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Never sleep



人は死にかけている動物を見ると恐怖に捉われる。自分自身に他ならないもの、自分の本質であるものが、自分の目の前でまざまざと消滅していく──存在をやめていくのだ。しかし死んでいくのが人間であれば、しかも愛する、生々しく感じられる人間であれば、生の消滅を前にした恐怖の他に、引き裂かれた事と精神的な傷とが感じられる。そしてその傷は肉体の傷と同じように、時には死に至り、時には全快するのだが、いずれにしても必ず痛み、また、痛みを掻き立てるような外からの接触を恐れる。
婚約者の死後、サラはこの事を強く感じていた。彼女は精神的に身を縮め、頭上に迫っている、恐ろしい死の雲に眼を半ば閉じて、生を真面に見詰めるのを恐れていた。彼女は容赦なく痛みを掻き立てるような接触を避けて、開いた傷口を用心深く庇っていた。全てが──東から昇る太陽、通りを素早く走り過ぎる車、人々の声──そして更に悪い事に、傷の痛みを掻き立てる、心の込もっていない、いい加減な同情の言葉など全てが侮辱に思えた。まだ自分の脳裏で鳴り止まぬ、恐ろしい、厳しい声に聞き入ろうとする為になくてはならない静寂を、全てのものが掻き乱し、彼女の前に現れた、不可思議な、果てしなく遠い彼方を見詰めようとするのを妨げるのだった。
『それとも、死人みたいに暮らす?』
サラはバーの言葉を今でも覚えていた。未来に関わる事全てに触れるのを避けていた時に、彼女はバーと出会った。バーという人間は、サラの全く新しい人生において、一つの星雲の、その渦の中心に位置する人物であった。他と何ら変わらぬ、一定の、ひっそりとした目立たぬ光を放つ星なのだが、サラにとっては正に最も輝いている巨星であった。バーはリチャード・ローパーを打倒する計画を持ち掛け、サラは躊躇なく首を縦に振ったのだった。婚約者の死は、直接ではなくともローパーが関係した為であった。しかし、作戦は復讐ではなく、ただの生きる意味として彼女を捉えたのであった。
最愛の人の死の記憶は随分と古いものだったが、深く自分の心臓へ血が出る程に食い込んでいるという事をサラはしみじみと感じた。彼女はこの血生臭い記憶の痕が決して癒えないばかりか、却って時が経つに従って、益々意地悪く、益々残酷に、生涯自分の心に生きるに違いないという事をはっきり思い知ったのである。以前、彼女の頭上に広がっていた、無限に遠く高い蒼空は、急に低い、頭を押さえるような丸天井へと変わった。何もかも明瞭であるが、しかし永久な神秘的なところは綺麗に隠れてしまった。

ローパーはフォークで魚を刺した。彼の傍には大勢の家族──仕事仲間やその血縁──がその顔に笑みを浮かべ、白い歯を覗かせていた。此処のどの料理が美味いだの、一方でどの料理は彼処より劣っているだの、くだらない雑談をしては満足げに食事をしていた。ローパーはその魚を咀嚼しながら、今この場にいないある人物の記憶を思い浮かべた。漆黒の髪に、稀有な深緑色の眸を持つ女──ローパーはサラを思い起こしたのである。それはある商談で初めて見たサラであった。首も手も淑やかで、今にも歓喜に移る事の出来そうな可憐な女である一方で、無上に何かに怯えた色を顔に表していたサラであった。約一年、そんな彼女は家族の集いに参加していない。彼女の仕事は麻薬の密売であった。親密な繋がりがあって初めて成り立つ為に、彼女は現場を離れる事を忌み嫌った。もし彼女が今此処にいたら、同じように笑ったり、話したりするだろうか。ローパーは彼女の笑った表情を今まで見た事がなかった。人を寄せ付けず、人と親しくなろうという気がないサラは、姿こそ見せないが誠実であり、必ずローパーに成果を出して見せた。ローパーは何より有能さを期待する。楽しく笑う事が許されるのは、役に立っている人間だけである。すると彼の心には、彼女に対する恋しさと懐かしさが、嘗て経験した事のないような活気と力をもって目を覚ました。それはポケットの中で震えた端末と共に、益々彼の胸に迫った。端末の画面には"サラ・バラデュール"と表示されていた。フォークを置いたローパーが操作をすると、五分後に電話を掛けるという内容のメールであった。彼は静かに立ち上がり、賑やかな場を辞した。魚の味も、会話の内容も、彼の頭には一つとして残っていなかった。ただ今から体験する新しい事柄に彼は惹かれていたのだった。
ローパーは端末を耳に当てた。小さな機械から聞こえたサラの声は、寄せる波の音や鴎の声などに全く劣らずに明瞭に彼へと届いた。その声は彼のどの記憶にもない、新しいものであった。大人の女の声──あの怯えた表情とは全く異なる、怜悧で従容としたものであった。そしてその声はローパーに対し短かな挨拶をし終えると、仕事の事を伝えた。前と変わった事は取引範囲が拡大した事。そして今のところ仕事は順調であるという事であった。
「サラ」
彼女の名を口にすると、ローパーは自分自身でも分からない気後れを、いや寧ろ怖いような気持ちを感じた。そしてそれと同時に、彼女に対してのみ感じられる、感激に満ちた憐憫と愛とがローパーの胸を一杯にした。今、彼の青い目に映っている薄暗い空や海が持つ静謐の中でそれらは確かに輝いた。
「一度、帰って来い」
ローパーは一年前の事を思い起こした。サラと別れた日の事を、彼は忘れた事がなかった。彼女は人に見送られる事も嫌っており──彼女は少し気難しいところがある──飛行場で彼に見せた憂鬱な表情を、いつでもローパーはその目蓋に浮かばせていた。半ばからかうようにして手を振った彼の心は、その行動とは裏腹に、彼女を自分の傍に留まらせたいというものであった。わざわざ危険を晒してまで、女である君がする事ではない。そう思っていても彼女には言えなかった。彼女は仕事をする事によって生きているようなものである事を彼は知っていたからである。少し痛むであろう傷は望外に痛み続け、ローパーの意識はこの海や向こうにある山を越えてサラを訪ねては、ひとり虚しくなるのであった。彼女は暫く間を置き、二日後には其方に着くと言った。ローパーはそれに対し返事をし、電話を切った。僅か五分の通話であった。彼はもう一度顔を上げ、心を動かすものへと変わった景色を見た。ローパーは仕事や仲間との対話など何をしていても、その胸には彼女の事を思い描いていた事に気が付いた。何とも言えない甘い夢想の、虜になってしまったみたいに。

Mayer Hawthorne - Back Seat Lover