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ハウスは鞄の奥底に眠っていた端末を取り出した。時計を見ると午後八時だった。彼は連絡帳を開き、登録されている数少ない連絡先を眺めた。そしてある一人の女の電話番号を選択し、端末を耳に当てた。彼女の忙しさは医師である俺といい勝負をしている。まだ職場だろうか。こうやって電話で簡単に診察が出来たら楽だろうに。まあ、そんなものは、彼女の場合、何の役にも立たないが。ハウスがこうして考えている間にも呼び出し音は鳴り続け、随分と時間が経ってから相手は電話に出た。
『──はい』
ハウスとしてはまさか出るとは思っていなかった為、彼は端末を耳に当てたまま固まった。久し振りに聞いたサラの声は何も変わらず、ただ少し疲れていそうな声であった。そんな彼女に掛ける言葉を用意しておらず、彼は口を僅かに開いたまま宙を見た。気の利いた言葉を何一つ知らなかった。
『もしもし、ハウス先生?』
聞き慣れている筈の自分の名だったが、何故だかサラが発音すると異なった音に聞こえた。彼女が自分の名を言うのを聞くと、ハウスは自分自身でも分からない気後れを、いや寧ろ怖いような気持ちを感じるのだった。サラはハウスが以前勤めていた病院の患者であった。彼の担当患者ではなかったが、軽度の手術をした際に何故か昏睡状態に陥り、ハウスがその原因を突き止めた。彼女は元々先天性の脳の病気を抱えており、長年服用していた薬の配合が間違っていたのである。その為に手術で服用した薬と相性が悪く、昏睡状態を引き起こしたという訳である。配合を間違えていた医師は他の病院の医師であった為に、彼女は強制退院させられる事となった。他の病院の責任を負う事は何処もしない。ハウスはサラの病室の前を通りかかった際、ガラス張りの向こうに横たわった彼女の姿に初めてその青い目を転じた。彼女はただひたすらに不自由な右手でペンを持つ練習をしていた。薬と一人の医師の不注意で死にかけたにも関わらず、誰も見舞いに来ない静かな病室で一人、ペンを相手にしていたのである。外来診察をサボる目的でハウスはその病室へと入った。すると見知らぬ無表情の男が突然入って来たものだから、彼女は酷く驚いてそのペンを右手で弾き飛ばした。ハウスは地面を勢いよく転がって来るペンを足で止め、それを拾い上げた。そして気が付くとこんな言葉を言っていた。《左手を使え。右手はもう駄目なんだから。》大抵は眉を寄せる言葉だが、彼女はそれは思い付かなかったと微笑したのである。
「やあ、調子はどうだ」
やっと出て来た言葉にも彼は不満であった。調子、というのもしっくり来ないな……。ハウスは左手で端末を持ち、右手でボールを持った。サラはハウスに感じの良い印象を与えた。あの時、あのような特別な状況で彼女に会った為に、ハウスはサラに特別の注意を向けた。そして彼はその病院をクビになると、彼女に一つ電話をかけた。かかっていたその出来損ないの病院を去り、新しく自分が就職した病院で定期受診を受ける事を勧めたのである。プレインズボロ教育病院へ彼女が初めて受診に訪れた際、ハウスはたまたま居合わせた。電話でもそうであったが、彼女は彼にその深緑色の眸を細め、柔らかな表情を浮かべて少しばかりの雑談をした。彼女は既に左手で全ての事をこなしていた。その時のサラのその印象は感じが良いばかりでなく、強いものであった。たった数回しか会っていないのにも関わらず、彼の頭には彼女の存在があった。ハウスはその時自分が彼女の中に発見した、並外れた、精神的な美に打たれたのである。サラと再会した事が自分の予測していた以上に深く、また自分が心の平安の為に望んでいた以上に深く、心に食い入った。あの青白く痩せた、寂しそうな顔、あのきらきら光る眼差し、あの静かで優美な身のこなし、それに何より彼女の顔全体に現れている、あの深い楚々した悲しみが彼の心を騒がせ、その同情を呼び求めた。ハウスは男性の中に高い精神活動の現れを見る事は嫌で堪らなかったし、それを馬鹿にして哲学とか、空想癖などと言っていた。しかしサラの場合、ハウスは他でもない、自分には無縁な精神世界の深みを残りなく示しているその悲しみの中に、逆らい難い魅力を感じたのだった。彼女は少し……違うというか、特殊だ。ハウスはボールを宙に投げた。この右手が、彼女にはあってないようなものなのだ。
「脳の調子は」
ハウスは言葉を言い換えた。脳、と直接に言った方が医師らしい響きがあった。サラは脳動静脈奇形という病気を持っている。脳の動脈と静脈の間に異常な血管の塊が出来、毛細血管を通らずに脳の動脈の血液が脳の静脈に直接流れ込む。この為に高い動脈の圧力がその血管の塊や静脈に直接かかる事になり、破裂しやすい。もし破裂すると脳内出血やくも膜下出血を引き起こす。治療法はある。だがいずれも大きさや場所による為、完治する人としない人がいる。彼女の場合、それが出来た場所が悪い為に治療が出来ず、根治は奇跡でも起こらない限り永遠に望めない。薬で抑えるしかないのである。その薬の配合を間違えるなど、とんだヤブ医者がいたものだ。
『今のところ、普通に生活を送れています』
「それは良い事だ」
普通に、というのは皮肉である。すると、車のエンジン音が電話越しに聞こえた。音が周囲に響いていた為、其処は道路ではない事が分かった。
「駐車場か?」
『はい、そうですけど』
「君は運転するのか」
見慣れている身体障害者一級の手帳がハウスの頭に浮かんだ。左手だけで車を動かしている彼女の姿を想像する事は難しかった。まあ、人の事は言えないが。
『左手があるので』
サラが電話の向こうで少し笑った。その言葉にハウスはドキリとした。自分の言った言葉が、彼女のその胸の内にある。そうだ、手は二つある。だから一つが使えなくなったって死ぬ訳ではない。ただ不便になるだけである。しかし本人は、無上に辛いだろうが。
「もう直ぐ定期受診の日だな。連絡、来たか?」
『はい、来ましたよ』
「それまでに君の脳の血管が破裂しない事を祈る」
『祈っても意味がないって言ってませんでした?』
「言ったか?そんな事」
『座右の銘でしょう』
「周りに信者がいると面倒だ、もうそんな事は言うなよ」
ハウスはバレないように笑って、ボールを再び宙に投げた。そうだ、祈っても神は聞いてはいない。しかしハウスは彼女の為ならば何でもするつもりであった。意味のない事でも、彼女の為ならば何かしらの意味があるように思われたのである。
『──では、もう切りますね』
「ああ」とハウスが応えると、通信が切れる音がした。途端、ハウスのポケットの中にある呼び出し機が煩く鳴り響いた。遂に患者が心停止をしたらしい。ハウスはもう一度、左手で持っている端末の画面を見た。サラ・バラデュール。今この瞬間、何処か遠くへ行ってしまって一人きりになれるのであれば、例えそれが一生涯続こうと彼は幸福に思っただろう。だが問題は、ここ数年もの間ずっと独りでいるのに、どうしても彼には自分が独りであるという実感が湧かない点であった。寂しい場所へ、遠くへ行けば行く程、却って強く誰かが身近にいるような意識を唆られたのである。それは人が大勢いる職場にいても同じであった。ハウスはもし自分が何もかも自由だったら、どうするかを思い描いてみようとした。どういう風に自分が彼女に接したら、彼女は自分の大切な人になってくれるだろうか?しかし彼はそれを思い浮かべる事が出来なかった。彼は空恐ろしくなり、はっきりとした想像は何一つ浮かんで来なかった。他の誰か──若いだけの女や新米看護師など──となら、彼は直ぐに未来の情景を作り上げる事が出来た。それは全て頭で拵えたものである上に、彼はその鋭い洞察力から彼女達の中にあるものを何もかも知る事が出来るからこそ単純明快だった。ところが、サラが相手だと将来の人生を思い描く事が出来なかった。というのは、彼は彼女を理解しておらず、ただ愛しているだけだったからである。