×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

Who art as black as hell, as dark as night



コルヴォ・アッターノが約十年振りに見たサラ・バラデュールは痩せて青白くなっていた。しかしそれが彼女を見間違える程に変えていたのではなかった。その姿を捉えた最初の瞬間に彼女の顔が見分けられなかったのは、以前はその眼の中に常に秘められた生の喜びの微笑が光っていたのが、今では微笑の影さえもなかったからである。その眼にあったのはただ注意を凝らした、気立ての良い、悲しく問い掛けるような眼だけであった。コルヴォの動揺はサラの動揺となって映じはしなかった。ただ満足となって微かに目に付く程度に彼女の顔全体を明るくしただけであった。
「暫くだな」
コルヴォはもう一度青白く痩せた、灰色の眼と彫刻宛らの顔立ちをした相手の顔を見た。彼の深い目──何か身近な、随分と前に忘れていた、感じが良いというより以上のもの──が、彼女のその注意を凝らした眼を見詰めた。
「私の顔を覚えていたのですね」
サラの声はコルヴォが記憶していたものと全く同じものであった。清らかな、静謐の中に流れる音宛らの声が、彼の持つ過去の思い出を呼び覚ました。彼女の眼がコルヴォをじっと見詰め、錆び付いたドアが開くように微笑した。
「再びこの目で君を見られた事が、私には信じられないよ」
そしてその開いたドアから不意に、ずっと前に忘れてしまっていた、特に今は考えてもいなかった幸福の香りが漂って来てコルヴォを包んだ。それは彼の全てを包み、呑み尽くした。彼女が微笑んだ時、彼の中にあった疑いは有り得ないものとなった。目の前にいるのはサラだった。若かりし頃、共に此処ダンウォールで衛兵として働いた。そして彼はこの人を愛していたのだ。
「私もです」
信頼出来る、数少ない人間として。疫病が流行し、女王が暗殺されてから、コルヴォは身の回りの整理には特に敏感になっていた。誰にどの情報を流すか、誰にどの行動をさせるか、常に考え予測した。しかしただ一人、サラだけは特別であった。彼女はこの世に生を受けた誰もが望むものを一切望まなかった。彼女という人間は正にこの国に仕える忠実な兵士であった。
「文では伝えられない事とは一体何だ」
コルヴォは信頼出来る彼女にある国の偵察任務を依頼した。その国は長年この国との関係が上手くいっておらず、国家が抱える情報が自国民にも殆ど公開されていない秘密主義の国であった。依頼したのは最後に会った十年前であり、それから一度も彼女は帰国しておらず、毎月コルヴォの元に届けられる暗号文の中には彼が望んでいた情報のみが書かれてあった。ただ今回だけは、直接会って話がしたいと最後に一言添えられていたのである。
「南部で不穏な動きが」
「ああ、その事なら感知している」
何故サラは帰国しようとしなかったか。当初、偵察任務は一年の筈であった。しかし待てど暮らせど彼女は帰って来ない。いつまで経っても相変わらず文は届き、コルヴォに様々な事を伝えた。留まった理由は、彼女はこの国を外から見る必要があると思った為である。国を内から見るのはコルヴォの役目であり、外から見るのは自分──決して裏切らない人間。自分のような、自分の人生に何の問いもしない人間が必要であると思ったのである。
「しかしそれは地方当局の仕事だ。我々がすべき事はもっと他にある」
コルヴォはサラのような稀有な人間を大切にしていた。秘密主義の国では入国が困難であり、その国が持つ文明や文化も曖昧である。コルヴォが彼女の身の安全を危惧して送った工作員も、彼女の手によって無傷で送り返されるという事が幾度かあった。彼女はこの国にいた月日よりも長くその国で暮らしており、完全に溶け込む事に成功したのである。
「とは言え、わざわざ他国から警告に上がってくれた事に感謝する」
「いえ……」
サラはコルヴォの顔を見上げた。自分の知っている彼──何者も信用せず、警戒を怠る事を知らない──は昔に死んだように思えた。宮殿での暮らしが彼を柔和にし、怜悧な頭を働かせなくなったのだろう。常に死が傍にあった頃とは全くの別人である。威のある一瞥もその双眸にはすっかり消え失せていた。
「此処まで来るのに疲れただろう。ダンウォールタワーで休むと良い。部屋を用意させる」
サラはその言葉に小さく頷き、持っていた鉄の仮面を着けた。正直のところ疲れは殆ど感じていなかった。長い船旅は好きであったし、久々にこの地に足を踏み入れる事が出来たという喜びもあった。外は晴れ晴れと爽やかに、大地は露に満ちて如何にも楽しげであった。たった今雲間を出たばかりの太陽は、しっとり露の降りた道の埃にも、家々の壁にも、塀の窓にも、波止場の船にも、半ば雲で屈折された光線を反対側の屋並越しに浴せていた。サラはふと足を止めた。眼前にダンウォールタワーがあった。自分は紛れもなくこの国の人間であると思わせるシンボルが、彼女の仮面を通してその瞳に映った。
「懐かしいか」
「はい。もう何年もこの景色を見ていませんから」
「随分と変わっただろう──この国は衰退する一方だ」
国民の見窄らしい服装と険しい表情。決して豊かとは言えぬ生活、そして人口も随分と減ったように感じた。大通りでも人が少なく、閉まっている店が多い。建築物も以前は古さでもってその美しさを放っていたが、今ではその殆どが廃墟と化していた。しかしこのような中でも貴族の地位を保っている者もあれば、貴族から労働者階級に落ちた者もいる。あの疫病から国民の生活は一変した。穏やかな波を寄せている海には幾多もの死体が投げ込まれ、誰が死んだかも分からず、名前が彫られた墓も建てられなかった。サラは海からコルヴォへと瞳を転じた。しかし彼はその前から彼女の横顔を見ていた為に、二人は真面に見詰め合った。
「髪を切られたのですね」
「あの時私は確か、長髪だったか」
「ええ」
此処まで色んな事があった。君がこの国にいない間に話し切れないような事が沢山……忙しい中にも小さな幸福はあった。しかし君には、君だけには、私と共にこの国に留まって欲しかった。君が傍にいてくれさえすれば、頭の働かない連中と仕事をする羽目にはならなかった筈である。
「時代の流れというのは奇妙なものだ」
サラの持つ独特な雰囲気には、変わらずはっきりとした個性が表れていた。一語を口にする毎に、新しい魅力、新しい精神の輝きが、面差しから射して来るのが見られた。今、胸一杯に味わっている甘美な季節の日、それと等しい爽やかさが、コルヴォの魂を残る暇なく浸していた。安らぎにも似たそれは、他の誰でもない彼女が齎すものであった。