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Sand in our skin and sun in our eyes



心の肉が裂ける事によって生じる心の傷は、どれ程奇妙な感じがするにしても肉体の傷と全く同様に、深い傷が癒り、一見両端がくっ付いたように見えてから、心の傷は肉体の傷と同様に内から湧き出る生命力によって初めて癒る。たった今見ていたサラの蒼ざめた顔には虚ろな眼が付いていた。──ああ、このような際限のない悪夢は堪らない。己の想像の中からこの顔を追い退けようとしながらコルヴォはこう考えた。しかしこの顔は彼の前に現実の力強さをもって立っているのみならず、却って段々と彼の方へ寄って来た。彼は以前の純粋な思想の世界へ帰ろうとしたが出来なかった。悪夢は益々深く彼を己の領域へと引き入れるのであった。低い囁くような声は規則正しい呟きを続け、何かあるものが依然として圧しつけ広がっており、異様な顔はじっと彼の前に立っていた。コルヴォは一生懸命我に返ろうとして身を動かした。途端、俄かに耳鳴りがし、目が曇って来た。彼は水の底へと沈んだ人のように意識を失ってしまった。そして漸く我に返った時、サラの姿がその目に映った。かの新しい神宛らの純潔な愛をもって、世界中の誰よりももっと強く愛したいと思う、その生きたサラが目の前に跪いていたのである。これは本当に生きたサラだと悟った。彼は驚きもせず、却って静かな喜びを感じた。「コルヴォ卿」と彼女は己の名前を呼んだ。
「ああ、すまない。少し眠っていた」
コルヴォは甲板に設置された大きな机の傍にあるベンチに横になっていた。机には砂塵地区の地図やアラミス・スティルトン邸の写真などの情報が散らかっており、彼は潜入ルートを頭の中で幾つも考えて出していた。アントン・ソコロフの容体は少しずつ回復しており、キリン・ジンドッシュとブリアナ・アシュワースの二人を無力化する事に成功した。残るはルカ・アベールとデリラである。己の故郷にて様々な事が起ころうとしている。若い頃は悩み事が多かった。しかし今とは悩みの質が違う。今では決して解決しないであろう悩みの方が殆どであり、其方に気を取られて小さな悩みには気を取られなくなってしまった。
「毛布を持って来たのですが、起こしてしまいましたね」
「いや、起きようと思っていたから良いんだ──それは貰っておこう」
「まだ此処に?」
「地形を頭に入れてから部屋へ戻る」
コルヴォは身体を起こし、目の端を指で押した。眠る事によって幾らか頭は冴えたが、肝心の疲労は取れなかった。恐らく今面している物事が何らかの形で終焉を迎えるまで、この疲労は続くだろう。彼はサラから毛布を受け取り、傍に置いた。黄昏時になるに従って空は晴天になり、風は全く静まった。魅せられるような晴れ渡った夕暮れであった。くっきりと鮮やかに夕陽が沈んでいこうとしていた。海面は油を流したようであり、太陽がその上を照らしていた。こんな美しい光景がまたとあろうかと彼は思った。ダンウォールタワーから見る空と、船から見る空とでは全く別物であるかのように異なっていた。
「例の偵察地にはもう十年か」
今日の新聞記事を眺めているサラにコルヴォは言った。彼は手を伸ばし、ランプに火を点けた。小さく朧げな光だが、その光が照らしている彼女──美しい灰色の眼の中で溶け合っている崇厳と謙抑の表情は限りなく魅惑的であった。思わず彼は穴が開く程、その表情に見惚れた。
「そう……ですね。そんなに経ったという自覚はありませんが」
「どうだ?あの国は」
「砂漠しかありませんよ」
殆ど同時にサラの顔は俄かに真面目な、気掛かりげな表情になった。つと悲しみの影が差したようにも見え、それがコルヴォを驚かせた。彼は今まで彼女のそんな顔を見た事はなかったし、想像した事もなかった。
「無量の砂と、青空と、古い遺跡しか」
サラの声には和やかな色が帯びたが、変わらず顔には沈んだ微笑を浮かべていた。その胸には今、何を思い描いているのだろうか。その親切で潔白な眼には何が映っているのだろうか。彼女は少しだけその国の話をした。どれも手紙には書かれていない、何ともない話であったが、彼女の心が捉えたその国の感じや、その国が持つ美しさなどを短い言葉で語った。コルヴォは如何にも寂しそうな、と同時に如何にも優しい微笑を浮かべながら、じっと彼女を見詰め続けていた。まるで彼女がまだ言い尽くさなかったかも知れない残りのものを理解しようと願っているようだった。
「再びダンウォールに戻る気はないか」
サラはコルヴォを真面に見た。深い色をした茶色の虹彩は、自分を理解したいという願望をもう隠してはいなかった。彼の胸の中で心臓がゆっくりと、緊張した鼓動を始めた事が見て取れた。しかし彼女は何か未来に関わる事に触れるのを避けていた。この物事の終焉の先にある新たな未来の事である。
「この十年は、私にとってどの時よりも貴重でした。何よりも……」
サラが出会ったのは、じっと自分に注がれる不安そうな、痛々しいまで気掛かりげなコルヴォの眼差しであった。其処には愛があった。自分を愛しているという眼差し、日の光ではなく彼の崇高な精神活動が齎す明るい光が差した真剣な眼差しであった。
「戻って欲しいですか?」
「ああ」
「出来る事なら」とコルヴォは付け加えた。もっとも、彼が言いたかったのは何か別の事であった。太陽の下に最も愛するサラを、この腕の中に掻き抱く事が出来たら──彼女は綺麗だ。彼女のような人は未だ見た事がない。慎ましやかだが、その一瞥には強い魅力が宿っている。その唇の赤さ、その生命の輝き。己はこの世の続く限り忘れる事は出来ない。彼女が眼を伏せた様子は深く己の胸に刻み付けられた。どうかいつまでもその綺麗な眼を開けていて欲しい。君の心が傷付くような事からは避け、どうかその尊い名前を大切にして欲しい。己が望む事は君の平和だ……。

コルヴォは私室のベッドに横たわると、サラの部屋がある方へと視線を向けた。彼は長い間眠らずに、目を開けたまま自分の空想や波風の音に耳を澄ましていた。そして以前に崩れ去ってしまった世界が今、新しい美しさをもって何か新しい、揺るぎない基礎の上に、彼の心の中で聳え立っていくのを感じていた。