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The one doth shadow of your beauty show



ハウスは直ぐにそれがサラだと分かった。それは黒髪の影から覗いている横顔の為というより寧ろ、忽ち彼を捉えた、そっと労わるような気持ちと、恐ろしさと、憐みの気持ちの為であった。サラは自分の考えに沈んでいる様子で、上等なトレンチコートを靡かせながらスタスタと歩いていた。ハウスはそんな彼女の顔を見詰めた。それは彼がこれまで見ていたのと同じ顔であった。やはりその中には内面的、精神的な営みが全体的に現れていたが、それは今全く別の光を帯びていた。悲しみと祈り、期待の、胸を打つような表情がその顔には浮かんでいた。ハウスは我に返った。部下三人が揃って自分の顔を見詰めている事に気が付いたが、彼は特技になっている嫌味や他のどんな言葉も今は思い付かなかった。
「……治療を続けろ」
そう言ってハウスは大股でオフィスを出た。部下の一人に背後から「どの治療ですか?」という間抜けな質問を飛ばされたが、ハウスには何も答えなかった。廊下にはサラの姿はなく、既にエレベーターに乗り下へと向かっていた。何故彼女は手が悪いんだ?脚が悪ければ追い付くのに。そう思いながらハウスは、閉まりかけたエレベーターの扉を杖で阻止して乗り込んだ。今日が彼女の受診日だった事は知っていた。しかし午後の筈だ。予約を変更したのか?ハウスはエレベーターから降りると人混みを押し退け、進んだ。歩く限界である45メートルにも達していないのに、彼の脚は鉛宛らに重く感じられた。身長が高い為に直ぐにサラを見付ける事が出来た。だがその途端、鋭い痛みがハウスの右脚に走った。半ば走るようにして歩いた為に負担がかかったのである。ハウスは立ち止まり、思わず右の太腿に手を添えた。そうか、午前に飲む筈のバイコディンをまだ飲んでいない。彼は頭を上げた。サラは出入口で看護師と何やら話をしていた。咄嗟にハウスは持っていた杖を放り投げ、その場に倒れた。其処にいる彼女に聞こえるように大声を出して。すると、たまたま傍にいた看護師や親切な見知らぬ人間が彼に駆け寄った。ハウスは地面に手を付き、そんな彼らを見上げながらも、その中に彼女がいるかを探した。
「ハウス先生?」
やはり、電話で聞くのと実際に聞くのとは違う。そうだこの声だ──とハウスはその青い目をサラへと転じた。自分に注がれている、漆黒の髪から覗く深緑色の眸。彼女は転んだ彼を心配しているというよりも、目の前にいる彼が本当にハウスかどうかを思い出している様子だった。彼女を除く周りの顔や姿の全てが、彼にとっては全くの無意味であった。「躓いただけだ」とハウスは無愛想に、自分を囲んでいる人々に散るよう手を振った。そして看護師から手渡された杖を掴んで起き上がろうとした。するとサラの左手がハウスの腕を掴んだ。立ち上がる彼を支えようとしたのだ。これで俺が倒れたら、彼女は俺を支えるどころか共倒れだ。だから、掴んでいるその手には意味がない。ハウスはそう思ったが、黙ったまま身体を起こした。
「君、なかなか歩くのが早いな」
「職場を抜け出して来たんです」
「俺が上司だったら君は即クビだ」
サラは笑った。クビになったら嘸かし嬉しいといった顔であった。だがまた直ぐに、こんな病院早く出て行きたいといった顔に変わった。病院が好きな患者など殆どいない。二人は並んで歩き、出入口の手前で立ち止まった。
「え、雨?」
「傘はどうした」
ハウスは外を見ているサラの横顔を見た。昼から降ると予報が出ていた筈である。ハウスは降るであろう雨の中をバイクで帰宅する気にはなれず、家に置いて来たのだった。しかし彼女は天気の事など全く考えていない風であった。
「そうか、傘は持てないんだったな」
「ハウス先生と違って走れるので要りません」
「失礼だな。俺は走れない振りをしてるんだ」
するとサラがドアに手をかけた。なんと近くのバス停まで走って行く気らしい。傘を広げたり畳んだりするのは面倒だし、それだったら濡れた方がいいと彼女は思っているに違いない。
「まあ待て。今、傘を持って来てやるから」
ハウスは彼女の返事を待たずに、大嫌いな外来診察室へと足を運んだ。その中では名前も知らない医師が診察中であったが、ハウスは傘立てから傘を一本取った。「脳の悪い患者が忘れた物だ」と言い放ち、サラの元へと戻った。彼女は其処で大人しく待っていた。ハウスは「紳士だろ」と言って傘を彼女に差し出した。サラが左手でそれを受け取ろうとすると、彼はその傘を引っ込めた。
「手が一つしかない。俺が持ってやる」
「ありがとうございます。走れない振り、板に付いてますね」
「演技の才能もあるなんて俺は恵まれてる」
二人は病院を出た。雨は然程強くなかった。ハウスはサラが左肩に提げている革の鞄を見た。右肩に提げたいのだろうが不便なのだろう。ハウスは左手で持っている傘を彼女の方へとそっと傾けた。
「検査結果はどうだった」
「異常なしでしたよ」
「言葉の使い方を間違えてるぞ」
異常なし、というのは彼女の場合、この前と何も変わらないという事である。手術も出来なければ治る望みも今のところはないという意味がその診断にはある。ハウスはサラをちらりと見た。先程廊下で見た、悲しみと期待の表情の理由はそれであった。何かしらの奇跡が自分に起きて、手術をする事が出来、右手が動くのではないかと僅かに期待していたのだろう。
「ま、無理に手術して、何処かしら不随になるよりはマシだな。ところで週末空いてるか?」
「は?」
俯きかけていたサラの顔がハウスを見上げた。深緑色の眸が真っ直ぐに彼の目を捉える。希有な色だ。今は曇っていて暗いが、春や夏の明るい光が差すと色が変わる筈である。ハウスはその眸を見た。
「そんな難しい質問でもしたか?週末空いてるか聞いたんだ」
するとサラは戸惑った顔をした。そして暫く黙り込んだ。どういう理由で断ろうかと考えているのだろう。ハウスは異常な程に高鳴り始めた鼓動を感じながら前を向いた。バス停は直ぐ其処であった。
「それはデートの誘いですか?」
「ガキじゃあるまいし、大勢で集まって騒ぐとでも思ったか?男と女が会ってする事といえば一つだ」
最高のジョークのつもりで言ったのが、彼女には響かなかったらしい。その言葉に《セックス》と付け加えたかったが、ハウスは止めた。身体目当てならば此処まで付き添わない。わざわざ傘まで持って馬鹿みたいだ。彼女はその事を分かっていなさそうだが。
「食事だけでしたら」
「君が恐ろしい程にモテない理由が分かった」
「失礼ですね。モテて仕方がありませんよ」
そう言ってサラは微笑した。だがその双眸には一脈の哀愁が浮かんでいるのが見えた。嘗ての彼女の病院──誰も見舞いに来ない静寂な病室がハウスの頭に浮かんだ。彼女はモテないというより、モテないように気を付けている人種だ。モテる事を面倒事のように思っている。ハウスは今直ぐにでも雰囲気のあるレストランをネットで調べたかった。友好関係が狭い彼には、異性と行くレストランなど一つも思い付かなかった。彼女は俺に、一体どんな姿や表情を見せてくれるのだろうか。俺は、その日を良い日にしたい。思い出に残るような……俺は彼女を大切に思っている。彼女にとっても良い日になるように。
バス停には既に人集りがあった。バスが来るにはまだ少し時間があり、ハウスは静かに待っているサラに声をかけた。
「試しにこの傘を持ってみろ。リハビリだ」
「ハウス先生もリハビリやってないでしょう」
「つべこべ言うな。さっさと持て」
「その傘重そうだし、絶対持てませんよ」
「やってみないと分からないだろ?ほら」
ハウスはサラに開いた傘を差し出した。彼女は気が乗らないという顔をしていたが、やがて右手を動かした。少し浮腫んだ右手がぎこちなく、その傘に向かって差し伸ばされた。だが力が入らないのだろう、左手で右手首を固定し、傘の方へと持って行った。ハウスはその様子を見て結末が分かったが、何もせずただ待った。彼女の右の手の平に持ち手が嵌ると、ハウスはそっと傘から手を離した。だがその途端、持ち手はすっぽりと彼女の手の平から抜け、水浸しの地面に虚しく転がった。雨が降る中、思わず二人は顔を見合わせた。彼女は予想通りだったと言わんばかりの顔で、ハウスはただそんな彼女の眸を見詰めていた。その一瞬、ハウスとサラは、誰にとっても興味のない不必要な人間のように、まるで林の中にでもいるように、縁もゆかりもない群衆の間に淋しく立っていた。
「……ほらね、言ったじゃないですか」
屈んで傘を拾おうとしたサラであったが、左肩に提げていた鞄がずれ落ち、鞄の中身が濡れた地面へ飛び出た。それを見ていたハウスは彼女と同じように屈もうとしたが、その途中で再び右脚に痛みが走った。薬を飲むのをまた忘れていたのである。
「イタタタタ、」
「ハウス先生も私も役に立たないなあ」
サラはそう言って笑った。先に転がった傘を拾い、右脚を摩っているハウスに手渡した。彼は資料を左手だけで掻き集めている彼女の頭上にその傘を広げた。そして痛みを我慢して彼も一緒に物を拾おうとしたが、彼女の荷物は酷く少なかった為に、もうそれらは鞄の中に仕舞われていた。サラは立ち上がると、再び左肩に鞄を提げた。彼女の着ているトレンチコートやその鞄は幾つもの水滴を弾いていた。ハウスはポケットに手を突っ込んだが、ハンカチなんて物はなく、ただバイコディンの容器があるだけであった。ハウスは不自然な身振りで彼女の肩を軽く叩いた。水滴は落ちていったが、彼女は嘸かし不思議そうにハウスを見上げていた。

The Dip - O.P. Jebediah