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The crimson rivers



サラが持つ、彫刻のような深緑の桃花眼はただ一つ、一面に広がる大空を映していた。ウェスカーは何も考えなかったし、考えるつもりもなかった。しかし幻覚は次々と現れては消え、始めも終わりもなく、何の脈絡もない切れ切れの考えが頭にちらついた。ある想念──非常に明瞭であるが、それだけにまた恐ろしい想念が、彼に落ち着きを与えなかった。サラの死という想念が、生まれて初めて端的に恐ろしく、まざまざと、殆ど正確無比な事のように彼の心に浮かんできた。しかもその考えは実際生活に何の関係もなければ、また彼女の死が他人にどんな影響を与えるかというような心配でもなく、ただ彼自身、即ち彼の心に関するものであった。この観念の頂きから見下ろすと、以前自分を苦しめたり、自分の心を支配したりしていた全てのものは、突然冷ややかな白光に照らし出された。其処には影もなければ、遠近もなく、また輪郭の跡さえなかった。彼には全生涯が幻灯宛らに思われた。彼はそのレンズを透かして人工的な光線で、長い間人生を眺めていた。ところが今、急にレンズを取って燦然たる真昼の光で、この拙劣に塗りたくられた人生を見たのであった。この先に何があるのか、ウェスカーは皆目分からなかった。魂をかけて実行した計画も、注いだ情熱も、全てが空であったように思えた。そうだとしたら、今までの私の人生は一体何であったのだ。重苦しい、汚染された空気を彼は肺一杯に吸った。そして汚れていない方の手で、サラの目蓋を閉じた。私は今までどれ程多くの人間を憎んだ事だろう。しかし私は全ての人々の中で、この女ほど烈しく愛しもし、憎みもした者はない。ウェスカーは横たわっている彼女をまざまざと見詰めた。しかしそれは今までのように彼女の美、自分にとって喜ばしい美のみを見たのではない。彼は初めて彼女の魂を思ってみたのである。彼女の感情、苦痛、羞恥、悔恨を理解したのである。彼は今初めて自分の拒絶の残忍さを明瞭に悟った。彼女との絶縁の冷酷さを知った。──私はただの一度でも、彼女を幸せにした事はなかった。たった一言、あの眼を見ながら言いたい事があった……。この追憶は快感と苦痛を伴いながら、またもや彼を病的な感覚へ導き入れた。

赫赫とした溶岩に身体を飲み込まれる前に、ウェスカーはその双眸を通してあるものを見た。彼の頭上には高い空──晴れ渡ってはいないが、それでも測り知る事が出来ない程の高い空と、その面を這って行く灰色の雲の他に何もない。何という静かな、穏やかな、崇厳な事だろう。私の人生とは別物だ。我々が走ったり、喚いたり、争ったりしていた事とは別物だ。この高い無限の空を這っている雲の佇まいは全く別物だ。何故私は今までこの高い空を見なかったんだろうか──いや、サラだけは見ていた。彼女は気が付いていたのだ。我々の頭上に広がっている、この不変の事実に──この無限の空以外のものは、みな空であり、みな偽りだったという事だ。この空以外には何もない。静寂と平安の他に何もないのだ。ウェスカーは己の胸の中で、心臓がゆっくりと、緊張した鼓動を始めた事を感じた。彼はサラの最期を想起した。彼女の眼差し一つにも、日の光と幸福とが宿っていた。どんなに私は、君を愛していた事だろう──君こそが空に最後まで消えぬ、たった一つの星であったという訳だ。君の胸は感じ易いが、変わり易くはない。君の心は優しいが、砕けるものではない。なべてのものの失われる時も、君の心ばかりは変わる事はなく、とこしえに揺るぎもしなかった。かくも試練に耐えた心のある限り、地上は決して砂漠ではなかった──この私にとってさえ。死にゆく身体に脈々と流れる血液。その中にはただ彼女の面影があった。最期の一時まで、ウェスカーの胸は許される限りの清らかさで澄み渡ったのだった。