事だろう。この上に何が要るものか、と彼は考えた。しかしふと己の計画を思い出した時、急に目眩がし気分が悪くなって来たのであった。アダマイアを辞し、ドレッドフル・ウェールを見た時には彼は顔面蒼白であった。鉛宛らに重い頭を手で支えようとしたが、しなかった。彼は終始、仮面の下からサラの姿を見ていた。手袋越しに触れた手、そして己の腰に跨った柔らかな内腿。コルヴォは深く息を吸った。彼女の馥郁たる香りがすっかり彼の胸を満たした。このまま、こうして二人で……。もし己が娘を取り戻す事が出来ず、この海の遥かなる底へと沈む運命であっても、己は一向に構いはしない。彼女と共にあれば……死ぬ事さえも幸福に思える。だがもし己が娘を取り戻す事が出来たら、彼女はまたあの国へと戻るのだろうか。己の手の届かぬ、死に近い場所へと。例えそうなれば、滅び去った過去の残骸の中からこれだけの事を己は思い起こすだろう。そして過去は己に教える。己が愛したものは、何よりも愛するに価したものであったのだと。砂漠の中にも一つの泉は湧き出で、寂しい荒野にも一本の樹は立ち、寂寞の中にも一羽の鳥は囀る。己の魂に、君の事を囁きながら。