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To me, fair friend, you never can be old



その晩は蒸し暑く暗い晩だった。十時近くになると八方から凄まじい黒雲が押し寄せて来て、雷鳴が轟き滝宛らの雨が降り出した。雨は粒になって落ちて来るのではなく、何本もの流れになって地面を叩いた。稲妻が引っ切りなしに光り、空が明らむ度に五つまで数えられる程だった。ミーガンは船長室にて航海の記録を記しており、ソコロフとハイペシアは書斎にて何やら話をしていた。コルヴォにとってはすっかりこのドレッドフル・ウェールが己の居場所と化していた。此処で過ごす時間はダンウォールタワーよりも遥かに短いだろうが、己はこの日々の事を思い出すだろう。広い甲板、皆で話し合い計画を立てた部屋、ゆっくりと進む船の速度。絶望の中に希望の光として差したこの船と仲間の顔が、彼にとっては唯一無二の存在であった。決して己を裏切る事をしないたった数人の善良な人間がこの世にいて、己と巡り会う事が出来たのだ。復讐の念に捉われた時、彼等の善を思い出そう。善は人間を人間たらしめるものであるのだ。コルヴォは考え事をしながら船内を歩いていた。すると、ある一つの部屋にサラの姿を見付けた。其処は机と椅子と小さな本棚が置いてあるだけの、随分と広さのある部屋であった。彼は暫く廊下に佇立した後、その部屋へと入った。彼女は机の上に置かれてあるレコードプレーヤーをじっと見詰めていた。
「これ、どうやって操作するのか分からなくて」
「ああ、これは──」
下手に触ると壊してしまうと思ったのか、サラの両手はレコードプレーヤーの近くで宙に浮かせたままであった。コルヴォは彼女の隣に立ち、それに手を伸ばした。傍に立て掛けられていた、古びた用紙に包まれたレコードを取り出し、ターンテーブルにセットした。そしてアームを移動させ、針をそっと落とした。
「よくご存知ですね」
「見た事ないのか」
「ええ、初めて見ました。こんな便利な物、あの国にはありませんから」
サラは船内でも仮面を着けていた。食事をする時以外、彼女は好んでその仮面を身に纏った。しかし今は、あの黒革の手袋だけはしていなかった。衣服の袖から覗く細い手首、薄い皮膚で覆われた骨の出ている甲、そして長い指が露わになっていた。その指先に付いている爪は細長い形をしており、少しも爪は伸びていなかった。その手は、コルヴォの手と同様に傷だらけであった。小さなものだが一生治らない傷が幾つもあった。
「こういう曲、好きだなあ」
コルヴォにとっては当たり前の物、ダンウォールタワーにない物など殆どない贅沢な生活をしていた為、レコードを見ても音楽を聴いても、別に特別な事には感じられなかった。しかし今、彼の双眸に映っているサラは違った。明らかに己とは違う生活をしており、その国の文明の遅れを知った。彼女のその仮面の下には嬉しげな微笑を浮かべ、音楽を聴き入っている。彼がこの部屋に入るか入らない内から既に、己の全存在の中に彼女がいるのを感じた。
「何処か……此処とは違う、遠くへ行ってみたいと思った事はないか」
コルヴォは己の声が格別に響きの高い、貴族らしい上低音に聞こえた。聞き覚えのない声に彼は己自身で驚き、全く別の誰かがサラにそう言ったように思えた。人間は何処へ行こうと同じだ。己の目を通して世界を見るのだから当然である。しかし傍に誰がいるかによって景色が変わる。仰いで見る空は同じであっても、その太陽や星々は無上に美しく目に映る。それは愛する人の眼を通して見ているからであり、それで初めて彼等はその存在を明らかにするのである。
「その事しか、私の頭にはありません」
サラの声は明るく笑っていた。しかし彼女はにっこりと笑っているのではなく、一脈の哀愁の宿った微笑を含んでいるようにコルヴォには思えた。彼は彼女の横顔を見た。彼は今、己が別の世界に捕われているのを感じた。
「顔を見せて欲しい」
サラはコルヴォに戸惑う仕草を見せたが、やがて彼女は傷だらけの手で仮面を取った。恐ろしい仮面の下には美しい顔──しかし彼にとってはその仮面よりも恐ろしいものに見えた。このような彫刻宛らの整った顔立ちがあろうか。神の手で造られたような明眸を持っているが、彼女自身が持つ精神によりそれは臆病な美となり外へと現れている。それがこの上なく彼の胸を打った。
「……サラ、君を初めて見た日の事を覚えている。そして、最後に見た日の事も」
君は美しい人だ。初めて見た時から君はその美しさを保っている。話を続けながら、その灰色の瞳に私はどんなに見惚れていた事だろう。君がどれほど私を魂の底まで引き付けた事だろう。それも想像がつくだろう、君は私を知っているから。ボートから船に降りた時には、私はまるで夢を見ている人のようだった。辺りに黄昏れている世界の中で、まるで私だけが現心がなかった。その為に、燭火輝くこの部屋に響いている音楽も殆ど聞こえない程であった。
「手を」
品位と優雅さの溢れた動作で、サラは微笑を浮かべてコルヴォに自分の細い、しなやかな手を差し伸べた。彼女は彼を見上げた。数秒の間、二人は黙って互いの目を見詰めていた。すると遠くて、不可能な事が急に、近くで、可能な、必ず実現するものになった。
「余所者である我々は似た者同士だった」
太陽の下に最も愛する彼女を、この腕の中に掻き抱く事が出来たら。そう思っていた事が再びコルヴォの胸に現れた。そして彼はサラのその細い痩せた手を取り、無意識の内に幾らか長くそれを己の手に握ったままにしていた。本当に、この手、この顔、この眼、私には掛け離れた宝物のような女性の魅力が全部、本当にこれが全部、永久に私のものに、己にとって私自身と同じように、身近なものになるのだろうか?否、そんな事ある筈がない……。コルヴォはサラを恐る恐るその胸に抱き締めた。右手は彼女の手を握り、左手は彼女の背中に添えた。彼女の呼吸、そして心臓の鼓動が初めて彼の身に迫り、渇望していた彼女の魂の存在を感じる事が出来た。しかし彼女はいつだって彼の魂の前にいた。
「君には──、」
サラには恋人がいた。彼はまめまめしい愛情と仕事に勤しみ、それでありながらいつも快活で、晴れやかな気質を失った事がなかった。彼は宮廷でも評判が良く、仕事に几帳面で勤勉な事では、彼のような人は余り見た事がなかった。しかし彼はエミリーが即位する直前の、圧政の中に姿を消した。疫病にかかったか、その手の者に殺害されたかは分からなかった。
「……私は何もかも忘れようと決意しました」
コルヴォは彼の事、サラの事、二人の愛の事を考え、彼女の過去に嫉妬をしたり、その事で自分を責めたり許したりしていた。必要なのだ、どんなに奇妙で、どんなに不可能でも、この幸福が。あらゆる事をしなければならないのだ、彼女と共に生きる為に。コルヴォは心に言った。右耳が捉えたサラの声は今にも泣き出しそうな声であった。しかし彼女の静かであろう眼元は、枯れる程に涙を流した為に潤む事はなかった。
「人間の記憶は、そう簡単には忘れる事は出来ない」
人間は愛する者とはいつか別れなくてはならない。この世には何一つ変化しないものはない。大樹があり、その一つの大きな枝が枯れ落ちても、大樹はなお堅固に生き続ける。コルヴォは時々不可解な気がした。己がこれ程にもただこの人だけをこれ程にも熱く、これ程に胸一杯に愛し、己は沢山の事を知り、沢山のものを持っているのにも関わらず、どうして今も尚あの死んだ男がこの人を愛する事が出来るのだろう?愛する事が許されるのだろう?
「コルヴォ卿、眠りましょう」
サラの右手が優しく数回、コルヴォの背中を叩いた。彼女の背中に添えていた左手を離すと、彼女は背後に数歩下がり、彼から身体を離した。しかし彼が握っていた彼女の手だけは離さなかった。コルヴォにはここ毎晩が、サラと過ごす最後の夜のように思われたのである。
「おやすみ」
コルヴォはやっと手を離した。愛おしいサラに優しく微笑みかけると、彼女は眼を伏せ、部屋から出て行った。彼は耳に届いた音楽を聴きながら、暫くその場に佇立していた。何もする気が起こらなかった。ただ己の心臓の鼓動は、ただ一人、彼女の為にしているように感じられた。──あの人を私に許したまえ。そして、あの人を私に与えたまえ。たった数分の間ではあったが、あの人が己のもののような気がした。おやすみ、私の愛するサラ・バラデュール。サラ・バラデュール。骨の髄まで慄きが伝わった。コルヴォは彼女の名を何度も繰り返した。

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