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Let us not rove, let us sit at home with the cause



小雪は顔を背け、遠い景色や、河の水や、空や、太陽を眺めた。空はなんとも言えぬ程に美しく見えた。なんという蒼さ、静けさ、深さなのだろうか。また沈み行く太陽は、なんという輝かしい神々しさを持っている事か。遥かな河の水は、なんという柔らかな光沢を帯びて閃いている事か。また遠く河の彼方に蒼んで見える山々、寺院、神秘めかしい狭、頂まで霧のかかった松林、これらのものは更に見事であった……あそこは静かで、幸福に満ちている。もし私があそこにさえいたら、何も、何も望まなかっただろう。本当に何一つ望まなかっただろうに。私一人と、そしてあの太陽の中には無量の幸福がある。それなのに此処は…….呻吟と苦痛と恐怖しかない。今、私の周りに立ち塞がっているのがそうだ、死だ……ちょっと目を瞬きさせる暇に、私はもうこの太陽も、この水も、この狭も見る事が出来なくなるのだ……。

任務から帰還した小雪は治療に専念した。特に右腕の完治には時間がかかると言われ、その間は里内の任務を務める事になった。小雪は下忍レベルの任務を熟しながら、幾度となくあの男の事を考えた。かつての同胞の、あの憂愁を帯びた眼差しを。あのような人間は幾らでもいる。救いや告白を求め生きても与えられず、幸福と無縁のままに死んでいく。そんな境涯を送る人間が今もこの里で生まれ、育っていると思うと小雪は一様に恐怖の念を感じた。任務の依頼主に礼を言われ、小雪は笑って少しばかり話をし、別れた。やはり、このような任務は性に合わない。里内で顔を覚えられるのは避けたかったし、表立つ任務には慣れていなかった。しかし毎日何かをやっていないと気分が沈んだ。死んだあの男の事を考えるのを止めたいが為に、小雪は朝から晩まで働いた。

「小雪!」
小雪が顔を上げると、向こうから満面の笑みを浮かべたガイが此方へ走って来るのが見えた。背中に荷物を背負っているのが見えた為に任務帰りと分かった。久し振りに会う、元気そうな恋人の姿に彼女は微笑んで応えた。しかし利き腕を使う事が出来ないのに気が付き、彼女は左手でガイに手を振った。
「右腕の調子はどうだ?」
傍に来た彼からは豊かな森の匂いがした。その匂いで彼女は再びあの任務の事を思い出した。たった一人、死を覚悟して抜け忍を追った数日間。好きな筈であった森の匂いを終始感じる事が出来ずに、あの男の代わりに自分が生き延びた。あの時ほど、無上に孤独を感じた事はなかった……。小雪はガイの視線を巡って自分の右腕を見た。服で隠しているが、その布の下には包帯で巻かれた、人間の物とは思えない程の惨憺な腕がある。身体機能の低下、或いはそれが完全停止する為に、生きている内にたった数回しか発動出来ない血継限界を小雪は持っている。その数少ない機会の一つをあの男の為に発動したのである。
「良いよ」
しかしガイにはとてもそうは思えなかった。笑顔を浮かべて何でもない振りをしているが、ガイには彼女の心持ちが分かっていた。血継限界を発動した事、そして彼女が苦衷と忿懣を抱えているという事も。
「小雪」
「うん?」
お互いに任務の事は一度も聞かなかった。それが忍の暗黙の了解であったし、特に裏方の任務はそれが掟になっている。
「任務で何があった」
しかしガイは彼女に何か話して欲しかった。その胸の内を誰かに打ち明けたいと思っているのなら、自分は何でも聞く事が出来る。彼女の役に立てるのならば、自分は非常に幸福であると。ガイは一脈の哀愁の宿った微笑を含んでいる小雪を見た。彼女は禁術を使った。死ぬつもりだったのだろうか──すると、澄み渡っていた小雪の眼はたちまち曇り、そこには続いて異常な輝きが示されていた。大粒の涙が一滴溢れたと思うと、頬に一本、銀の筋を引いて流れ落ちた。ただあの男が哀れで、不憫で、小雪は自分の右腕を餞別としたかったのである。自分はあの男の傍にいる事が出来たし、支える事が出来た筈である。しかしそれを、自分はしなかった。彼の幸福を考えずに、自分の幸福を見出す事に必死になっていたのだ。小雪が涙を堪えるように、唇を強く噛んだ。そして肩を震わせ、左手で顔を覆った。里を守る事だけに身を捧げて来た。しかし、里を守るという事はその里の人間に寄り添い、共に歩むという事でもある。自分は何も、分かっていなかったのだ──小雪は思わず利き腕に力を込めた。僅かな力でも、その骨や筋肉は悲鳴を上げた。ガイはそんな彼女の右腕に手で触れ、恋人をそっと抱き締めた。
「小雪、星が綺麗だ」
ガイは夜空を仰いだ。この里から見る空をガイは特別に愛していた。そして彼は自分の頬を彼女の柔らかな髪に当てた──時が癒すと言うが実際は違う。気休めに過ぎないが、痛みには慣れるものだ。誰かを失くすと、人は有りもしない答えを求める。だがそこには二つの事実がある。一つは、決して元には戻れないという事だ。その死を埋められるものなど何処にもない。そしてもう一つは、事実を受け入れ苦しめば……また心の中で会えるという事である。痛みから逃げては駄目だ。逃げると失う。思い出全てを、一つ残らず。だから苦しめ、小雪。とことん悲しむんだ。
「朝までお前の傍にいるよ」
お前が一歩でも脇へ外れると、俺はお前の手を掴んで何度でも引き戻す。お前の瞳にかけていうが、俺はお前を見捨てる事はしない。小雪、お前は愛し愛される為に生きているのだ。ガイは沈んだ優しい色を顔に表した。お前の尊き一点を忘れないで、勝ち続けろ。俺達は生きなければならないのだ。